第123話 【真珠】懺悔と抱擁


「いつ……来た?」


 貴志が頭を抱えながら、淡々とした声で訊いてくる。


「明け方です」


 わたしは肩を落として力なく答える。


「何のために?」


 その声は、地の底から響くような重さで、息が詰まる。


「色々と訂正しなくてはいけない、不都合な事態に気づいてしまったので」


 わたしは更に身体を固くして縮こまる。


「不都合な事態?」


 貴志のその一言に、わたしは勢いよく首肯する。


「そうなんです。それを……訂正したくて」


 貴志は眉間に皺を寄せる。


「まったく話が見えない。何が起きた?」


 わたしはここぞとばかりに一気に畳みかけた。


 いま全てを話さなければ、貴志との間に今の今まで築いてきた信頼関係を失う怖さがあった。


「昨夜──ゆうべ、わたしが『物足りない』って言った理由が分かったから! でも、どうしてそう思うのか分からなくて。でもそれって変だって……だから訂正しなくちゃいけないって、それで……それでっ」


 もう自分が何を言っているのか支離滅裂だ。


 でも、はっきりと分かる。

 わたしは、絶対に貴志にだけは嫌われたくない。


 零れる涙が止まらない。

 どうしていいのか分からない。


「お前が言うように、俺はお前に……何かをしたのか?」


 貴志は神妙な表情で、わたしに問う。



「何も──ただ寝惚けてベッドに引きずり込まれて、背中から抱き枕にされただけ……、えと……その……踏みつぶされて痛かったりとか、苦しいこととかは一切なかったから。

 貴志は──貴志は、寝惚けていても、わたしのことを、ちゃんと大切に扱ってくれたよ。すごく優しく抱きしめてくれたよ。安心して、うっかり一緒に寝ちゃうくらいに」



 わたしは突き放されるかもしれない恐怖に、息継ぎすることもなく、ここで何があったのかをできる限りの言葉で必死に伝える。


「お願い、嫌わないで──」


 ポロリ──涙が頬を伝う。


 それと同時に、貴志の表情が歪んだ。


 もう、修復はできないのだろうか。

 もう、完全に嫌われてしまったのだろうか。



「わたしのこと……もう嫌いになった? 顔も見たくない? 傍に居るのも……嫌?」



 涙が溢れて止まらない。


 貴志は、苦悶するような、やるせない表情を顕す。


 一度、瞼を閉じた彼は、ゆっくりと浅い呼気を吐くと、わたしの腕を引き寄せ──その胸に強く抱きしめた。


 貴志の掠れた声が耳に届く。



「嫌いになんてなれるわけがないだろう──お前はどうして、いつもそうやって、俺の決心を鈍らせることばかりするんだ」



 貴志がわたしの顔を両手で包む。

 心の奥に触れようと、この心を知りたいと、彼の眼差しがわたしの瞳を覗きこむ。


 逃げ出すことも、目を逸らすこともできない。


「大切にしたいのに……、俺が線引きしようと決めたものを、あっさり何事もなかったかのように飛び越えてくる。お前は……俺を、一体どうしたいんだ?」


 わたしは恐る恐る、貴志の頬に触れた。

 そして、両手で彼の顔を包み込む。


「わたしは──」


 貴志に触れたい。

 ──触れてほしい。



 そう伝えようとしたところ、ベッドサイドの内線電話が突然鳴り響いた。


 わたしはビクッと肩を揺らした。


 その音に驚き──二人揃って現実に引き戻される。



 貴志が溜め息を吐いた後、ベルに応答する。

 その電話は祖母と兄から──わたしがここに来ているのか、という確認連絡だった。


 わたしは自分の考えに半ば茫然としてしまい、電話の内容も殆ど耳に入ってこない。


 触れたい。

 触れてほしい。


 それは、子供が親に望む愛情表現としてのスキンシップなのか?


 それとも──




 いや、それよりも、貴志の先程の言葉は、どういう意味なんだろう?


「貴志──さっきの、言葉はどういう……?」


 大切にしたい──彼はそう言ってくれた。

 でも、なぜ線引きが必要なのか。 


 わたしには、彼の考えがよく分からない。



 貴志の人差し指がわたしの唇を塞ぎ、質問を続けようとする声を遮る。



「俺は一度、お前を傷つけている──もう二度と、同じ過ちは繰り返したくない。だから、今のお前には触れない──そう決めた……筈だった」


 傷つける?

