第121話 【真珠】貴志の問い と 穂高の願い
『星川』へ戻る道すがら、貴志はずっと黙ったままだ。
わたしはいつもの如く縦抱きにされ、彼よりも高い目線で一度周囲を見回し、次いで貴志の横顔を見つめた。
青白い月光が降り注ぎ、彼の輪郭が淡く発光して浮かび上がる。
とても幻想的な光景だった。
今日は何故か彼と過ごした時間に、『何か』が物足りないと感じていた。
晴夏とのリハーサルもあったし、曾祖母の墓参もあった。
だから二人で過ごす時間は、いつもより少なかった。
そのこと事態は分かっている。
だけど、理由はそれだけではない──ような気がする。
夕方のリハーサル後、彼の部屋にいる時にも、『何か』が欠けているような気がしたのだ。
何故だろう?
「真珠、どうした? 眉間に皺が寄っているぞ」
貴志は、わたしが宿泊棟から本館までの道程で、ずっと彼の横顔を眺めていたことに気づいていた筈だ。
けれど、彼は、森を歩いている間、何の反応も示さずにいた。
現在地は、本館のエレベーターホール。
周囲には誰もいない。
「今日は、どうしたの? 貴志の態度が、いつもと違ったような気がしたの。でも、どうしてそう思うのか……分からない」
わたしは何故、物足りなく感じるのか理解できないままだ。
「そうか……そう、思うのか?」
貴志はわたしからの質問には答えずに、何故か驚いているようだった。
そんな科白がわたしの口から出るとは思わなかったようで、意外そうな表情をしていると言った方が正しい。
けれど、その顔は何故か少し嬉しそうで、その瞳には微かな熱が灯ったようにも見えた。
「貴志、教えて? 今日は一日、何を考えていたの?」
わたしはこの物足りなさの理由が知りたかった。
「気になるのか?」
貴志は答えることなく、わたしに質問を投げかける。
エレベーターがロビーに到着し、数人の宿泊客が降りて行った。
空いたその中に、わたしたちが替わりに乗り込む。
貴志に抱き上げられたまま、わたしはその目をじっと見下ろした。
「うん……だって、なんだか今日は、いつもと違った気がしたの」
エレベーターのドアが閉じられた。
この空間には、二人だけだ。
貴志は少し焦れるような声色で、わたしに再度問う。
「──どんな風に?」
──と。
仄かな色香の漂う低い声に、わたしの心臓がドキリと跳ね上がる。
彼はわたしの頬に触れようと、その右手をゆっくり伸ばす。
わたしは彼の心地良い冷たさを宿す掌を、自分の頬で受け入れようとした──けれど、それは気のせいだったのか。
貴志の手は頬に直接触れることなく、顔に掛かったわたしの髪を静かに横に払っただけだった。
「どんな風にって言われても……それが分からないから困っているの。何かが、足りないの……」
何が違った?
どこが違った?
今日の彼は、いつもの彼と、どんなところが違っていたのか?
