第98話 【鷹司晴夏】痕


「僕は紅子さんと貴志さんのリハーサル見学があるから、晴夏くん――真珠のこと、よろしくお願いします。真珠、みんなでちゃんとお昼寝するんだよ」


 穂高がそう言って、真珠の頭を撫でる。

 真珠は気持ちよさそうにしている。


「お兄さま、頑張ってくださいね」


 彼女も本当はリハーサルを見学したかったようだが、「コンサート途中で寝落ちなぞしたら、武士の名折れじゃ」とブツブツ言っていたことを思い出す。


 時代劇が好きなのかもしれない。僕も謙介お祖父さまが時々見ている『水戸黄門』は、割と好きだ。


 僕の隣にいた涼葉が、穂高のシャツを控えめに引っ張る。

 その様子に気づいた彼は中腰になり、涼葉と視線を合わせた。


「涼葉ちゃんも、ちゃんとお昼寝するんだよ。僕と約束しようか? はい、指切り――ね」


 彼は朗らかな表情で涼葉に笑いかけ、その頭を優しく撫で、指切りをしている。


 涼葉は嬉しそうだ。

 そして、気難しい涼葉を、ここまで手懐けた穂高に称賛の言葉を送りたくなる。


 今年の妹は、穂高にべったりだ。

 彼の言うことは素直にきくし、穂高も涼葉の面倒を嫌がらずにみてくれる。

 そういえば涼葉は真珠にも懐いていたなと思い出す。


 月ヶ瀬兄妹と彼女は――いや、僕たち鷹司兄妹は――彼らと波長が合うのかもしれない。




 昼寝のために、僕と涼葉、そして真珠の三人は貴志さんの部屋へ移動する。


 玄関ドアの暗証番号を、何故か真珠が知っていたようで、三人で昼寝の準備に取り掛かる。


 僕がソファで寝ようとしていると「三人で寝たい」と涼葉が言い始めた。


 真珠も「ハル、こっちにおいでよ!」と楽しそうにしている。


 僕は溜め息をついた。


 でも、涼葉はきっと僕がそちらに行くまで、ひたすら「一緒に寝たい」と言い続けるだろう。


 諦めてベッドに向かい、一緒に横になった。



 真珠が僕と涼葉に薄手の布をかけて整え、横になる姿が見えた――のだが、彼女は急に起き上がった。


 スカーフをしていたので苦しかったようだ。彼女の雰囲気に良く似合ったスカーフだったので「外してしまうのか、もったいないな」と思った。


 彼女はスカーフを外した後、首元に手を当てて何か考え事をしているようだ。微動だにしないのでどうしたのだろうと思った直後、彼女はカッと目を見開き、慌ててベッドサイドの内線電話に向かった。



「貴志?―― お前のお仕置きのせいでわたしが大ピンチだ。どう責任をとってくれるんだ!」



 貴志さんが電話に出たらしく、彼に対して何か怒っているようだった。


「え? 聞こえないの? もう! 仕方ないなあ」


 受話器を置くと、彼女は「すぐに戻るから」と言って部屋から出ていった。


 彼女が外したスカーフが、ソファの上に残った。


 ――あれは何だったのだろうか?


