第99話 【月ヶ瀬穂高】暗中飛躍


「おい、穂高。貴志が戻って来ないから、ちょっと呼び戻しに行ってくる。お前も少し休んでおけ。ベッドで横になるだけでも楽になるから」


 紅子さんが、そう行って玄関から出ていく。


 僕は、貴志さんと紅子さんのリハーサル見学前に『リベルタンゴ』の伴奏譜を読み込みたくて、コピーをもらって寝室で確認していたところだった。


 寝室にはふたつのベッドがサイドテーブルを挟み、綺麗に並んでいる。そのテーブルの上には、時計と内線電話が設置されていた。



 休もうか――そう思ったけれど、もう少しで何かが掴めるような気がしたので、そのまま譜読みを続けることにした。



 紅子さんの話によると、先ほど真珠が来たらしい。僕はまったく気づかなかったけれど。



 『貴志が真珠を部屋まで送って行ったようだが、まだ戻ってこない』――紅子さんはそうボヤき、とうとう自ら連れ戻しに行ったようだ。



 しばらくすると玄関口が騒がしくなった。



 視線を向けると、真珠を抱き上げた貴志さんを引き摺るようにして、紅子さんが部屋の中に入ってきた。



 その途端、紅子さんが烈火の如く怒りだした。



「馬鹿者が! 何をやっているんだ。あの女には関わるなと言ったのに、舌の根も乾かぬうちに部屋に押しかけられるとは。今はあの小娘は、わたしに対して怒り心頭だから大丈夫だと思うが、わたしが出てヤツを挑発しなかったら、真珠があいつのターゲットになっていたかもしれんぞ」



 真珠がターゲット? どういうことだろう?



「断言できる。今日のコンサートの後は厄介なことになるぞ! お前の今の演奏を聴いたら、ヤツは間違いなく何か仕掛けてくる」



 不穏な気配がするが、今は動かないほうがいい。もう少し様子をうかがってからでないと、何も判断がつかない。


 僕は、焦燥にかられながら、息を潜めて三人の様子に注意を払い、譜読みに集中している振りをする。



「それに、真珠だ。こっちに来い」



 横目で盗み見ると紅子さんが両手を差し出している。貴志さんから真珠を受け取ろうとしていのが分かった。



「貴志、これはお前の仕業か。こんなろくでもない場所に所有印などつけおって。つけるなら見えない場所にしろ」



 真珠は紅子さんから首筋を確認されている。



 所有印?

 なんのことだろう?


 ――後で、調べてみた方が良いのかもしれない。



(それよりも―――真珠が何か大変なことに巻き込まれているのだろうか?)



 僕の心がザワリと波立つ。



 あの小娘――昼食後も、紅子さんは「あの小娘」と言っていた。名前は、確か――西園寺理香。



 貴志さんが真珠を送った後、紅子さんが彼を連れ戻しに行った時に何かあったのかもしれない。


 そんな予想をしていたところ、紅子さんがドカドカと寝室に入ってきて、そのままウォークインクローゼットへ消えて行った。


 玄関口側――ピアノの置いてある室内楽用の部屋を見ると、真珠が僕に気づいた。


 僕は、彼女に手を振り、ニコリと笑う。


 心配そうな表情は見せないよう注意し、何事もなかったかのような素振りを貫く。


 真珠も笑顔で僕に手を振り返す。

 彼女の様子は、特別変わったところもなく、至って普通。


 いまの処、何か大きな問題が起きている訳ではなさそうで、とりあえずは安心していいだろう。



(今日のコンサート後に何か仕掛けてくるとは、どういう事だろう?)


 そちらに意識を集中しようとしたところ、紅子さんから声をかけられた。


「穂高、ちょっと貴志と真珠と一緒に打ち合わせができた。次はここを読んでおけ」


 彼女から手渡されたのは『リベルタンゴ』の伴奏譜だ。先ほどのコピーとは違い、紅子さん直筆で細かな指示が書き込まれた譜面だった。


 その楽譜を僕が受け取ると、彼女は扉を閉め、寝室から出ていった。


 寝室と室内楽室をつなぐ扉が隔てられたため、会話の内容は聞こえない。

 何かを三人で話しているのはわかる。微かな声だけが耳に届く。



 サイドテーブルの内線電話が目に入った。

 ふと、晴夏の顔が浮かぶ。



(もう寝ているのだろうか? それとも、何か騒ぎがあって起きているのだろうか?)


