第104話 【鷹司晴夏】王者の音色
『曲目・リベルタンゴ。演奏者・チェロ・葛城貴志。伴奏者・ピアノ・柊紅子』
会場内をアナウンスが流れる。
貴志さんの名前がアナウンスされた途端、一角に集まっていた数十人の女性陣が大きな拍手を送る。
彼の知り合いなのだろうか、かなりの大人数が手を叩いている。
母の名前が追って発表されると、会場内をざわめきが駆け抜けた。
スマートフォンの動画録画を開始する人もあらわれた。
貴志さん本人がチェロと共に舞台に上がると、チャペル内が更に騒然となった。
スラリと伸びた手足。気品のある立ち居振る舞い。
彼のすべてが観客を虜にしていく様は圧巻だった。
次いで母が舞台に上がる。
客席から感嘆の溜め息がもれるのを耳にした。
母は――すでに『柊紅子』という『人間』ではなくなっているようだ。
まるで仮面を付け、まったく別の女性を演じ、貴志さんと視線を絡め合わせている。
その貴志さんも、今はすでに『葛城貴志』という『人間』ではなくなっているような気がした。
貴志さんが舞台上の椅子に座り、チェロのエンドピンの高さを調整する。
次に、母が彼の調弦のためにAを鳴らす。
彼も真珠と同じように、自分の耳の感覚だけですべての弦の調整をしている。
チューニングが完了し、少し張り詰めた時間が流れる。
二人は仲睦まじい様子で見つめあい、母が艶やかな微笑みを彼に向けあと――伴奏が始まった。
重さを感じる旋律。
絡みつくような音色の帯に自由を奪われていく。
――そんな感覚が僕を襲った。
いつもの母ではない。
揺らめくような炎が浮かび上がり、その炎が周囲に広がっていったかと思った瞬間――貴志さんを弄ぶような音色が突然爆発した。
母は彼とのリハーサル時とは全く違う弾き方をしている。
時々、彼らの練習を間近で見ていた僕だから、わかる。
これは、即興のアレンジだ。
僕の右隣に座る穂高も、母の予定外の演奏に息を呑んだのが分かった。
彼も、二人のリハーサルを見学したばかりなのだ。
この状況の異常さを知るのは、僕と穂高の二人のみだ。
彼らの演奏の推移を、ただ見守ることしかできなかった。
僕は冷や汗が出た。
こんなことをされたら――予測できない伴奏をされたら、僕では対応不可能だ。
予定外の行動をするのが苦手な僕。
予測不能な事態を嫌う僕。
もし、観衆の前でこんな伴奏を突然されたら、どうなってしまうのか。
動悸が止まらない。
手が震える。
貴志さんは――貴志さんも、焦っているのではないか?
僕は彼に視線を移す。
母からの、嘲笑うかのような挑戦を受けた葛城貴志。
僕は、彼の表情が驚愕に彩られていることを予想していた。
けれど――
貴志さんの口角がニッと上がる。
彼のその鮮やかな笑みに、会場が一瞬で支配されたのが分かった。
彼の双眸は焦りなど微塵も感じさせてはいない。
それは奏者としてのハッタリなのか。
いや、その不敵な笑みにも似た眼差しは、母からの挑発を受け、歓喜に似た興奮を――焔を感じさせた。
予定されていた伴奏とは全く違う演奏にも、彼は余裕の表情でチェロを奏で始める。
彼の指から紡がれた旋律が、心に忍び込んでくる。
昼間、僕が真珠との演奏で感じた背徳感など、なんて矮小なものだったのか。
彼らの旋律は、僕が感じた恥ずかしさなど一笑に付されてしまうような、圧倒的な心の繋がりを見せたのだ。
僕は心臓を鷲掴みにされたように、彼らを見詰めることしかできなかった。
そして、僕は自分を恥じた――『葛城貴志』を、心のどこかで侮っていたことを。
世界の柊紅子との共演。
彼は一介の学生だ。
彼女の演奏に呑まれてしまうのではないか――そんなことも考えていた。
けれど、これは――この演奏は――母のピアノの演奏さえも屈服させようとし、全てを呑み込み食らいつくそうとする――情熱の奔流だ。
僕は、その圧倒的な表現力に悔しさを覚え、拳をギュッと握りしめた。
彼の『心の音色』――それは、甘く切ない心震わせる調べだけでなく、これほどまでに熱く絡みつき貪りつくそうとする『熱』をも併せ持っていたのだ。
圧倒的だった。
彼の演奏は、他の追随を許さない――その場を支配し、見ている者を翻弄し、心を魅惑する――『王者の音色』だ。
僕は、二人の演奏に、身動きができなかった。
貴志さんの演奏の風格に、恐ろしささえ覚えた。
なぜ彼は未だに無名の奏者なのか。
――そして思い至る。
母が言っていた。
『初めて聴く音色だ』――と。
貴志さん本人も言っていた。
『大切な人に出会ったからだ』――と。
そうなんだ。
やはり、彼は真珠に出会って、僕と同じようにその心に光を灯したのだ。
その光が彼に、これほどまでの音色を与えているのだとしたら――
(負けていられない。負けるわけにはいかない)
僕は絶対に自分の『天上の音色』を――『最上の音色』を手に入れなくてはいけない。
僕は、音楽を、こんなにも愛しているのだから。音楽でだけは負けられない。
…
演奏がいつの間にか終わり、周りは全員が立ち上がり、惜しみない拍手を送っている。
その様子だけが僕の目を通して伝わってくる。
けれど――僕は拍手することができなかった。
立ち上がることさえもできない。
それほどまでに彼の演奏に衝撃を受け、打ちのめされていたのだ。
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