第142話 【真珠】寂寞のチャペルにて 前編
「面倒なことになった。」
三重奏のリハーサル後、理香の部屋にやって来た貴志が、開口一番そう言った。
「へ? なに? どうしたの?」
ものすごく憔悴した貴志を心配するが、彼はそれに答える気力もないようで、申し訳なさそうな表情を見せたあと、溜め息まじりでスマートフォンを手に何か文面を打っている。
「真珠、火曜日に国立科学博物館に行くんでしょう? 今日の腰抜かし事件もあったことだし、わたしと咲ちゃんも引率するわ。」
理香がそう言ってわたしを抱き上げた。
(柔らかい。いい匂いがする。これはいい!)
理香に甘えるようにピトッと張り付き、思わずしがみついてしまう。
腰を抜かして理香の部屋で休んでいたわたしは、先程やっと一人で動けるようになったばかり。安心すると同時に、今度はこのお腹が鳴りだし、激しく空腹を主張しはじめた。
あまりの轟音に理香が目を丸くし、加山の宿泊棟へ夕食時間の確認に行ってくれたのだが、リハーサルは既に終わっていたらしく、そのまま彼女と共に男三人が現れ、前述の科白を貴志が呟いたのだ。
「貴志だけに任せるのが急に心配になったのよ。それに、ご一緒する女子大生たちの前でアンタたちが行き過ぎた行為をしないように、節度ある行動の監視も兼ねて保護者としてついて行くわ。」
理香と咲也が腕組みをして、二人同時に頷いている。
「へ? どういうこと? 節度あるって……ナニソレ?」
貴志にどういうことかと助けを求めたが、彼も納得がいかない様子で首を振っている。その後、先ほど送ったメッセージの返信が早々に戻ってきたのか、彼は再度スマートフォンの画面に向かい始める。
咲也がガシッとわたしの頭を掴んだ。
「真珠、諦めろ。理香は一度言い出したら聞かないから。まあ、俺も一緒に行って、お前たちを観察がてら、久々に『フーコーの振り子』でも見学しようかと思っているんだ。」
おお! フーコーの振り子か。
「あれは見ていて飽きないよね。もうずーーーっと見ていられるっていうか……地球の自転の片鱗をこの目で垣間見られる! あれは科学界最高の浪漫だ! 咲也、お前、なかなかイケる口だな! 一緒に見よう! 何時間くらい見る?」
もう、わたしはフーコーの振り子について語りたい衝動に駆られ、咲也へと身を乗り出した。が、彼は一瞬身体を引いた後「いや、5分も見れば充分だろ」と言った。
なるほど―――折角、科博に行くのなら、他の展示も充分堪能したいという意欲溢れる回答だ。
咲也の言葉に、わたしは益々上機嫌になる。
「そうか。うん、そうだね。他にも色々見ないといけないもんね。理香、咲也、じゃあ、特別展開始の一時間半前に科博前に集合ね! 前売りチケットは、わたしが人数分準備しておくから。」
咲也が、度肝を抜かれたとでも言うような顔をする。
「は? 一時間半前?」
もしかして二時間前集合の方が良かったのだろうか―――上には上がいるものだな。またしても咲也の科博愛に感心する。
「もしかしてもっと早い時間に集合する方がよかった? 誰も入っていない館内に入る時のあの興奮! それを待つ間の滾るあの気持ち! 咲也はそれが分かるんだね。同志だ! あ! あとね、あそこは入館待ち時間に、蚊に刺されるから虫よけ必須だよ。念のため虫刺されの塗り薬も持っていくから、それはわたしに任せて! ああ、どうしよう。想像するだけで悶える。こう、何て言うか―――ぐはっ」
貴志の手刀が頭頂部に降ってきた。
流石に加減をしてくれているらしく痛くはなかったが、ちょっとムッとして理香に抱きついた。
「貴志! 子供になんてことしてるのよ!?」
理香よ、もっと言ってやれ。
わたしは頭を押さえたまま、本当になんてことをするのだ⁉ と言う思いで貴志を見上げる。
彼は何故か、お疲れモード発動中だ。
「理香、こいつの話を延々聞き続けるのは構わない―――が、最終的には何故か集合時間が更に早まって、そのまま有無を言わせず話が纏まる予測がついているんだが……それでいいなら止めない―――どうする?」
その科白を聞いた理香は、わたしを見ると少し悩んだ様子を見せた後、急に黙り込んでしまった。
「真珠、少し黙れ―――話がまとまらない。加奈さんたちから返事がきた。人数が増えるのは問題ないそうだ。そんなに早く行きたいなら俺と穂高とお前で先に並んで、皆には後から来てもらうことにするのはどうだ。」
わたしは咲也に顔を向けた。彼はわたしよりも科博大好き人間かもしれないのだ。きっと開館前に並ぶのも醍醐味と思っているに違いない。そう思っていたのだが、咲也は予想に反して貴志の意見に、コクコクと勢いよく頷いている。
咲也よ、お前は、早く並びたかったのではないのか!?