 そんなことをされた覚えはない。


 貴志はいつもわたしを大切に扱ってくれた。

 常に──守ってくれた。


 わたしが困惑していると、貴志の視線が首筋の絆創膏に向かう。それを認めると彼は唇を噛む。


 傷つけたとは──この所有印のこと?


「え? こんなこと? 別にどうってことな──」

「──あるんだよっ」


 わたしが言い終わらないうちに、貴志が即座に否定する。


 その痛切な響きを含んだ大きな声に、わたしは驚き、息を呑む。


 貴志の声が、懺悔するように言葉をつなぐ。


「あるんだ……真珠。それは大人として、絶対にしてはいけないことなんだ。お前が、あの日、俺の目にどんな姿で映っていたのだとしても、お前はまだ──子供なんだ。守って慈しまなくてはいけない存在なんだ」


 わたしの喉が呼吸と共に、ヒュッと音を立てる。


「それを、俺は──……記憶がないなんて、そんな言い訳は通用しない。あの時に、生まれて初めて感じた『幸せ』に心が浮き立って──結果、俺は、お前を傷つけたんだ」


 彼の声は、どんどん大きくなって、最後は苦し気な──後悔の言葉が吐き出された。


 わたしが「そんなことはない」と言葉を発しようとしたが、貴志の指先によって再び唇は封じられる。


「俺はお前に直接触れるのが怖かった。また、心を制御できなかったら? また傷つけたら? ずっと怖かったんだ──お前が……大切なんだ。傷つけたくないんだ」



 貴志は、こんなに──こんなにも苦しんでいたのか。

 わたしのことを、これほどまでに想っていてくれたのか。



 わたしは立ち上がり、貴志の双眸を自分の目線に合わせる。

 彼は身じろぎもせず、その行動に呼吸を止めた。


 わたしは両手を精一杯広げ、貴志のその身体を強く抱きしめる。

 その心ごと包み込むように、手を伸ばした。


 宥めるように、慰めるように、わたしは彼の背中を何度も撫でた。


 言葉はいらない。

 只々、静かに、抱擁し続ける。



「貴志は今まで、独りで淋しくて……苦しかったよね。幸せを感じるって、生きていく上でとっても大切なこ──だから、結果が何であれ、わたしがその幸せを、貴志に贈れていたんだとしたら、それはすごく──嬉しいことなんだよ」



 弾かれたように貴志は面を上げる。



 彼の頬を両手で包み込み、その瞳を真っ直ぐ見つめる。


「わたしね、これでも人を見る目は持っているつもりだよ。貴志がわたしのことを大切に扱ってくれているのも、ちゃんとわかってる」



 わたしは多分、とても幸せな笑顔を湛えて、彼に向き合っているのだと思う。



 大切にしたいから、触れない──彼の言葉の意味が、やっと理解できた。



「だからね、貴志がわたしに触れないと決めたのなら、今はそれでいい。でも……でもね、わたしから触れるのは──許してほしい」





 わたしの胸の中に、温かな幸せが急速に生まれているのが分かる。



 こんなにも幸せを感じているのに、何故今にも泣き出しそうな程、苦しいのだろう。




 貴志がわたしを想う深さに胸がいっぱいになり、喉元にこみ上げるような切なさが、じわりじわりとせり上がる。



 彼のわたしに向ける狂おしいほどの愛情に、心が歓喜で震える。




「ありがとう、貴志。いつも傍にいてくれて。一番辛い時に助けてくれて。貴志からもらう気持ちも、この印も、全部大切な──わたしの生きた証なんだよ。だからもう──苦しまないで」



 彼の心を想うと涙がこみ上げる。

 雫となって溢れだす直前──奥歯をグッと噛み締めることで落涙をこらえた。




 泣くな──笑え!


 今は、貴志に精一杯の笑顔を──感謝の気持ちを贈りたい。


 温かな心を持つあなたに『この世界』で出会えて良かったと、この想いを真っ直ぐ伝えたい。




 わたしはその日──


  生まれて初めて、自分の意志で


  心からの接吻を贈った。




  ──貴志の額に、口付けを落としたのだ。





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