第105話 【鷹司晴夏】僕の世界


 身じろぎひとつできずにいる僕の周囲は、母と貴志さんの演奏後におきたスタンディングオベーションの熱気で溢れている。


 そうだ、打ちのめされている場合ではない。

 最高の演奏をした二人に敬意を示して、祝福の拍手を送らなくては。


 ふと、自分の席の右側をみると、既に真珠も穂高もそこにはいなかった。


 そう言えば、彼らは演奏後に母と貴志さんへ花束を渡しに行くと言っていた。


 ステージの方を見ようとしたその瞬間――会場が静寂に包まれた。


 突然の沈黙に、僕は何か大変なことが起きたのではないかと、慌てて舞台上に目を向ける。




 貴志さんが真珠を抱えて立っている?


 彼の左腕には真珠が抱き上げられ、彼女は貴志さんの首に手をまわしていた。


 彼は自分の唇に指を当てているようだ。

 その目は大きく見開かれ、ただ茫然と立ち尽くしているだけ。


 彼のあんな放心するような表情を初めて見た。


 何が起きたのだろう?

 理解が追いつかなかった。


 真珠が首を傾げて、貴志さんの顔を覗いている。


「貴志? どうしたの? 紅子に言われたとおり、ほっぺにチュッてしたよ。すごく感動したから」


 そうか、母に言われたように頬にキスをしたのか。

 だから貴志さんは驚いて、今の状態になっている?


 いや、彼は大人だ。

 頬へのキスで、ここまでの態度になるのだろうか。

 それとも相手が、彼の『天女』だったからなのか?


 でも、貴志さんは母からの問答無用のキスでさえも平然としていたのだ。今のこの驚き方は、やはり普通ではない気がする。


 意識が戻ったのか、貴志さんの顔が真っ赤になっている。よく見ると耳まで赤い。


 彼は右手で顔の下半分を覆うと、力が急に抜けたかのように地面にうずくまってしまった。


 真珠は彼の身体の間に巻き込まれている。


 貴志さんは、息も絶え絶えな様子だ。


「おま……お前、真珠。お前は何てことをしてくれたんだ……っ」


 どう考えても、貴志さんが変だ。おかしい。


 何か僕のうかがい知れない事態が起きたことだけは分かった。

 いったい何が起こったのだろう?


