第140話 【真珠】貴志、困惑す。
驚いた。
「貴志? 大丈夫? どうしたの?」
初めて見た―――彼の涙を。
慌てて近寄ろうとするわたしを手で制した彼は、そのままの体勢を保ちながら、もう一方の手の甲を口元に当てた。
本人も零れ落ちた涙に驚いているのか、茫然としている。
わたしは傍に近づくこともできず、その様子を静かに見守るしかなかった。
彼が零した一粒の雫―――それは、美しい宝石のようだった。
…
貴志が口元を隠し、動揺しているのが分かる。
見る見るうちに顔が赤くなったかと思うと、彼はそのままソファの背もたれに、身を預けるようにして倒れ込んだ。
わたしはバイオリンをケースに戻すと、どうにも手持ち無沙汰になり、組んだ指をモジモジさせながら「待て」の姿勢で待機中だ。
近くに行きたいのに、貴志が許可してくれない。
深呼吸をした彼はソファに座り直すと、わたしを見つめて微笑んだ。
傍に行っても大丈夫だろうか?
今日だけは、少し甘えてもいいだろうか?
わたしのそんな様子を察知した彼が、破顔した後ゆっくりと手招きをする。
近づく許可をもらえたことが嬉しくて、笑顔を浮かべてそそくさと傍に寄る。
貴志の前に立つと、彼はわたしを抱き上げ、膝の上に乗せてくれた。
向かい合ってその瞳を見詰めていると、吸い込まれそうになる。
ずっと見ていると自分が何を仕出かすのかわからなくなり、そのまま彼の首に抱きついた。
貴志がわたしの耳元でポツリと呟く。
「すまない―――かなり……驚いている。」
抱きついたまま、わたしは質問する。
「涙が出たことに、そんなに驚いたの?」
一拍置いて、彼は少し
「いや、それもあるが―――お前の演奏に一番驚いた。お前が、こういった心の機微を持ち合わせているとは……正直、思わなかった。」
へ!?―――彼は、いま何と!?
サラッと
わたしは眉間に皺を寄せながらも、彼の話を黙って聞く。
「嫌われてはいない―――どちらかというと、好かれているのは感じていた。俺の演奏中に感じたお前の気持ち、その後に見せたお前の態度で、もしやとも思った……だが―――まさか……こんな……ここまでとは……。」
少し身体を離して彼を見ると、耳まで真っ赤になっている。その様子を見ていると、こちらまで居たたまれなくなる。
わたしはこんなにも、貴志を悶えさせるような演奏をしたのだろうか。
ただ只管に、彼への想いを込めたことしか思い出せない。
「そんな態度をされると、こっちが余計に恥ずかしいよ……しかも、わたし、ちょっと侮辱されてる? 何とも言えない、やるせない気持ちになっているんだけど……。」
わたしは将来起こるかもしれない不安と、今現在の自分の気持ちの狭間で揺れ動きながらも、返礼の演奏をしたというのに―――この男は!
貴志め。
伊佐子を含めた全生涯において、初の乙女モードを炸裂させたわたしに対して、まるで感情欠落人間のように語るこの態度は、一体どういうことなのか?
いや、でも、確かに、わたしはこういう男女間の恋愛感情という繊細な世界には無縁だったし、自分でもこの心の動きにびっくり仰天状態なのは否めない。
この想いを音色にのせてはみたものの、正直言って今後、どうしていいのかもよく分かっていない。
これが妙齢の女性であるならば、交際などが始まり、目くるめく愛の日々を送ることになるのだろうが、わたしは
そして、貴志もそういうことは求めていない。それは『触れない』と宣言していたことからもうかがえる。そんな彼の意志を、子供の我が儘によって「触れてほしい」とゴリ押しし、妥協点を提示したのが、何を隠そうこのわたしだ。
こやつも、わたしからそんなお願いをされはしたが、どうしたらいいのだろうと思い悩んでいる状態なのかもしれない。
「ねえ、こういった経験が豊富だと思われる貴志に質問があるんだけど、いいかな?―――現状に於いて、今後のわたしはどういう方向で貴志と向き合ったらいいの?」
わたしの質問に貴志が固まった。
ひどく困惑しているように見える。
けれど、戸惑っているのはこちらも同じだ―――と言うか、わたしの方が「どうしていいのか分からない度」は間違いなく高い。
全てにおいて、未知の世界なのだ。
貴志は一向に答えてくれないので、とりあえず質問を続けることにする。
「世の中の恋仲の男女は、お互いの気持ちを確かめ合った後、どういう段階を踏んで交流していくものなの?」
微動だにしない彼を他所に、わたしは喋りつづける。
分からないことがあったら疑問点を
お互いの認識に少しでも齟齬があると、最初は些細なズレで済むが、最終的な到達点は全く別のものに変わってしまうのだ。
それに、理解できないことがあればそれを調べ、解決したくなるのが人間というものではないか。
しかも、わたしはこういった感情を持つのは、初めてのこと。
調べたくても、その調べ方さえ分からない、若葉マークの超初心者だ。
よって、ここはそういう大人の階段をのぼりつめているであろう貴志に質問するのが、一番手っ取り早い現状打開策だと思ったのだが、彼は未だに何も答えてくれない。
「今まで通りでいいの? それとも、貴志はわたしに何かしてほしいの? まったく分からなくて困っているんだけど。」
多分、今のわたしは、子供の「なんで? どうして?」攻撃を恥じらいもなく貴志に仕掛けているようなものなのだろう。しかも破廉恥エリアにて。
彼もどう答えていいのか分からなくて、ずっと黙っているのかもしれない。
貴志が溜め息を落としながら、口を開いた。
「そう来たか。いや、一筋縄ではいかないのは分かっていたが……直球過ぎて俺の思考が停止状態だ。」
貴志の「暫く落ち着くまで待ってほしい」との言葉に頷き、黙って彼の動向を見守ることになったが、ひとつ大切なことを思い出す。
ああ、そうだ。現状、彼は大人のお付き合いを望んでいる訳ではないのは分かっているが、一応これは言っておかなければならないだろう。
「貴志、あと、これは念の為伝えておかないといけないと思うので言うんだけど―――発情されても相手はできない、よ? 分かっていると思うけど、わたしの身体は子供だから、あと最低でも10年くらいは何もできない―――と、思う。」
貴志が呆気に取られて「は!? お前は一体何を言っているんだ⁉」と、今までにない大変困惑した声をあげた。
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