第97話 【鷹司晴夏】『天女』への決意


「昼飯だぞ」


 母の声で我に返る――


 真珠もかなり驚いたようで、彼女の両肩が跳ねたのが見てとれた。


 たった今、協奏曲の最終小節を弾き終え、二人でその余韻に浸っていたところだった。


 二人同時に声のした方向を見ると、母と涼葉、穂高と貴志さんがガゼヴォの柱に寄りかかりっていた。


 演奏が終わるまで、声をかけるのを待ってくれていたようだ。



 何故か――


 (――見られた!)


 そんな羞恥心が僕の中に沸き起こり、顔が紅潮していくのが分かった。


 なぜそう思ったのかは分からない。


 でも、その気恥ずかしい感覚が、僕に動揺を与えたのは確かだ。



 二人で奏でた、魂が結びつくような演奏――それは人目には触れさせてはいけない――秘め事のような気がしたのだ。



 穂高と目が合った。彼は捉えどころのない表情で僕に微笑んだあと、すぐに真珠に視線を移した。


 貴志さんが目に入る。

 彼は腕組みをしながら柱に寄りかかり、僕と真珠を見ていた。彼は僕と目が合うと、微笑んでくれたような気がした。けれど、その瞳からは、胸に宿した感情を読むことはできなかった。