 会場も静まり返ったまま、固唾を飲むようにして舞台上の彼らを見守っている。


「どうしたの? 大丈夫? 貴志よ、しっかりしろ!」


 真珠が彼の背中をポンポンと叩く。まるで母親が子供をあやすような叩き方だ。


 その様子を見た僕の母が、高らかに笑う。


「貴志、最高のプレゼントになったな」


 母の隣にいた穂高が、彼らのもとに駆け寄っている。

 彼もいつもの冷静さを失い、常にない慌てた様子だ。


「真珠! 真珠! なんてことを!」


 その様子を見た僕は、自分でもよく分からないうちにステージに向かっていた。

 舞台上で何があったのかは分からないが、とにかく真珠を助けないと――そう思った瞬間勝手に身体が動いてしまったのだ。


 穂高が、真珠を貴志さんの身体の間から引き剥がし、その後様子のおかしい貴志さんを気遣う姿が見えた。

 引き出された真珠は、花束を抱えたまま舞台の上で座り込んでいる。


 僕は、真珠の前に立ち、右手を彼女に差し出した。

 彼女は犬がお手をするかのような条件反射で、僕の手を取る。

 その右腕を引き寄せ、彼女を立ち上がらせた僕は、その掌をしっかりと繋いだ。


 観衆の刺さるような視線が僕自身にも注がれていることに、今更ながら気づく。もうこのまま、彼女を連れて外へ出てしまった方が良いかもしれない。


 僕たちは、バージンロードを逆行する形でチャペルの外に足早に向かう。


 後方から穂高の声が届く。


「真珠! ちょっと、待って!」


 穂高が走って近寄る気配を背中に感じる。


 その後すぐに、母の声がチャペル内に響きわたる。


「貴志、行け! お姫様が連れ去られたぞ! 遅れをとるな! ここはわたしに任せろ!」


 後ろを振り返ると、貴志さんの背中を遠慮なく何度も叩く母の姿が目に入る。


 我に返った貴志さんが、周囲に真珠の姿がないことに気づき、慌てて立ち上がる。


「真珠っ 真珠! ちょっと待て! 待ってくれ! 穂高! 晴夏! 止まれ!」


 僕たちは、すでにチャペルの外にいる。けれど、貴志さんの声は僕たちの元にしっかりと届いた。

 かなり焦りを帯びた声で、彼がこんなにも大きな叫びにも似た声を出すことに驚きを覚えた。



 彼のその声が届いた瞬間、真珠に何かのスイッチが入ってしまったようだ。



 先ほどまで、僕のほうが彼女を連れ出していた筈なのに、今は真珠の方が我先にと前へ急ぐ。


「え? シィ、どうしたんだ?」


 僕は彼女の行動に驚いて、そんな声をあげる。

 真珠は生き生きとした笑顔を見せると、僕に急にその身を寄せた。僕はギョッとして一歩後退る。




「ハル、ごめんね」




 彼女は、楽しそうな笑顔と「ワクワクする」とでも言うような悪戯っ子の目を見せ、僕の首筋――鎖骨のくぼみを指でクイッと押した。




 僕は今まで感じたことのないゾワッとする感覚に驚き、全身が粟立った。



 その瞬間思わず彼女の手を離してしまい、真珠は僕の手からスルリと抜け出していく。



 彼女は少し離れた場所に立つと、ペロッと赤い舌を出し、僕に向かって片目をつぶった。



 動きを止めた僕は、自分の顔に熱が集まるのを感じる。


 彼女の指が触れた場所を隠すように手を置く。

 そこは――真珠の首筋に残る痣と同じ位置。貴志さんによってつけられたという、あの痕と同じ場所だった。



「ハル、捕まえてね。わたし、逃げるのは得意なの。これも体力作りの一環だよ。もっと鍛えないと」



 僕の身体は固まってしまい、一歩も動けないうちに、彼女は走り去ってしまった。


(捕まえる? 鬼ごっこでもするのか?)


 彼女が何を言っているのか全くわからない。

 混乱する僕の思考を他所に、真珠はどんどん遠くへ行ってしまう。


 穂高と貴志さんも追いついて、僕の位置で一旦止まる。


 穂高が「晴夏くん、どうしたの? 首をおさえて、真珠に何かされたの?」と、少し心配そうに訊いてくれた。

 けれど僕は、顔が更に紅潮してしまい何もこたえられない。



 僕のその様子に何事かを察知した貴志さんが、地の底から響くような声で言葉を放つ。




「あいつは――まさか晴夏にまで首筋攻撃を仕掛けたのか!? あれ程するなと仕置までしたのに。あの女は」




 貴志さんは、かなり不機嫌になった。


 僕は真珠に何をされたのだろう。

 なんだかとてもいたたまれない気分にされた気がする。


 こんな、彼女に翻弄されている場合ではないのに。

 妙な恥ずかしさが頭の中を占拠し、どうして良いのかまったく分からない。





 貴志さんが、真珠の後ろ姿をピシッと指差す。


「誰が一番早く、真珠を捕まえられるか競争だ! 行くぞ!」


 穂高が「え? 鬼ごっこ? この格好で?」と言って走り始める。


 貴志さんが「ああ、我らが姫のご所望だ。まったく!」と憤慨しながら駆け抜ける。


 鬼ごっこ――実は、一度もしたことがない。

 過去の僕は、その遊びを何処か冷めた目で見ていた。こんな遊びをするのなら早く音楽に触れたい、そう思って参加しなかったのだ。


 いまその当時の自分の行動を思うと、協調性のなさに衝撃を受け、反省をする程なのに。



 真珠は――真珠の周りに集まる彼らは、僕をこんなにも人間らしくさせてくれる。



 きっと、穂高だけでなく貴志さんも、僕にとってなくてはならない『かけがえのない存在』になるのだろう。




 先に進んだ貴志さんが僕を振り返り、穂高もその後ろで手招きをする。




「晴夏、早く来い! 置いていくぞ!」

「晴夏くん、急がないと! 真珠は隠れるのも上手なんだ」



 僕も、真珠を追いかけ、彼らの元へ走り出した。



 ああ、僕の世界は、なんて――



 目の前に広がる、景色が眩しい。

 この心に宿った光に、胸がいっぱいになった。



 満ち溢れた幸福感が胸から零れ、それは目頭を熱くさせる。

 その熱は、いつの間にか涙に変わっていった。



 僕の世界は今、光と多彩な色で染め上げられている。



 あの昏くて灰色だった僕の乾いた世界は、すでに思い出せないほど遠い場所へと去っていた。



 四人で飛び出した教会から、大きなざわめきと共に割れんばかりの拍手が起き、僕らの元にその喧騒が届いた。


 いまは、そのざわめきでさえも妙なる調べに聴こえる。




 真珠のことも、音楽への熱も、誰にも負けたくない。

 


 けれど、彼等は――


  僕の『好敵手ライバル』であると共に


  大切な『かけがえのない友』なんだ。



 ああ、僕の世界は、なんて――


   美しく輝いているのだろう。



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