第122話 【真珠】同衾
「真珠、来い!」
貴志が笑顔でわたしの名前を呼ぶ。
彼は両手を広げ、その胸にわたしが飛び込むのを待っている。
わたしは満面の笑顔で、貴志に向かって走り出す。
その腕に飛び込むと、フワリと抱き上げられる。
彼の少し冷たい手が頬に触れ、わたしはその掌に頬ずりをする。
貴志はわたしの手の甲に、指先に、口づけを落とす。
そして、頬に、額に──彼は優しく唇で触れ……──
…
「これだーーーーーっ!!!!!」
叫んだわたしは、ガバッと起き上がった。
「うわぁっ ビックリした。どうしたの真珠? 寝言?」
隣のベッドで寝ていた兄は、目を擦っている。
どうやら、わたしの大きな寝言で起こしてしまったようだ。
「ごめんなさい。夢を見ていたようです。まだ朝も早いので、もう一度眠ってください」
兄は「そうなの?」と言いながら、寝具に倒れ込むと、即寝息を立てる。
恥ずかしい。
穴があったら入りたい気分だ。
寝言を、大声で叫んでいたようだ。
しかも、自分の見ていた夢の内容を思い出し、激しく悶える。
──昨日感じた物足りなさが、なんと判明してしまった!
そう、掌越しの接吻後、スキンシップ過多気味だったここ数日なのだが、昨日に限ってはそういった──唇で触れるという行為が一切なかったのだ。
それだけではない。
頬でさえ、貴志は直接触れてくれなかったのだ。
わたしはそのことに気がつかず「何かが物足りない」と抜かしていた、と──こういうことだ。
平たく言えば、そういった破廉恥行為が全くなかったことに対して、不平不満を垂れ流していたのだ。
その事実に、冷や汗が流れそうになる。
貴志がわたしの言葉に驚いていた理由は、これだったのだ。
まるで、まるで、まるで──そういう行為をしたいのに、なぜしてくれないのか!?
と、言って駄々をこねていたようなモノだ。
それは、あやつめも相当ビックリ仰天したことだろう。
『星川』へ送ってもらう途中の、わたしからの質問にも言葉を濁す形で、答えてくれなかったわけだ。
こんなちびっ子から、セクハラという名の辱めを受けていたのだから。
どうしよう。
もう、寝ていられない。
一刻も早く、昨日の「物足りない発言」を訂正しなくてはいけない。
このままでは痴女まっしぐらだ。
齢五歳の痴女──もう
居ても立っても居られず、わたしは着替えると『星川』を抜け出し、貴志の宿泊棟へ向かった。
何か計画があったわけでもないが、もう恥ずかしくてたまらず、昨日の発言を全面撤回したかったのだ。
早くどうにかしないといけない。
昨日の晴夏に対しての失言もかなりどうかと思うが、今回貴志に対して発した失言は己の名誉にもかかわる。
お子さまにあるまじき欲求不満──わたしの女としての沽券にも関わるのだ。
フロントに寄り、貴志の宿泊棟へ行く旨を伝え、兄と祖母に後程伝言してもらう手はずを整える。
わたしは朝焼けで染まる景色の中を、ひたすら走って移動した。
…
宿泊棟林立エリア──今朝はまだ、何処からも楽器の音がしない。それほど早い時間帯だ。
わたしは貴志の部屋の扉を解錠し、玄関から中へ入った。
部屋の中は薄暗い。
まだ貴志も眠っているのだろう。
寝室の扉を開けると、眠る彼の呼吸に合わせて上下する掛布団が見えた。
そっとベッドに近づき、彼の閉じられた瞼と長い睫毛を目にした瞬間──我に返った。
早くどうにかしなくては、という焦りから何も考えずにここまでやってきたが、寝ている貴志を起こしてまで失言撤回するほうが余計に恥ずかしいのではないか?
もっと自然に、あれは何かの間違いです。
まったく物足りなくありませんでした。
──そう伝える方法もあったはずだ。
未だに妙案は思いついていないのだけれど。
ベッドサイドに頬杖をつき、 貴志の寝顔を眺める。
『お前は俺に、何を望んだ? 何を、考えていて欲しかった?』
彼に問われた言葉が耳の奥に響き、掠れた声が耳元によみがえる。
わたしは目を見開いた。
あれ?
どういうことなのだろう?
わたしは貴志に何を望んだのだろう?
