第141話 【真珠】「すべてが欲しい」
「貴志、あと、これは念の為伝えておかないといけないと思うので言うんだけど―――発情されても相手はできない、よ? 分かっていると思うけど、わたしの身体は子供だから、あと最低でも10年くらいは何もできない―――と、思う。」
貴志が呆気に取られて「は!? お前は一体何を言っているんだ⁉」と、今までにない、大変困惑した声をあげた。
何故こんなに大慌てなのだろう?
「貴志、どうしたの? 人体構造や青年男子の持つ健全な生理現象―――発情現象については理解しているよ。でも、わたしの生身の身体はコレだ。だから、あと10年、いや本当はもうちょっと待ってほしいところなんだけど……。」
わたしの話を茫然自失の様相で聞いていた彼が、弾かれたように言葉を放つ。
「発じょ……っ て、お前は! また突拍子もないことを―――10年って、まだ高校生だろう!? 駄目に決まっているだろう。当たり前だ!」
わたしはそんなにおかしなことを口にしたのだろうか。
貴志は、わたしが今までお目にかかったことのないような唖然とした表情をその顔に浮かべている。
父親のような気分にでもなっているのかもしれない。
「貴志が声を荒げる理由がよく分からないんだけど、生命に課せられた使命は次世代に命をつなぐことだよね? だから、好きになったら、普通そういうことをしたくなるんじゃないの? わたしもそれは未知の経験だから人並みに興味はあるし、貴志がいつかそれをわたしに望むのならば、然るべき対応をしたいと思っているんだけど?」
貴志は、いつもの冷静さを失い、かなり気が動転しているようだ。珍しい。
「お前は意味を分かって発言しているのか!? ……頭が痛い―――穂高と話をしている気分だ。」
何が問題なのか、さっぱり分からない。
わたしは首を傾げる。
「貴志は、そういう気持ちはないの?―――じゃあ、仮に、わたしが将来的に発情したらどうしたらいいの?」
その科白の後、貴志は深い溜め息をつき、頭を抱えてしまった。
「……いや、もういい。お前とこういった話をすること自体が想定外だ。あまりに衝撃的すぎて、今は何も考えられない。まさかそんな情緒の欠片もない言葉が飛び出すとは……―――いや、なんとなく想像できていた自分が、怖い。」
貴志が「咲の言っていた恋愛音痴と言う言葉が、こんなところにも当てはまるとは……」とブツブツ呟いている。
咲也め。そんなことをぬかしておったのか⁉
しかし、貴志のお困りポイントが全く理解できない。更に首を傾げ、訝し気に彼を見つめた。
彼はわたしの『心』を欲している―――それは演奏で分かった。
わたしも彼の『心』を欲している―――彼の演奏によって気づいた。
けれど、当たり前だが、今はそういった大人の関係を求めているわけではない―――それも、分かった。
でも、わたしは触れたい、触れてほしいと思っている。
これは、つまり、そういう大人の階段をいつか貴志と登りたいという、心の意思表示なのではないかと思っている。
それも、彼が『主人公』ではなくわたしを選んでくれたらの話なのだけれど、今から検討に検討を重ねて、心の準備をする必要がある。
だが、現状に於いて、貴志との関係をどう進めて行ったらよいのか全く分からない。
現状打破するための頼みの綱だった貴志は、何故か思考停止状態らしく、その件については何も答えてくれない。
わたしは、名状しがたい気持ちになり、その心情を表すため、不貞腐れたように仰向けにソファへ倒れ込んだ。
もう、完全にお手上げた。彼への対応方法は、
「これじゃあ、どうしたらいいのか分からないよ。貴志は、わたしに何を望むの?」
貴志は、わたしの態度を隣から眺めつつ、苦笑している。
「何も―――今は何も望んでいない。ただ、お前が笑っているだけでいい。今までと変わらずに、そばにいてくれるだけでいいんだ。」
なるほど―――今までと変わらなくていいのか。
ホッとしたような、けれど、どこか残念な気持ちが胸の中に湧き起こる。
「分かった。『今』の二人の在り方については理解できたよ。でも、いつか、わたしが貴志の目から見て大人になったら?―――あ、いや……、もしその時に、貴志の心の中にわたしがいたらの場合だよ? もしかしたら、他に惹かれる人が現れているかもしれないし。」
わたしの言葉に貴志が目を見開き、一瞬だけ複雑な光を瞳に浮かべた後、感情を押し殺したような声を出す。
「俺に関しては、今後、他になんて有り得ない―――でも、そうだな……お前には、まだ色々な出会いがあるからな―――」
「違うよ! そういう意味じゃない。」
彼の言葉を受けて、咄嗟に起き上がろうとした。けれど、貴志が横たわるわたしの顔の両側に手をつき、真上から見下ろしていたので、それは敵わなかった。
「もし、お前が大人になった時、今と変わらず俺を想う気持ちがあったなら―――」
