第103話 【鷹司晴夏】兄
『クラシックの夕べ』夕方の部が始まる。
僕たちはチャペルへ移動した。
その途中、母から声を掛けられる。
「ハル、インターミッションの時にホテルのベビーシッターサービスで今年も
「わかりました。ひとつ余分に席を取っておきます」
毎年、母が出演する日は、黛さんという女性が僕たちの世話をしてくれる。
今年から、僕も立食パーティーに参加してもよいということになり、今日は涼葉だけみてもらうことになっているのだ。
母と貴志さんの演奏が本日のトリを飾る。
その演奏鑑賞後に、涼葉は黛さんと共に部屋に戻るとのことだ。
涼葉は音楽鑑賞中は微動だにせず食い入るように奏者に集中しているのだが、その集中力が切れると途端に寝てしまう。
おそらく今日も母の演奏後に、すぐに眠ってしまうだろう。
…
教会の外には、開場前の人だかりができている。
奏者の縁者が先にチャペル内に入場できることになっているため、僕たちは関係者専用の入口へとむかう。
その際、穂高は真珠をあまり人目に触れさせたくないようで、ずっと彼女を隠すように誘導している。
確かに視線が集まってきているのが分かった。
彼女の持つ独特の――子供とも大人ともつかない、見る者の願望を体現するかのような雰囲気は、年齢に関係なく心惹かれてしまうのだろう。
その視線は、おそらく真珠だけに集まっているわけではない。その隣を歩く穂高の姿にも数多の人間が見入っている。
彼の整った目鼻立ち、おとぎ話の中から飛び出てきたような王子さまのような容貌も人目を惹くのだ。
彼ら二人は服装の統一感も相まって、さながら『王子と姫』のように、人々の目に映っているのだろう。
僕は涼葉の手を引いて、その後に続き演奏会会場に入った。
奏者の関係者らしい数人が既にチャペル内で着席している。
僕たちは五席を確保し、演奏開始の時間を今か今かと待つ。
穂高と一緒に今日のプログラムを見る。
インターミッション前の奏者の確認をしておきたかったので、彼に確認してもらったのだ。
彼が、そこに西園寺理香の名前を見つけた。
彼女はどんな演奏をするのだろうか。
どんな心を音色に灯して、音を奏でていくのだろうか。
…
演奏会の時間はあっという間に流れていく。
西園寺理香が伴奏する、バイオリンの二重奏が始まった。
このアンサンブルは、今日の奏者の中でもトップクラスの演奏を披露してくれた。
理香のアカンパニストとしての演奏技術はかなり高く、奏者の良さを最大限に引き出そうと常に努力してきたことを感じさせる。
こんなに心を込め、奏者の為に、より良い音楽を奏でる為にと尽力する人間が、他者を――真珠を傷つけるようなことをするのだろうか?
彼女たちの演奏が終わり、チャペル内に大きな拍手が起こった。
僕も惜しみない拍手を送る。
隣の穂高も複雑そうな表情で手を叩き、真珠は目をキラキラさせながら立ち上がって拍手をしている。
彼等の演奏後は十五分間のインターミッションだ。
休憩時間に入ると、ホテルスタッフの黛 玲子さんが僕と涼葉を見つけ、近くまで来てくれた。
「こんにちは。晴夏くん、涼葉ちゃん、一年でまた大きくなりましたね。今年もよろしくお願いしますね」
母よりも年上の女性だ。愛嬌のある笑顔とふっくらした姿が人に安心感を与える。
「あー、まゆちゃんだ!」
涼葉は黛さんの苗字を渾名にして呼んでいる。
「涼葉ちゃん、いま演奏のお休み時間ですから、念の為、お手洗いに行ってきちゃいましょうか」
黛さんはそう言ってから真珠にもニコリと笑いかける。
「真珠さんも、ご一緒しましょうね。一年会わないうちに本当にお綺麗になられて。オーナーが真珠さん自慢を繰り広げていましたが、まさか、これほどとは……」
最後は感嘆の声を洩らしているようだった。
「へ? 千景おじさまがわたしの? あ、ごめんなさい。挨拶もまだでしたね、失礼しました。黛さん、こんにちは。是非よろしくお願いします」
真珠は黛さんの科白に首を傾げた直後、彼女に対して挨拶をしていないことに気づいたようで、急いでお辞儀をしていた。
「お綺麗になられただけではなく、これほどまでにレディになっていらっしゃるとは。お子様方の成長の早さには、本当に驚くばかりです」
黛さんは、その愛嬌のある笑顔でふふっと笑ったあと、真珠と涼葉を連れてお手洗いへと向かった。
僕と穂高も、インターミッションの間はチャペルの外に出ることにした。
穂高は口元に拳を当てて、思案顔だ。
「穂高? どうした?」
僕は気になったので訊いてみた。
彼は僕の声に驚いたようで、反射的に顔を上げた。
「ああ、気がつかなくてごめんね。理香の演奏について考えていたんだ。あの演奏――」
「真っ直ぐな音色だった――な」
穂高の言葉に被せるように、僕の感じたことを伝えた。
彼は目を丸くした後、優しい表情で僕に笑いかける。
「晴夏くん、よく分かったね。『たいへんよくできました』――だよ」
穂高は慈しむような表情で、なぜか僕の頭を何度も何度も撫でている。
先ほどの冷たい声などまるで嘘だったかのような、本当に穏やかな笑顔だ。
彼の本来の性格はこの『優しさ』が大半を占めているのだろう。
あの底冷え感の伴う声は、きっと彼が必死にかき集めた鎧のようなものなのではないか――
この『優しさの塊』のような心に触れた後、先ほどの彼の様子を思い出すと、なぜか胸が苦しくなった。
懸命に武装するあの姿は彼の本質ではなく、すべては真珠を守る為のものなのだろうか。
そのことに思い至り、彼の心の内を想うと、僕は……とても……切なくなった。
「君にも分かったんだね。あの音色は、心根の美しいものでなければ出せない音だと……僕も思ったんだ」
穂高がそう言ってから、いったん言葉を区切る。
「でも、何か起きたら困るのも本当。だから、晴夏くん、君の協力が必要なんだ。真珠は、僕の――君の、そして貴志さんの大切な『宝物』だから」
彼は、もう一度僕の頭を撫でると「そろそろ、戻ろうか」と言って、僕の背中に手を添え、ゆっくりとした動作でチャペルへの扉へと促した。
…
僕にとって、月ヶ瀬穂高とはどんな存在なのだろう。
彼は、初めてお互いをファーストネームで呼びあうことを許された『友人』
真珠を守るための『仲間』
そして、これから先の未来、僕にとって本当に大切な『かけがえのない人物』になる――そんな予感がする。
真珠を想うのとは、また別の『愛すべき存在』
もしかしたら、人はそれを――『兄』――と呼ぶのかもしれない。
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