もっと触れたい──そう望んだということなのだろうか。
わたしに触れてほしい──そう思っていたと……いうこと、なのだろうか。
考えが纏まらず、ポフッとベッドに顔をうずめる。
「真……珠?」
少し寝ぼけたような貴志の声が聞こえた。
わたしが勢いよく、ベッドに顔をうずめた振動で目を覚ましてしまったのかもしれない。
慌てて謝ろうと顔を上げた瞬間、貴志の手が頬に触れ、蕩けるような笑顔を向けられた。
さきほど見た夢の中の貴志と同じ、とても優しい笑顔だ。
触れられた頬が、いつもよりも敏感に反応する。
ビリッとするような熱を自分の内側に感じる。
彼の手が伸び、わたしの身体を手繰り寄せた。
そのまま、ベッドの中に引き入れられ、気づいた時には──背中からそっと、抱きしめられていた。
一瞬何が起きたのか分からなかった。
首筋に彼の呼気を感じる。
背中に温かな鼓動を感じる。
(び……ビックリした)
目を覚ましたのかと思ったが、貴志は寝ぼけているだけのようだ。
彼の規則正しい寝息を耳に、わたしは身体の力を抜いた。
人様の睡眠を邪魔せずに済んだことに、ホッと胸を撫でおろす。
貴志の腕の中から抜け出ようと試みたものの、がっちり手が絡みついているため、逃げられない。
無理に手を外そうとして、睡眠の邪魔をしてはいけない。
それに、圧し潰されて痛いわけでもない。
わたしは、さながら抱き枕だ。
何かを胸に抱きしめていると安心できる──その安堵感には覚えがある。
仕方ない。
しばらくは抱き枕になって安眠させてやるか、とわたしは目を閉じた。
…
どのくらい眠ったのだろうか。
かなり熟睡した気がする。
身体が軽く、気分も爽快だ。
よだれは垂れていないだろうかと、念のため口元を触る。
うん、大丈夫だ。今日は垂らさなかった。
人肌というものは、なんと心安らぐ場所なのだろう。
初めて知った、この心地良い温もりを。
子供が母親に抱っこされたい、一緒に眠ってほしい──そう思うのは、この人肌の安らぎを本能が求めるからなのだろう。
まだまだ、わたしも親が恋しいお年頃なのかな。
だから、貴志と触れ合いたいと思ってしまうのかな。
きっとそうなのかもしれない。
けれど──唇で触れてほしい。
そう思った理由だけは分からなかった。
背中から抱きしめられて眠っていたが、向きを変えたくてクルリと寝返りを打ち貴志の胸元に顔を寄せる。
暖かい。
耳を彼の胸に当てると鼓動が届き、その規則正しい旋律が更に安らぎを与えてくれる。
すりすりと頬ずりをするようにその腕の中に潜り込み、そのまま二度寝をしようと思ったところ、ものすごい視線を感じて顔を上げた。
──パチッと目が合った。
いつの間に起きていたのだろうか。
貴志がわたしを凝視して、そのまま固まっているのが分かった。
思ったよりも近くにあった双眸に、わたしもギョッとして動きを止める。
気持ちよく眠っていた──のだが、考えれば考えるほど、あれ? これって?
もしや──同衾?
いやいや、子供が親を恋しがるように、単に添い寝をしていただけだ──と自分に言い聞かせる。
貴志は、何を思ったのか、恐る恐るわたしの頬を触り、引っ張ったり、つねったりしてくる。
何か難しい顔をしていて、その手の動きが止まらない。
わたしは流石にもう頬の皮膚が伸びてしまうと思い、声をあげる。
「い……いひゃいんれしゅけろ……。もーやめれくらひゃい」
控えめに「引っ張らないで、痛いよ」の意を込めて伝えてみたのだが、その声を受けた貴志は、完全に凍り付いたように動かなくなった。
「た……貴志? 貴志! おい! しっかりしろ! 何を固まっている!?──え、ちょっと貴志? 大丈夫? ねえ!?」
彼は唖然とした顔でわたしを見つめて、瞬きさえできない程の衝撃を受けているようだ。
貴志のこの表情は、まさかとは思うが、己の貞操の危機を感じてのことなのかもしれん。
お子様に寝込みを襲われた!──と、恐怖に慄いている可能性がかなり高い。
これは、安心させなくてはならん。一刻も早く!
もし貴志に悲鳴でもあげられたら、わたしの人生が終わる。
この宿泊棟のご近所さんたちに向けて、痴女デビューを果たしてしまう。これは相当マズイ事態だ!
「貴志! 大丈夫だよ? わたし、貴志に何も変なことしてないから。本当だよ?
ただ
貴志が、その言葉で息を呑んだ。
「俺が布団に引っ張りこんだ? 『わたしからは』って、俺はお前に何かしたのか? いや、そんなことは……ない……筈だ。真珠?」
どうしたのだろう。
貴志が、わたしのことをものすごく心配している。
「え? わたし? うん、大丈夫。後ろから抱かれただけで、逃げられなかったけど、別に痛くなかったし」
貴志がガバッと起き上がり、わたしの身体を離して、いやに慌てている。
「ちょっと待て! 不穏当な言葉が多すぎてついていけない」
なぜ、こやつはこんなにも慌てているのだ?
謎過ぎる。
わたしは首を捻り、奇妙なものを見る目で貴志を見つめる。
「何をそんなに焦っているの? わたし
努めて冷静に言葉を紡いでいるつもりだが、貴志の動揺に巻き込まれて、わたしの脳内は軽くパニック状態だ。
そして、わたしの心の中はブリザードが吹き荒れ、焦燥に駆られはじめる。
「違う! そうじゃない。お前のことだ」
鬼気迫るような形相で詰問する貴志の態度から、わたしは相当なことをしでかしてしまったことが理解でき、思わず震えてしまう。
「わ、、、わたしの心は……無事じゃないかも……しれん」
どうしよう。
もう泣きそうだ。
先日は「口を塞げ」と脅し、昨夜は「物足りない」発言、今朝に至っては寝込みを襲ったと思われている可能性が大だ。
貴志に嫌われる──しかも相当な変態キッズ認定されてしまったのかもしれない。どうしよう。
絶体絶命の危機に、子供の緩い涙腺が働き始める。
ぽろぽろと涙が零れて止まらない。
貴志が慌ててティッシュケースを投げてよこす。
──傍に近寄って、慰めてさえくれない。
「なんで、そんなに遠くにいるの? どうして近くに来てくれないの?」
貴志はベッドの壁際から動かず、わたしはその対面に座っている。
終わった──多分、相当引かれて、嫌われた。
わたしはベッドに突っ伏して、嗚咽を洩らした。
いつもなら、すぐ近くに来て抱きしめてくれるのに、その素振りさえない。
「ごめんなさい。わたしは何もしてない。だから──嫌いにならないで。お願い」
わたしはティッシュを掴み取ると、涙を拭き、
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