貴志の冷たい右手が、頬に触れた。
わたしはその真剣な眼差しに身じろぎもできず、彼をただ見上げるだけだ。
その右手が首筋を辿り、人差し指が心臓の位置にトンと置かれる。
彼は、その双眸に切ないまでの熱を宿し、艶のある声音で囁く。
「―――その時は、お前の全てが欲しい。」
彼から放たれた言葉を受け止めた瞬間、呼吸が止まり、身体中の血液が沸騰した。
目眩のような感覚が訪れ、背筋を駆け上がるゾクゾクとした甘い痺れが全身を支配する。
脳天を突き上げるような浮遊感が生まれ、熱を持ってジワリと広がる。
その直後、身体全体の力が突然消失したような奇妙な違和感に襲われた。
わたしの顔は赤面しているのだろう、熱くてたまらず、息ができない。
駄目だ。力が入らない。
情けないことに立ち上がれない。
もう、泣きたい。
わたしは、貴志の声にあてられたようで、足腰の感覚が突如として消えた。
信じたくはないが、彼の声で腰を抜かしてしまったようだ。
この事態に恥じ入り、逃げ出したいがそれさえできない。
咄嗟に両手で顔を隠す。恥ずかしさで目尻に涙が溜まる。
「真珠? どうした? 大丈夫か⁉」
貴志は、わたしの身に何が起きているのか理解できず、大慌てだ―――が、その状況が分かった途端、口元に手を当てて吹き出すように笑い出した。
「悪かった―――が、これくらいのことで腰を抜かしていたら、身体がいくつあっても足りないぞ? 『発情』する前に修行が必要だな。」
文句のひとつも言いたいが、言葉がまったく出てこない。
激しい動悸に、胸を押さえることしかできない情けない有様だ。
時計を確認した貴志が立ち上がり、内線電話をかける。
加山の部屋に連絡を入れているようだ。
わたしが腰を抜かして動けないので、リハーサル前に理香へ預けたいと伝えているようだ。
受話器の向こうから、理香と咲也の賑やかな声が届く。
二人とも大きな声で貴志に文句を言っているので、ここまでその会話が聞こえた。
『ちょっと、貴志、どういうこと? 真珠に何をしたのよ?』
『おい、貴志。お前、まさかっ』
二人の言葉に、貴志は深い溜め息を落とし「もう、あらぬ誤解をうけることに疲れた」と言ってから、わたしを抱えて移動を開始する。
腰が抜けているため、いつもの縦抱きができない。今はお姫様抱っこで移動中だ。
「本当にすまなかった。まさか、腰を抜かすとは思わなかった。」
移動中、貴志から先程の件を謝られたが、わたしは首を左右に振るだけだ。
声だけで腰を抜かすことになるとは、なんと恐ろしい。こんな身体症状に見舞われるとは想像だにできなかった。
「全部、
わたしは羞恥に身悶えて、半ベソ状態だ。
もうこの話題から、早々に離脱したい。
貴志が困ったように微笑んだあと、慈しむような眼差しでわたしを包み込み、静かに口を開いた。
「お前が大人になった時に、すべて欲しいと言ったのは本心だ―――そこから先の……人生も含めて。」
その科白に、目を見開いて、息を呑む。
―――その言葉は、もしかして……?
喉元が熱くなり、声を出せずに黙り込んだ。
わたしが大人になった時、今と同じように彼がわたしを望んでくれたら良いのに―――そう思ったけれど……口には出さなかった。
この先、『この音』の世界がどうなっていくのか、今のわたしには分からない。
わたしが『この世界』に落ちてきたことで、予測のできない未来へと舵を切って進んでいるのは間違いない。
それに、貴志の心を『主人公』を含め、誰か別の女性が連れ去る可能性だってある。
あのゲーム中の、影を背負った『葛城貴志』は、もうここにはいない。
今、わたしの目の前にいる彼は、『この音』の『葛城貴志』よりも穏やかに笑い、他人に手を差し伸べる余裕があり、人の心に寄り添う優しさを持った、本来あるべき姿とは違う青年になっている。
彼のその身から生まれる艶やかさと気品は然ることながら、『葛城貴志』とは比較にならないほどの魅力を湛えているのだ。
ゲーム中の彼を遥かに凌駕する輝きを内包した貴志は、わたしの知る彼とは全く別の人生を歩むことになるだろう。それも10年という長い時間を。
わたしがこれから沢山の人と出会うように、彼も様々な人と交流をしていく筈だ。
『葛城貴志』が出会わなかった人物と、今の彼が出会い、惹かれ合うこともあるかもしれない。
誰かに特別な想いを寄せると、こんなにも複雑な気持ちが生まれるのか。
わたしは小さく溜め息をつき、貴志の胸に身を寄せて顔を隠した。
彼の心音が耳に届く。その鼓動を聞いていると何故か安心できる。
貴志の腕に身を任せ、静かに空を見上げた。
夕闇迫る時間帯。
貴志たちの三重奏のリハーサル後、夕食を摂り、その後は兄のピアノ演奏が始まる。
貴志の腕の中から見上げた空には、大きな満月が輝きを灯し始めていた。
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