第125話 【晴夏+真珠】氷の王子


 僕はコンサート用の服装に着替え、宿泊棟の室内楽室でバイオリンの弦を磨く。

 松脂が弦にこびり付いていると、澄んだ響きのある音が出せなくなるため、念のため専用の布で拭きとっていく。


 真珠は寝室で、理香さんと共にコンサート用の衣装準備をしているところだ。


 弦の整備を完了し、先日ブリッジが傾いたことにより音色を損ねたことを思い出した僕は、その角度を確認する。


 バイオリンを横から眺めていたところ、母から突然声をかけられた。



「ハル、生半可な気持ちならやめておけ」



 何のことを言っているのか分からずに、僕は顔を上げ、訝し気に母を見つめる。


「……分からないか? 真珠のことだ」


 僕は眉間に皺を寄せた。

 母は、一体何の話をしているのだろう?



「あいつらは──真珠と貴志は、わたしたちのうかがい知れない秘密を共有している」



 母が僕の様子を観察する。

 僕がどんな態度を取るのか、見極めようとしている気がした。


 気が抜けない。

 その目が、僕の心を射抜こうとしているのが分かる。



「その秘密は、いつかお前の心を苦しめる。二人の心の繋がりを許せないのであれば、早めに諦めることだ」



 彼女は、母というよりは一人の人間として、僕に忠告しているようだった。

 僕はその両目を見据えたまま動かずに、彼女の発する次の言葉を待つ。


「先日もあいつらの間に何かがあった──そして、今朝も二人の間に変化が起きた。お前でさえも真珠の雰囲気の違いに気づくほどの……何かがな。あいつらの間には、目に見えない『絆』のような物が見え隠れしている」


 僕は静かに頷いた。

 それは分かっている。

 貴志さんは、真珠の秘密を──僕が知る由もないような秘密を知っている。


 いま一番、彼女の信頼を勝ち得ているのは、間違いなく彼だと思う。



「真珠に出会ったことで──その音にまみえたことで、お前の世界は──音色は間違いなく変化している。だがな、ハル──お前は真珠に救われはしたが、同時に奪われたものもあるだろう」



 そう言って母は僕の心臓を指差した。



「今のお前では勝ち目はない。戦わずに譲る道も勿論ある。だが、欲しいのなら、本気で奪いに行かないと──あいつは……真珠は手に入らないぞ」



 母は勘の鋭い人だ。

 僕の気持ちも、穂高の想いも、貴志さんの心も、彼女は全て気づいているのかもしれない。



 僕は真珠の隣でバイオリンを奏で、天上の音色を手に入れたい。



 まだ今の僕では、穂高にも貴志さんにも太刀打ちできないのは充分承知している。



 でも、始めなければ──彼女と共に奏でる未来の為に、最初の一歩を一秒でも早く踏み出さなければならない。



 穂高と貴志さんの二人共、既に僕の中で、とても大切な存在になっている。



 けれど、シィは──彼女の音色は、僕の愛する音楽の源そのものだ。



 バイオリンを奏でる真珠の隣に立ち、共に最上の音色を作り上げる。それは──



   僕でありたい!




 母が口角を上げ、目を細めた。


「ようやく──だな。お前のその『目』が見たかった」


 母の瞳の奥にユラリと立ち昇る、紅い炎が見えた──気がした。





 彼女の目的を、ここにして悟る。



 母は──柊紅子は、僕に真珠を諦めさせようとしたわけではなく、覚悟を決めて立ち向かえと、そう発破をかけたのだ。



 それは、おそらく──僕の、本気の音色を引きだすために。




          ***




「理香、髪を結ってくれてありがとう。昨日のコットンパールのカチューシャも可愛かったけど、このヘッドドレスも素敵だね。こっちの方がドレスの雰囲気にピッタリ合っていて素敵。どうしたの? これ」


 理香が大きめの手鏡を持ち、目の前の鏡を対面鏡にして髪型の仕上がりを見せてくれる。


「聞いてないの? これ、貴志が昨日のランチの後に本館の専門店街で選んだみたいよ──あんたのために。良ちゃんと咲ちゃんも付き合ったみたいだけど、結構時間をかけて真剣に選んでたらしいわ」


 貴志が──わたしの為に?

 頬が上気するのが分かる。


 素直に嬉しいと感じたのだ。


「あら? にやけちゃって。良かったわね。ドレスに合うだけじゃなくて、あんたの雰囲気にもピッタリで、本当に可愛いわよ」


 理香もなんだか嬉しそうだ。


 わたしは今日の衣装に着けようと持参した、飾りの入った小さな箱を理香に手渡した。


「あのね、理香、これをヘッドドレスのポイントに着けることはできそう?」


 理香はその箱を受け取ると、丁寧に蓋を開け、中身を確認する。



「へえ、これ、本物? あら、これってこの前、貴志がつけていたタイピンとお揃いじゃない?」



 興味津々で理香がそのケースを覗き込む。



「そう。貴志がプレゼントしてくれたの。黒蝶真珠のブラックリップと白蝶貝なんだって」



 理香はそれを聞いて驚いた顔をした後、フフッと笑った。

 いつものおちょくるような笑い方ではなく、とても優しい微笑みだ。



「まるで、だいじな飼い猫に首輪をつけるみたい──独占欲丸出しね。貴志本人は意識していないっていうのが、また笑っちゃうんだけど。こんなに誰かにのめり込むアイツの姿を見られるとは、正直思わなかったわ。今は……人並みに悩んだりもするのかしら。驚くほど人間らしくなったもんだわ」