 もし彼が、いま生じている事態を知っているのなら――話を聞きたい。


 紅子さんの言葉と様子から、コンサート後に何かが起こるかもしれないという不安が生まれ、どんな些細なことでも良いから情報がほしかった。



 真珠に何かあったら――彼女に害意を持ち、傷つけようとする者がいるというなら――絶対に許さない。



 何か、対策を練る必要があるのかもしれない。


 僕は意を決して、晴夏のいる部屋に内線電話をかける。

 呼び出し音が鳴ったかどうか分からないうちに、回線は繋がった。



『もしもし……?』


 晴夏の声が届く。


 すぐに出たということは恐らくずっと起きていたか、何か騒ぎがあって目を覚ましていたということか。

 いや、寝ていたところを咄嗟に電話に出たという可能性もある。



「晴夏くん? ちょっと急ぎで聞きたいことがあって……起こしちゃったよね。本当にごめんね」



 晴夏が一瞬戸惑いを感じさせた後『大丈夫だ。起きていた』と答える。



「いま、こっちに真珠と貴志さんの二人が来ていて、隣の部屋で紅子さんに叱られているみたいなんだけど――そっちで何かあったの?」




『…………っ』




 晴夏は、言葉を詰まらせていて返答はない。


 何かを口に乗せようとしたけれど、それを思いとどまったような……そんな惑いを感じた。



 これは――こちらから質問をした方が早いだろう。



 そう判断した僕は彼に問う。



「もしかして、誰か来たのかな? たとえば――西園寺理香、とか?」



 晴夏の息を呑む音が届いた――おそらく正解だ。



 サイドテーブルの時計の下。そこに『クラシックの夕べ』のプログラムを見つける。奏者の交流の為に事前配布される、一週間の演奏予定が組まれた小冊子だ。


 晴夏からの返答を待つ間に、パラパラとそのページをめくる。


 ――あった。


 西園寺理香――彼女もバイオリン・デュオの伴奏者として今日の演目に名を連ねていた。


『ああ……来た――その女の人が。貴志さんの部屋に』


 ――そうか、やはり来ていたのか。




 何も起こらなければ、それでいい。

 でも、万が一何か起きそうになったら?



 僕ひとりだけでは、全てを対応することは不可能だ。

 今はピアノのマスタークラスのため、真珠と四六時中一緒にいられるわけではないのだ。


 さて、どうしたものか――少し考え込むのと同時に、昼間の真珠と晴夏の様子が脳裏によみがえる。


 今日の昼食前のガゼヴォでの二人の合奏。

 あれは心を通わせた奏者同士にしかできない演奏だ。



 彼は真珠のことを特別視し始めている――それが分かる音色だった。


 あの場にいた全員が、間違いなくそれを感じていた。



 正直、嫉妬を覚えるほどの音の結びつきで、聴いているこちらまで赤面してしまう音の連なりだった。




 真珠は、匂いたつ芳しき花だ。


 彼女の周りに、その蜜を求めて蝶が集まるだろうことは、あの日から――早乙女教授に会ったあの日から、既に分かっていたことだ。


 彼も、おそらくその蝶。

 彼女に心を奪われたそのひとり。




 彼なら――晴夏くんなら、真珠の名前を出したら協力してくれるのではないか。


 深慮遠謀を巡らせたわけではない。

 ただの思いつき。

 特別なことをするわけではない。


 万が一の場合に備えておけるのなら、それに越したことはない。



 ただ彼女を見守るための『目』が、僕と貴志さん以外にも欲しかった。



 だから僕は、彼に提案を持ちかける。



「ねえ、晴夏くん、ちょっと協力してほしいことがあるんだ――真珠の為に」



 彼は――鷹司晴夏は『諾』と言うだろう


 ――真珠に心酔する、蝶なのだから。




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