たった今も──物足りなさを感じた。
彼が触れた髪に、意識が向けられる。
何故わたしの頬に触れなかったのだろう。
貴志の双眸から目が離せない。
心が吸い込まれそうになり、どう答えていいのかわからない。
「今日……貴志は、何を考えていたの?」
貴志はわたしを抱き上げる体勢を少しだけ下げ、目線を同じ高さに合わせる。
彼の瞳を見つめると、胸が苦しくなるのは、どうしてなのだろう。
目を逸らせないまま、わたしは彼を見つめた。
その次の瞬間、わたしは貴志の首筋に顔を埋めるような形で抱きしめられた。
わたしの耳元に、彼の掠れた声が届く。
「お前は俺に、何を望んだ? 何を、考えていて欲しかった?」
…
兄の帰りを待ちながら就寝準備をする間も、貴志に問われた言葉が耳から離れない。
『何を望んだ? 何を、考えていて欲しかった?』
そう問われた後、すぐにエレベーターは最上階へ到着した。
ホールに降りると、貴志は『星川』へと迷いなく足を進める。
わたしがした質問に答えることなく。
そして、彼がわたしへ問いかけた答えを待つこともなく。
──もう少しだけ、貴志と話をしていたかった。
けれど、それを伝える間もないままに、貴志は『星川』の玄関口のベルを鳴らす。
部屋の中からは祖母と、数人の女性の笑い声が響いてくる。
今日は、彼女の友人達が遊びに来ているのだ。
今夜は、兄とわたしは『星川』の右棟にある洋室で就寝することになっている。
祖母が友人と過ごす時間を邪魔しないように、兄とそう決めていたのだ。
貴志は祖母からその話を聞くと、わたしをクイーンサイズのベッドが二つ並ぶ右棟へ連れて行ってくれた。
わたしが就寝準備を終えるまで、貴志はソファに腰掛け、静かに待っていてくれた。
浴室から出ると、兄は既に『星川』へ戻っていた。
兄はわたしと交代で風呂場へ消えていき、就寝準備を始める。
兄が寝室に戻ると、貴志は宿泊棟へ戻るため、ソファから立ち上がった。
晴れない気持ちを抱えつつも、貴志を笑顔で見上げる。
玄関口で彼に就寝の挨拶をし、その背中を見送ったあと、わたしは兄と二人で洋室に戻り、ベッドの縁に腰掛けた。
居間からは、祖母の友人達の楽しそうな話し声が届く。
「真珠? どうしたの? 貴志さんと……何かあったの?」
兄が心配そうに、わたしの足元に跪いた。
わたしは首を左右に振った。
何もない。貴志との間には、何もなかった。
ただ、物足りない──そう思っただけ。
それよりも──
「お兄さま、何か話があると昼間うかがっていたと思うのですが……」
わたしは、兄に訊ねた。
話とは何か?──と。
「ああ、たいしたことじゃないんだ。明日、僕はある人のためにピアノを弾く──それは真珠にも伝えていたよね?」
わたしはコクリと頷く。
兄は優しい光をその眼に宿しながら、ベッドに腰掛けるわたしを下から見上げた。
「その人は、その場にはいないんだ」
わたしは兄の瞳を静かに見つめ返す。
そうか、やはり晴夏の言うように、その相手は理香ではなかったのか。
晴夏に引き続き、兄に対して失言をしなくて良かった。
兄の『大切な人』は、この『天球』には来ていない──わたしの知らない、誰かなのだろう。
「だからね、真珠。僕の演奏を、その人の代わりに、君が聴いてくれると……嬉しいんだ」
思いも寄らなかった兄の願いに、わたしは目を見開く。
「わたし……が? 良いんですか? そんな大役を任せていただいて?」
わたしの両手を、兄の手が包み込む。
「お願い……できるかな?」
わたしは満面の笑顔で、その返答をする。
「はい! その役目、わたしでよければ、是非!」
兄は嬉しそうに笑って、わたしの頭を撫でてくれた。
「ありがとう。こんなお願いを引き受けてくれて」
わたしは、兄の手を握り返した。
「その大切な方の代わりにはならないでしょうが、お兄さまの演奏をしっかりと、わたしの心に刻み込みます!」
兄は少し苦しそうな笑顔をみせた。
本音は『想い人』本人に聴いてほしい──そう思っているのかもしれない。
兄のその想いを、代役ではあるが、わたしの心でしっかりと受け止めよう。
「ありがとう……真珠。僕のこの気持ちを、明日は君の為に奏でるよ。この想いを──
『この音色を、君に捧げよう』──」
兄の、少しくぐもった声が、微かに震えているのが分かった。
彼が『想い人』を慕う、その気持ちの深さが伝わり、わたしの心を揺さぶる。
『……心に決めた人がいます。彼女を守り続けると決めているので、結婚は……考えていません』
兄が紅子に伝えた言葉がよみがえる。
何故、結ばれない相手なのだろう。
彼の苦しい恋の相手とは、いったい誰なのだろう。
兄とその女性が、上手く心を通わせることができたらいいなと思う反面、兄の心を苦しめるその女性に対して、恨めしい気持ちも湧き上がる。
わたしの中で生まれた、兄に対するこの感情を何と呼ぶのか。
大切な兄弟が、知らない誰かのものになる──その時に、姉や妹が異性の兄弟に対して抱える、そんな複雑な気持ち。
これは、尊に対して抱いたあの気持ちと、何処か似通っているような気がした。
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