第124話 【真珠】「ハルとひとつに」
「ハル、おはよう!」
紅子の宿泊棟を訪ねると晴夏が玄関を開けてくれた。
「おはよう。シィ。」
晴夏はそれだけ言うと、不思議そうな顔でわたしを見詰めた。
「どうしたの? ハル?」
なんだろう? 何かついているのだろうか?
心配になって顔を触っていると、晴夏がハッとしたように首を左右に振った。
「いや、なんだか今朝は……昨日と雰囲気が違った気がした。それだけなんだ。」
そう言うと室内楽室のソファに案内してくれた。
「雰囲気?」
わたしが分からずにいると紅子が横から声をかけた。
「真珠、お前、何かあったのか? 一晩で随分大人びた気がする。ハルはそれを言いたかったんだと思う。」
益々訳が分からなくなった。
紅子が腕組みをして、片手を口元に当てると「ふむ」と見定めるようにわたしに見入った。
「貴志と、何かあったか?」
彼女の口から、突然そんな科白が飛び出した。
「な……なんで、貴志が出てくるの?」
動揺して声が上擦ってしまった。
紅子はニヤリと笑う。
「ナルホド、あったのか。勘だったが、どうやら当たりのようだな。」
わたしは、紅子の野生の勘の良さに慄きつつ、引き攣った笑いを見せた。
…
つい先ほどまで、わたしは貴志の部屋にいた。
朝方、貴志のベッドに引っ張り込まれて熟睡後、彼との間でひと悶着あったのだが、その後宿泊棟で二人で朝食を摂り、今は二人揃って落ち着くことができた。
わたしが感謝の気持ちを精一杯込めた貴志の額への口づけは、彼の後悔を多少なりとも溶かすことができたのだろうか。
結構、自分なりに頑張ってキスしたつもりだったが、貴志はその直後、額に手を当てると動かなくなってしまったのだ。
これはマズイ、悪手を取ったか?! と大変焦ったのだが、彼はただ単にわたしの突然の行動に驚いていただけのようだ。
貴志とは事故で口がぶつかってしまったこともあったけれど、今回の額へのキスは、誰の思惑に乗るでもなく、わたしが自分の意志で初めてしたものだ。
貴重な接吻なのだぞ―――と、何度も貴志に念押しをした。
ほいほい安売りするような物ではないので、もうちょっと有難がってくれてもいいのに―――と、まるで押し売りのように説いてしまったのだが、彼はただ「それは、貴重なものをありがとう」と苦笑するだけだった。
大人の階段を既に極めまくったあやつめには何でもないことなのかもしれないが、わたしにとっては全27年に及ぶ人生で初めて自主的にした行為なのだ。
ものすごい初体験のひとつなのに、そこのところを貴志は分かっていないので、ちょっとだけむくれると、あろうことかその空気を入れて膨らんだ頬を貴志はギュムッと掴み、プシュッと圧し潰したのだ。
お前はもう、わたしに触れないと言っていなかったか?!―――と文句を言ってみたが、貴志は片手で頬杖をつき、フッと穏やかに笑うと「これは小動物に向けたものだからノーカウントだ」と意味不明なことを口にした。
貴志が何を考えているのか、わたしには益々分からなくなった。
けれど何故か、貴志がその手で触れてくれたことが嬉しくて、鼻の奥がツーンとした。
そして、わたしも嫌われてしまったかもしれないと悲嘆に暮れていたのだが―――むしろ愛情を持って接してもらっていることを改めて知る機会となり、心穏やかに今日のコンサートに臨めることになったので、そこは本当に良かった。
…
そんな一連の流れを思い出し「えへへ」と笑って、紅子と晴夏を見る。
わたしの態度は相当挙動不審なことだろう。
紅子は、そんなわたしを見てとり、ポリポリと頬をかいた。
「ああ、別に根掘り葉掘り聞くつもりはないぞ。安心しろ。わたしも口から砂糖を吐きたくはないからな。」
「砂糖?! そんな甘いことなんてしてないよ。何でそうなるの?」
甘い雰囲気? そんなわけがあるか。
ものすごい命懸けの綱渡りをした感が強いのだ。
貴志に見捨てられるかもしれないという恐怖と隣り合わせの時間だったのだから。
「ムキになるな。今は別に貴志のことを考えていてもいい。だが、お前の今日の演奏のパートナーは誰だ?」
わたしはハッとした。
「ハル―――」
紅子は艶やかな笑顔を口元に浮かべ首肯する。
「真珠、今日はハルを感じろ。全ての感覚をハルと共有するんだ。呼吸も意識もひとつに溶けあえ。」
―――ハルとひとつに。
彼の演奏は、リハーサル中もまだ何処か遠慮のある弾き方だ。
けれど、彼の中で何かが変わろうとしているのは分かった。
あの、貴志の『リベルタンゴ』を聴いて以来、晴夏は何かを掴み取ろうとしているのだ。
演奏技術は、日々の練習により向上していくものだが、突然何かを掴んだように『化ける』者もいる。
晴夏に集中しないと、こちらが喰われる可能性もあるのだ。
彼の演奏は、いま『何か』を手に入れようとしている。意識を彼に向けないと、彼と心をひとつにしないと―――危険だ。
わたしは晴夏に目を向ける。
彼は氷の花を思わせるような潔いまでの真摯な眼差しで、わたしのことを見ている。
彼に集中しよう。他のことに気を取られている場合ではない。
意識の全てを晴夏に合わせる。
紅子の瞳が妖しげに揺れた。心から楽しい―――そう物語っているのが分かる。
「いい『目』だ。役者が揃ったな。準備を始めるぞ。」
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