 そう言いながら、理香はわたしのヘッドドレスに花を象ったブローチをつけてくれた。


 鏡に映る自分の姿を確認し、貴志から贈られたヘッドドレスとブローチにそっと触る。


 心の中に、じわじわと温かさが増していくのが分かる。


 多分わたしは、とても嬉しいのだと思う。


 貴志から、こんなにも気にかけてもらえて──大切にしてもらえて。


 彼は『この世界』に生まれ変わったわたしの心に、初めて寄り添ってくれた人。

 そして、この心を救ってくれた人だ。


 この気持ちを何と呼ぶのか、今はまだピンとこない。


 でもきっと、自分の心に最も近い──かけがえのない存在なのだと思う。



 わたしの様子を満足そうに眺めていた理香が、改まった声を出した。


「あんたの中でわたしとの初対面の印象は、最悪に近い状態だったとは思うんだけど──あんたには、すごく感謝しているのよ」


 理香が鏡越しにわたしの顔を見つめている。


「あんたが貴志を変えてくれたから、今のわたしがあるの。多分、昔のままのアイツだったら、わたしはまた貴志と一緒に、同じ過ちを繰り返していたかもしれない。そうしたら、今の心境には辿り着けなかった。なによりも、一番感謝しているのはね──真珠と晴夏と一緒に音楽を作り上げることで、将来の目標がハッキリと見えたことなの」


 そこで理香は、スゥッと息を吸い込んだ。


「あんたに出会ってから、たったの数日で──わたしの人生が180度変わったの。これって、かなりすごいことよ?」


 理香はそう言ってわたしの手をとり、椅子からおろしてくれた。


 彼女は、紅子と晴夏が待つ室内楽室へ戻る準備を始める。

 そして、片付けの手を止め、どうしようかと逡巡を見せた後、再び言葉をつないだ。



「あんたがもう少し大人になって、色々なことを理解できるような年齢になったら──話したいことがあるわ」



 そう言って、理香はわたしの頬を撫でた。


 理香が話したいこととはなんだろう?

 とても気になるけれど、それはまだもう少し時間が過ぎてから──わたしが彼女の目で見て、大人になってから話してくれるということなのだろう。


「今日の演奏は、晴夏と一緒に思いっきり暴れなさい。わたしが全部受け止めるから。最高のサポートをして、新しい音楽の世界への最初の一歩を──わたしに踏ませてちょうだい」


 理香の目線は、既に未来に向かっている。


 初めて出会った時の彼女の様子とは異なり、未来を切り拓こう──しっかりと歩んで行こうとする決意が見えた。


 きっと、これが彼女の本来の姿なのだろう。



          …



 理香に手を引かれ、室内楽室の扉をくぐる。

 紅子と晴夏の姿をみとめ、二人の元へ近づこうと、わたしは足を前に進めた。


 紅子と晴夏が揃って振り向き、わたしと理香の二人に視線が集まる。


 ──思わず、息を呑んだ。

 晴夏の眼差しを受けて、わたしは立ち竦んでしまったのだ。



 違う──いつもの彼ではない。



 この短時間で、晴夏の中の何かが、間違いなく変わった。



 彼の身の内に、氷の刃の如く鋭敏な感性が宿った気がする──おそらく、気のせいではない。



 それに気圧されて、たった一歩が踏み出せない。



 彼は凛とした面持ちで、わたしの心に揺さぶりをかける。



 背筋をビリビリとした緊張感が駆け上がる。

 これを、武者震いと呼ぶのだろうか。



 心を鷲掴みにされるような──搦めとられるような、そんな感覚に思わず身体が強張った。



 晴夏の視線を受け、震える手で貴志から贈られたブローチに触れる。



 心して演奏に臨まなければ──そんな祈るような気持ちで、知らず貴志に助けを求めていたのかもしれない。



 自分の足を叱咤して、何事もなかったかのように晴夏の元へ向かう。




 今、奪われるわけにはいかない。

 そう思った──けれど、いったい何を奪われるというのか?




 晴夏のこの眼差しは、ゲーム中の彼の愛称──絶対零度の『氷の王子』を彷彿とさせる冴えざえとしたものだった。


 先ほどまでは感じることのできなかった、研ぎ澄まされた固い意志が、その双眸に息づいていたのだ。



 他者を圧倒する冷酷無慈悲なまでの正確さで、技巧溢れる旋律を奏でる十年後の鷹司晴夏──その彼と、今の晴夏が、何故か重なって見えた。




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