 真珠と目が合った。彼女は僕に向かって微笑むと、その手にしたバイオリンを軽く拭き、ケースへとしまう。


 彼女は僕が感じた疚しさなど『どこ吹く風』という表情で、穂高と貴志さんに走り寄り、二人に跳びつくようにギュッと抱きついた。


 真珠と一心同体になったかのようなアンサンブル――脳天を突き上げるような恍惚とした痺れ、あれはいったい何だったのか。


          …


 僕は、思わずホゥと溜め息をつく。

 真珠も僕と同時に溜め息をついていた。


 あの不思議な共鳴するような感覚を、彼女も思い出しているのだろうか。


 心が結びついた――そんな感覚だった。


 そう思うのと同時に、後ろめたいような気持ちが胸に去来する。この感覚は、気恥ずかしさを覚えるのだ。


 あまり口に上らせないほうがよい――この罪悪感のような感情に戸惑いを覚え、僕は黙って食事に集中しようと努力した。


「どうした? 二人とも。そろって溜め息なんかついて、仲良しだな。」


 母がフォークを手に持ち、ケーキを食べながら楽しそうに言った。


 僕のこの名状しがたい気持ちを、一番知られたくない人のような気がして、僕は静かに食事を続けた。


 もうこの話を早く終わらせたかったのだ――が、非常に残念なことに、真珠がそれを許してはくれなかった。


「ハルとのデュオ、本当に気持ちが良かった。きっとエクスタシーというのはこういう感覚のことなんだと思う」


 頬を上気させ瞳を潤ませながらそう語る彼女を、僕は思わず凝視してしまった。


 穂高がフォークを落とし、貴志さんはコーヒーを吹いている。


 常に落ち着いた物腰の彼らが、真珠の発言でこれだけ動揺しているのだ――ということは、彼女が口にした内容は、余程のことなのだろう。



 僕には、その発言の意味は分からなかったのだけれど――



 母が、僕たち男三人を見ている。


 とても楽しそうな表情だ。




「そうかそうか! ハルと経験してしまったのか。その絶頂感を!」


 真珠は、その身を乗り出し頭を何度も上下させながら、母に興奮した声で告げる。


「初めての経験をハルとしてしまった! これはわたしの正真正銘の初体験だ!」


 その真珠の叫びに、周囲の視線が僕たちのテーブルに一斉に集まった。


 やはり、余程の内容なのだ。

 でも意味が分からない。



 周囲から痛いほどの視線を感じた貴志さんが、頭を抱えながら真珠を指差し、次いで穂高に指示を出す。


「穂高、その阿呆アホウの口をいますぐ閉じろ。周囲の視線が痛い」


 真珠が貴志さんに、不服そうな顔を向けた。


 そこですぐ、穂高が彼女をたしなめる。


「真珠……、お口をチャックしようね」

「はい。穂高兄さま。分かりました」


 彼女はそう言うと、右手の親指と人差し指を唇に当て、チャックを閉じる動作をする。


 貴志さんには反発の眼差しを投げた彼女だったが、穂高には素直に従うことが分かった。




「ハル。で、どうだった? 真珠とのデュオは」


 急に矛先が僕にまわってきた。


 僕は思わず目を見開いてしまった。

 もうこの話は早々に切り上げたいのに、追及の手が緩まない。


 そして、あの奇妙な感覚を思い出してしまい、顔に熱が集まり、とても恥ずかしくて、いたたまれない気分になる。

 僕は頑張って笑おうとした――が、上手く笑えなかったと思う。


「そうか。真珠との合奏はそんなに良かったか」


 母は嬉しそうに笑った。


 良かったか、悪かったか――そう訊かれるのなら、間違いなく良かった。



 お互いがお互いを知り、ひとつの曲を折り重ねるように作り上げる時間。すべての雑念を忘れて楽器を鳴らし、彼女を感じることに没頭したのだ。



 素晴らしい、としか言いようがない感覚だった。



 そんなことを思っているうちに、母と貴志さんの話題は『今日のコンサート衣装のテーマカラーについて』に移っていった。


 やっとこの会話が終わった――と、僕はホッとして残りの食事をすませた。 




 みんなが昼食を食べ終え席を立った時、貴志さんの知り合いらしき女性二人組が彼に声をかけてきた。


「あれ、葛城君、お久しぶり。元気だった?」


 昔からの知り合いのようで、貴志さんも「ご無沙汰しています」と挨拶をしている。


 彼らの会話が届く。


「葛城君、柊紅子女史とデュオって聞いたわ。今年は『理香』と一緒には弾かないのね」

「もう彼女とは会ったの?」


「ええ、今年は柊女史にお願いしました。西園寺さんとはまだ会っていないですね」


 『理香』という名前と、『西園寺』という苗字に引っかかりを覚えた。

 最近、耳にしたはずだが、どこで聞いたのだったか?





 貴志さんがその二人のもとを去り、こちらに戻ってきた途端、母が溜め息をついた。


「西園寺理香――か。お前も変な女に目をつけられたものだな。あの小娘は見てくれとは違って、中身は蛇のような女だぞ。いつも男を侍らしてプライドだけは高い。いけ好かない女だ。まさか手を――」


 最後、母が何か彼に向かって言っていたが、その科白は急に小声になり、最後まで聞き取れなかった。


 貴志さんは、逡巡した後――


「……一度だけ、だ」


 と母にこたえていた。


 母が彼に対して、小さな声で叱咤しているが、内容までは伝わらなかった。


 しばらく貴志さんと母の間で、小声のやり取りが続き、最後に母が彼の背中を応援するかのようにバンッと叩いた。


 貴志さんは、母を見て自嘲の笑みを浮かべながら、言葉を口にのせた。






「今は……『あいつ』以外――他に欲しいものは何もないんだ」






 貴志さんの言葉に、僕は目を見開いた。



 『あいつ』――彼が話してくれた『天女』のことだ。



 彼の中で、誰かに託すのではなく「自分の手で幸せにしたい」――おそらく、そう決意したのだろう。



 今はまだ、その想いは伝えられない――そう彼は言っていたが、近い将来、彼と『天女』のもとに、幸せが訪れるといいなと思った。




 母と貴志さんのやり取りを、僕よりも近い位置でうかがっていた真珠が、視界に入った。



 何故だろう。

 彼女の表情は変わらない。


 けれど――その心が泣いているように思えたのだ。


 僕は、咄嗟に真珠の左手に触れた。



「シィ、何を泣きそうになっている?」


「え? 泣きそう……な?」


 彼女は驚いたような表情で、そう返答した。


 僕は彼女と手を繋いだ。そして、その手に力を入れる。



 泣くな。僕が守るから――言葉には、できなかった。


 掌を重ねて励ますことしかできなかった。




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