第96話 【鷹司晴夏】魂のユニゾン
真珠に促されて、調弦の準備に取りかかる。
僕がチューナーを起動させている間に、彼女は自分の聴覚をつかい、音の調整をものの数秒で完了させた。
「A線から」
真珠の言葉で、A線を鳴らす。
バイオリンから生み出される透き通った音が森に広がっていく。
「少し低い。もうちょっと。あと、少しだけ上げて」
僕は念のためチューナーを確認しながら、彼女の言うように音の調整をしていく。
ぴったりだ。
寸分の狂いもなく、僕の音をその耳の感覚だけで調整していく。
最後のほんの些細な音のズレは「この音に合わせて」と鳴らした彼女の音色に重ねて、音の調整を完了させた。
それと同じ調整を、D線、次にG線で、そして最後に一番の高音域を鳴らすE線で行う。
自分の耳だけが唯一の味方になる。だから、早く耳だけで音の調整ができるように頑張ろう――彼女に言われて、その通りだと思った。
僕は素直に頷き、彼女の調音の完璧さに舌を巻いた。
バイオリンを歌わせる。
指慣らしのために、まずは二人でスケールを弾くことになった。
真珠はポジション取りも正確で、正しい音を的確に弾いていく。
音楽の神に愛されているのではないかと思うような、非の打ちどころのなさに僕は愕然とした。
本当にすごい。
こんなに素晴らしい彼女と、コンチェルトが弾けるのだ。
この好機に感謝しないといけない。
僕は今まで自分の技術に、耳に、驕りがあったのかもしれない。
今まで僕の周りにいたの同年代の子供と比べれば、僕は上手な方だったと思う。
けれど、比較対象が彼女になった途端、僕は自分の未熟さに気づかされる。
井の中の蛙だったのだ。
このままでは駄目だ――もっと、もっと、彼女のように、努力をしなければいけない。
今のままでは、永遠に僕は彼女の域までたどり着けない。
どんな相手の演奏にも良いところを見つけ、気を引き締めて学んでいかなければ、彼女には追い付けない。
肌が粟立った。
こんなに素晴らしい音楽家と一緒に二重奏を合奏できるのだ。
――自分の幸運に身体が震える。
スケールを順番に弾いていく。
音の重なりが心地よい。
美しい共鳴が森の中をわたる。
真珠は、音階ごとに弾き方を変えていく。
まるで楽曲だ。これがただのスケールだというのなら、普段の味気なく感じた音階練習は何だったのだろう。
音階に、こんな楽しみ方があったのか――僕は衝撃を受けずにいられなかった。
彼女が弾き方を変える。
僕もそれに合わせて即時に対応する。
音を織り込み、音色を重ねる。
彼女と追いかけっこをして遊んでいるような、そんな不思議な気分だ。
心が躍る――次の音階はどんな弾き方で挑んでくるのか?
僕は彼女に、どんなふうに応えようか。
二人で時々アイコンタクトを取り、お互いの弓の動きと、呼吸を読む。
ほら、やはり――彼女とは音を通すだけで、言葉はなくとも会話ができるのだ。
これは魂のユニゾンだ。
彼女が歌うと、僕の音も歌う。
彼女が笑うと、僕の音も笑う。
彼女が跳ねると、僕の音も跳ねる。
ああ、僕は、彼女と一緒なら、音に心をのせることができる!
あの直感は間違っていなかったのだ。
心が躍る。
音が躍動感をもって
これが「音」を「楽」しむと言うことなんだ――
身体の中心部から、気持ちの良い痺れが脳内に伝わり、恍惚とした気持ちになる。
彼女の顔から笑顔が溢れ――彼女も僕とのこの時間を、心から楽しんでいるのが伝わる。
僕は演奏に耽り、夢中になって弓を引いた。
ただ耳に届くのは、彼女の呼吸と爪弾く音色のみ。
すべての音階を長調短調で弾き終わった時に、僕は爽快感の波に襲われた。
「すごい……っ」
気づくと僕はそんな感嘆の声を洩らしていた。
真珠を見詰めた。
僕は、多分、彼女に向かって初めて微笑んだのかもしれない。
彼女は、目頭に涙を潤ませ、黄金色の朝日のような笑顔を僕にむけた。
その笑顔は、今まで目にしたどんなに価値ある物よりも、僕の中でかけがえのない――『宝物』となった。
彼女は僕に右手を差し出す。
ああ、僕はこの手が好きだ。
この指を愛しく思う。
僕は彼女の右手をとり、二人で強く握手をした。
「一緒に弾くって楽しいね。すごく幸せな気持ちになるね。スケールだけでこんなに気持ち良く弾けるんだよ。デュオだったら、きっと、もっともっとワクワクするよ!」
彼女はそう言って、僕の手を握り返した。
僕は泣きそうになった。
音に心をのせる――それができた。
それも、こんなにも
彼女との音遊びは、僕の心を惹き付けた。
ただのスケールが、大切な思い出として、僕の心に刻まれる。
僕は、咄嗟に触れていた彼女の右手をそのまま引き寄せた。
僕のこの喜びに踊る、胸の鼓動を伝えたい。
彼女に知ってほしい。この言葉に表せない、幸福感を。
彼女の右手を、そのまま僕の胸に置く。
僕の心音は、彼女の手に直接伝わっているだろうか。
「ありがとう……。シィ、僕は君と一緒なら……見つけられるかもしれない……。僕の……僕だけの音色を……」
僕は、君となら、理想の音色を作り出せる。
母の、真珠の、貴志さんの、穂高の――すべての想いを混ぜた、天上の音色を。
彼女と共に、音を奏でる幸せを感じたい。
魂の結びつくような旋律を二人で作っていきたい。
いつか、君に、僕の天上の音色を届けたい。
いまは、その音色を目指して、人知れず努力する時だ。
その時が来たら――僕は――
『君に、最上の音色を捧げよう』
いま、彼女の瞳の中には僕がうつる。
僕の両目には、きっとこの輝くような笑顔をみせる彼女がうつっているのだろう。
「ハル――わたしに聴かせて。あなたの音色で奏でるバッハを」
僕はバイオリンを構える。
――彼女の望む、僕の調べを捧げるために。
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