裏切られたような気がして、咲也を恨めしい思いでジッと見詰めていると、貴志からこっちを向けと顎を取られた。
「真珠、それでいいな?」
間近に彼の顔があり、ドキッとしたが出来るだけ顔に出さないようにする。
顎に触れた彼の手をそっと掴み、小さく首肯した途端、理香が一歩後ろに下がる。彼女に抱き上げられていたわたしも、貴志から離れることとなった。
「貴志、まさか咲ちゃんにヤキモチ? ああ、もう、そんなことよりも、二人とも、そういう触れ合いは人前では禁止。真珠も赤くなって照れないの。」
何故だろう。理香の虫の居所が悪い気がする。
「そう言えば、加山ンは来ないの?」
理香に訊ねてから、加山の様子をうかがった。
「ごめんね、真珠ちゃん。その日は予定が入っていて、僕は一緒には行けないんだ。」
その科白に理香が更に不機嫌になった。
「良ちゃんは、女子高生とデートなのよ!」
加山が困り果てたような表情で肩を竦める。
「家庭教師をしている子から、参考書を一緒に探して欲しいと前々からお願いされていてね。その日に約束していたんだよ。」
それで、理香はご機嫌斜めなのか。
「なんだ、ヤキモチか?」
貴志が珍しく反撃している。
理香も、なかなか可愛いところがあるじゃないかと思ったけれど、彼女の立場を自分に当て嵌めると、確かにあまり良い気分ではない――と思ったところ、理香は愚痴のようなものを洩らした。
「別に……良ちゃんとお付き合いしている訳でもないし。単なる幼馴染だし、兄妹みたいなものだし……違うわよ!」
そうなのか!?
二人はまだ、そういった男女の関係ではないのか!
そうか――二人はこれから、時間と共にゆっくり愛を育んでいくのだなと、温かな気持ちになる。
なんだか加山ンと理香らしい関係なのかもしれない――と、妙に納得したわたしだ。
理香はと言えば、さっさとその話題を切り上げる方針に転換したようだ。
「わたしの過去の行いを振り返ると、文句を言える立場じゃないから、まあ、いいわ。とりあえず楽しんで来てね、良ちゃん。今回はわたし、真珠の保護者役に徹するつもりだから。」
彼女のこの切り替えの早さは、かなり見習いたいものだ。
「真珠、夕食だけど、柊女史と連絡をとったら穂高と晴夏も一緒に食べるってことになったの。そろそろ行きましょう。」
理香の腕の中から降りて、彼女と手を繋ぐ。
そして、反対側の手は、何故か咲也と仲良しこよしだ。
振り返って貴志を見ると苦笑を浮かべ、加山と共にこちらを見ていた。
…
紅子の宿泊棟へ移動すると、兄と晴夏が待っていた。
兄が両手を広げ、わたしを迎えてくれる。
「真珠、おいで。」
その声を受けて、理香と咲也がわたしの手を離したので、満面の笑みで兄に向かって走り出す。彼の王子様成分を吸い込むべく、ぴょんと跳びつき仔猫のように甘える。
「くすぐったいよ、真珠。ほら、ちょっと離れて。」
王子スマイルで微笑みかける兄の優しい声に嬉しくなり、わたしも笑顔を返す。
兄から手が差し出されたので、わたしはその手を取り、しっかりと握った。
幼いわたしが迷子にならないようにと手をつないでくれる、妹思いの兄である。
二人でニッコリ笑い合った後、今度は兄が晴夏に笑いかける。
「晴夏くん、真珠の反対側の手を繋いであげて。」
おお! お手々つないで夕食へ行くのか。
子供らしくて、良い良い!
仲良きことは美しき哉。
晴夏から差し出された手を取り、三人で横一列になりながら森の小径をチャペル前広場へと歩く。
ガゼヴォを抜けるとライトアップされたチャペル『天球館』が視界を覆い、昼間見た時よりも一層荘厳な雰囲気の漂う建物を見上げるかたちとなった。
チャペル前の広場はたくさんの灯りに照らされ、幻想的な非日常の空間となっていた。
宿泊客も観光客も飲食を楽しみ、笑顔があふれ、見ているだけで幸せな気持ちになる。
ふと覗いた『天球館』内部は外の賑やかな様子に反し、静寂に満ちていた。
『クラシックの夕べ』の夕方の部が終わり、夜の部開演までの暫しの時間、教会内は寂寞とした空気を醸造し続けるのだろう。
食事を済ませると大人たちは談笑しはじめ、今夜の演奏についての話に花を咲かせる。
ふと気が付くと兄がいない。
わたしが彼を探していることに気づいた晴夏が、兄の居場所を教えてくれた。
「シィ、穂高ならチャペルの中にいる。行くなら付き合う。」
そう言ってくれたけれど、晴夏はまだデザートを食べている途中だ。
「ありがとう、ハル。でも大丈夫。すぐ目の前だから一人で行ってくる。デザート、ゆっくり食べてね。」
晴夏の申し出を断り、わたしはチャペルに向かった。
夕闇が濃くなる時間帯だが、満月の明かりがチャペル内に差し込み、仄かに明るさが漂う。
ステージになる祭壇には小さな明かりが灯り、わたしは兄の姿をそこに認めた。
彼は、太陽系の惑星が描かれた色鮮やかなステンドグラスを、
側廊へ迂回し、わたしは祭壇へ近づく。
兄はわたしが近くに来たことにも気づいていない様子で、そのガラス細工を一心に見つめている。
彼がいつもわたしに向ける朗らかな表情とは違い、どこか寂し気な眼差しに心が波立ち、兄から視線を外せなくなった。
何故だろう。
とても苦しい。
貴志の心が流れ込んできたあの演奏時のような、不思議な感覚がわたしの胸の奥に生まれる。
「……真珠……。」
兄がわたしの名前を小さく呟いた気がした。
気のせいだったのかもしれない。
けれど、わたしは反射的に返事をする。
「何でしょうか? お兄さま。」
わたしの声に驚いた兄は、弾かれたようにこちらを振り向いた。
目を見開いた彼は微かな動揺を一瞬だけ覗かせた後、いつもの優美さを湛えた笑顔を咄嗟に纏ったような気がした。
まるで仮面を付け替えるように雰囲気を変えた兄―――その表情に違和感を覚えながらも、何故そう見えたのか分からず、わたしはただ、彼を見つめることしかできなかった。
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