第95話 【鷹司晴夏】月ヶ瀬真珠について
真珠の胸に右腕を抱きかかえられ、まるで連れ去られるようにして到着したガゼヴォ。
バイオリンケースを中央の台に二人で並べて置く。
密着していた真珠が離れ、ホッとすると共に、少し寂しい気持ちになる。
けれど、今はそれどころではない。
心臓が苦しいのだ。
ドキドキと脈打つ音が身体の中を駆け巡り、耳の奥にまで届く。
胸の動悸だけでなく、目頭までも何故か熱く、視界が霞んで見える。
僕は、口元と胸元を押さえて座り込んでしまった。どうしてか分からないが、立っていられなかった。
走ったわけではない。真珠の速度に合わせて移動しただけ。
特に激しい運動をしたということでもないのに、早鐘を打つような心音に、僕は妙な焦りを覚えた。
さきほどから続く、この胸の高鳴りは一体なんなのだろう。
苦しい。でも、この痛みは悪くない。
むしろ心地よいとさえ感じる――そんな不思議な痛みだ。
そんな僕の様子を心配したのか、真珠が目の前でうずくまる。
彼女は、その手を伸ばし、僕の頬を両手でそっと包み、僕の両眼をじっと見つめている。
呼吸が荒いのを心配してくれたのか、僕の頬に触れて確認しているようだ――が、息がかかる程の近さだ。
これでは余計に落ち着くことができない。
彼女の内面から溢れる眩い光を宿すその双眸が、僕の瞳をのぞき込むようにゆっくりと近づいてくる。
――穂高の柔和さの中に見え隠れする毅然とした美しさも目を見張った。
――貴志さんの華やかな魅力も、品のある佇まいと大人の
でも、真珠は――彼女は、美しいという言葉だけでは言い表せない、超越した美――艶麗とした雰囲気をその身に湛えているのだ。
清廉さと妖艶さ。
奥ゆかしさと大胆さ。
子供の無垢と大人の色香。
そういった対極にあるもの全てを内包しているのだ。
彼女がそこにいるだけで、とても目を惹く。誰もが心を絡め取られてしまうのだ。
…
昨日、穂高の休憩時間に『真珠』とは、どういう人物か――と訊いた。
彼は僕からの問いを、不思議そうな表情で受けた。
なぜ僕がそんな質問をしたのか分からなかったのだろう。
だから僕は、涼葉が「シィシィに会えない」と嘆き脱走を繰り返す様子を伝え、もしかしたらその『シィシィ』は真珠かもしれないと彼に打ち明けたのだ。
穂高は「真珠は、僕の『眠り姫』――愛する妹だ」と言っていた。
僕と涼葉は、その『シィシィ』と「早朝のガゼヴォで何度か会ったことがあるんだ」と伝えると、彼はとても驚いていた。
でも、僕は彼女の顔を覚えていない――真珠の兄である穂高に対して、妹の顔を思い出せないと告げるのは申し訳ない気もした。
けれど、隠す意味もなかったので素直にそう伝えると、穂高は苦笑した。
「去年の彼女とはまるで違うよ。だから、僕も、叔父も――とても心配で、目が離せないんだ」
そんなことを言っていた。
不思議に思って首を傾げていると、彼は教えてくれた。
「この前、三人で出かけた時から、真珠は花開くように突然綺麗になったんだ。本人はまったく気づいていないし、意図せずに周りを虜にするから――誰かに連れ去られでもしたら……大変だからね」
穂高はそんなことを言ってから「困った妹なんだ」と溜め息をついていた。
一日でそんなに雰囲気が変わるものなのか――と不思議に思ったのだが、コンクール映像の『真珠』を思い出し、あのガラリと変わった印象に思い至る。
穂高は、妹のことを思い出しているのだろうか。どこか遠い目をして呟くように言葉を続けた。
「だから、僕が一緒にいる時は常に手をつなぐし、叔父が一緒にいる時は、彼が真珠を抱き上げて……周囲を牽制してくれているんだ」
その意味が分からなかった。
確かに真珠は――あの映像の彼女は、瞬時に演奏家の仮面を被った。
けれど、穂高が言うほどの誰もが虜になる魅力というのは、僕には分からなかった。
僕は、その彼の言葉を『身内の欲目』なのかと思い、理解していなかったのだ。
…
――けれど、今。
彼の言っていたことが、まざまざと、思い出される。
『もっと、彼の話を真剣に聞いておけばよかった』と――とても後悔した。
彼女の双眸が、僕の瞳をのぞき込むようにゆっくりと近づいてくる。
あまりの美しさに目を見開くことしかできない。
近づく彼女の顔から目が離せない。
身動きができない。
目を閉じることさえできない。
僕は息を呑んだ。
彼女の鼻先が、僕のそれに触れ――呼吸が、完全にできなくなった。
どのくらいの時間、僕と彼女が触れ合っていたのか――分からない。もしかしたら一秒にも満たない時間だったのかもしれない。
あまりの緊張に、時間の感覚が止まってしまったのだと思う。
けれど、彼女は僕の瞳の中の何かを確認すると、何事もなかったように離れていった。
止めていた呼吸に気づき、息を再開する。
ますます呼気が荒くなる。
僕の焦りなど、まったく気にする風でもなく、彼女は難しい表情をして何か考え込んでいる。
彼女の様子を息を詰めて凝視している僕をよそに、真珠は「ま、いっか」とでも言うように平然とした声で「立てる? ハル? 大丈夫?」と言うのだ。
彼女はさっさとひとりで立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
さきほど、鼻先が触れ合ったことなど全く気にしない彼女。
その様子に呆気にとられ――僕は我に返った。
貴志さんの言うように、僕は早速彼女の奔放さに振り回されているのだろうか。
気を取り直して、一度肺の中の空気をすべて吐き出し、次に深呼吸をする。
そして「大丈夫だ」と告げて、彼女の手は取らずにひとりで立ち上がった。
いま彼女の手を取ったら、自分の心臓と心が、どうにかなってしまいそうな気がしたのだ。
彼女は、バイオリンケースに向かい楽器の準備を開始する。
もう、こちらを見向きもしない。
僕の存在を完全に忘れたかのように、バイオリンにだけ視線を注いでいる。
突然の放置状態に、なんだか心許ない気持ちになった。
でも、これを気にしていては駄目なのだろう。
――貴志さんの教えが、再び脳裏をかすめた。
必死に気にしないようにして、僕も弓を張り、松脂を付ける。
バイオリンに顎当てをつけて、それらを手に取った。
「チューニングしようか。準備して」
彼女のその一言で、僕の中でスイッチが切り替わった。
そうだ。今からは音楽と向き合う時間だ。
――もう、余計なことは考えている暇はない。
彼女の音色と、僕の音を重ねる――彼女の魂と繋がる時間なのだから。
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