 真珠の首筋――鎖骨近くにあった痕。

 彼女はそれを必死で隠そうとしているようだった。


 痣? いや、違う――


 貴志さんが何かをしたらしい――それだけは、なんとなく分かった。



          …



 少し憂鬱な気持ちで目を閉じる。

 真珠がそばにいたら緊張して眠れない。だから、彼女が戻ってくるまでの間に眠りにつかなければ。


 焦れば焦るほど、眠気は遠ざかっていく。


 なかなか訪れない眠りに、何度か寝返りを打っているうちに、瞼が徐々に重くなって行った。


 ああ、これで眠れる。

 そう安心した瞬間、ドアの開く音がして真珠が戻って来た。


 入り口の部屋から話し声が届く。

 気になって薄目を開けて確かめると、彼女は貴志さんに地面に降ろされたところだった。


 僕はその様子をボゥッとする頭で黙って見ていた。


 貴志さんは真珠と目線を合わせるように片膝をつく。何かあったのだろうか。



「あの日は、本当にどうかしていた。怖い思いをさせたのかもしれない。すまなかった」


「え? なに? どういうこと? 怖いって、何が? この痕をつけたことを言っているの? 貴志?」


 なんの話をしているのだろうか。僕には、意味が分からなかった。


 ただひとつ分かった事は、やはりあの首の痕は、貴志さんがつけた――ということだけ。


 自分の頭の中が麻痺したような、妙に冴えた感覚に支配された。


 貴志さんの両手が真珠の頬を包み、その右手がゆっくりと首筋に移動し、彼女の首筋に――あの痕の場所に触れたのがわかった。

 真珠は、その動きにビクッと身体を震わせている。


 僕は、目を閉じて、耳も塞ぎたくなった――けれど、いつもと違う二人の――貴志さんの様子に鼓動が激しくなり、動くことができなかった。


「俺は……」


 彼が何事かを言いかけた時――玄関のベルが鳴らされた。


「紅子が呼びに来たのかもよ? 戻って来いって」


 少し躊躇うようにして、貴志さんの手が彼女から離れる。


 ホッとする自分の心を不思議に思いながら、その様子を見ていた。


 ――これは覗き見になるのだろうか。

 身動きもできず、ただそうしているだけの自分が恥ずかしくなった。




「貴志? 貴志のことを怖いと思ったことはないよ。いつもわたしのことを大切に扱ってくれてるのもちゃんと分かってる」


 真珠は彼の首に抱きついた。


「いつも、守ってくれてありがとう。貴志が優しい人なのは、一緒にいるわたしが一番良く分かってるつもりだよ」


 そう言いながら、彼女は貴志さんの背中をポンポンと宥めるように叩く。


 貴志さんは、真珠のことを包むように、強く抱きしめていた。


 僕は自分の身体が、知らず震えていたことに気づく。


「誰に対しても優しく気遣うわけじゃない。お前が知らないところでは、かなり……ひどい男だと思う……。その自覚は……ある」


 自分を責めるような貴志さんの掠れた声が部屋に響く。


 『天女』の話をしていた時の、あの苦しそうな声に似ていることに――僕は焦りを覚えた。


 呼び鈴が、また鳴る。


「やっぱり紅子じゃないかな? 貴志、戻らないと」


 貴志さんはフーッと溜め息をつくと、もう一度彼女を抱き上げ、玄関に向かった。


「お前のその首の印、紅に化粧品を借りてカバーしてもらおう。後は、何本かネクタイがあるからそれで隠そう。悪かった」


 貴志さんがそう言いながらドアを開けた途端、女性の声が部屋に響いた。


「貴志、一年振りね――どうして今年は伴奏にわたしを選ばなかったの? 理由を教えて」


 貴志さんが息を呑む音が、部屋の空気を震わせた。


「西園寺、何故ここに……?」



 『西園寺理香』


 今日、その名を耳にしたのは三度目だ。



          …




 真珠は貴志さんに連れられて、部屋の外へ出たようだ。


 玄関の前では、何か騒ぎが起きている。

 母の声も聞こえてきた。


 ――真珠は大丈夫だろうか。


 しばらくすると、西園寺理香の怒ったような声が聞こえ、その後、玄関前は静かになった。


 いま、母と真珠と貴志さんの間で、何が起きているのだろう?



 それに、先ほど、西園寺理香がやってくる前の、あの二人の雰囲気はなんだったのか。



 真珠と貴志さんのあの様子――何故か自分の両親の姿と重なり、頭を何度も振った。



 考えても考えても何故そう思ってしまうのか結論が出ず眠れない。


 僕の混乱した心を知ってか知らずか、突然、部屋の内線電話が鳴り響いた。



 涼葉が起きてしまう――貴志さんの部屋だということを忘れて、僕は反射的に受話器を取ってしまった。



 恐る恐る、電話に応答する。


「もしもし……?」



『晴夏くん? ちょっと急ぎで聞きたいことがあって……起こしちゃったよね。本当にごめんね』



 受話器のむこうから届いたのは、穂高の声だった。




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