第89話 【鷹司晴夏】「ハル」


「どうした? ハル、溜め息なんてついて」


 母に訊ねられる。


「何でもありません」


 落胆を隠せないまま、そう答えるだけで精一杯だった。

 真珠は僕から逃げて行った。そのことを思い返していただけだ。


「まあ、気を取り直せ。そろそろ穂高がスズを拾ってやってくる頃だ。スズは脱走の常習犯だな。まったく困ったやつだ。シィシィとはなんだ? 本当に真珠なのか!?」


 母はブツブツと呟いている。


 シィシィは、シィで真珠だ。

 でも今は、その名前を口に出すのが辛い。

 母には申し訳ないが、今は答えずに沈黙を貫いた。


「ちょっと外に出て、穂高とスズを待つぞ。お前はどうする?」


 僕は顔を上げて、母を見る。

 そうだ――


「僕は、お隣の棟のチェリストの方を訪ねてみたいと思います。もう少ししたら行ってみます」


 僕の科白を受けて、母は時計にチラリと目をやる。


「そうか。わたしもちょっと隣をのぞいてみるとするか。起きているようだったら、その人物が出かけてしまう前に声をかけておこう」


 母はそれだけ言うと、玄関から出て行った。

 涼葉は、穂高にとても懐いている。たった一日で仲良くなってしまったのだ。


 穂高が羨ましい。


 彼はきっと誰とでも仲良くなれるのだろう。

 だから、気難しい涼葉でさえも一瞬で彼を好きになったのだと思う。


 僕は人と話すのが苦手だ。それは理解している。


 人の心を慮ることが得意ではない。

 だから、いつも色々なことが上手くいかないのかもしれない。



 音楽を志す仲間に対しては、特に辛辣だったのではないか――今ではそう思う。



 真珠を想うことで、その事実に気づけたのだ。そのことだけでも彼女に感謝をしなくてはいけない。



 僕は、共に切磋琢磨できる「音」を「楽」しむ仲間が欲しかった。


 お互いの欠点を慰めあうのではなく、不甲斐なさを理解した上でぶつかり合い、極限まで感性を研ぎ澄ませる『仲間』――宝石を研磨するように最高の音色を紡ぎあう、そんな『友』が欲しかったのだ。



 彼女なら、そんな存在になってくれるのではないか――そう思っていたのだけれど、それはやはり甘い考えだったのかもしれない。



 本当は、真珠に手を伸ばすのが怖かった。


 彼女の生み出す音色に焦がれるあまり、後先を考えずに腕を伸ばしてしまった。

 結局、受け入れてはもらえなかったけれど。


 彼女は何を思ったのだろう。

 どうして僕の前から逃げるように消えたのだろう。


 そんなことを思いながら、僕は意を決して、玄関を出た。

 隣の棟のドアの呼び鈴を鳴らす。


 その建物の中から、騒がしい気配が届く。


 どうしたのだろう?


 そう思っていると――

 

「部屋主は、ただいま絶賛お取り込み中ですよ」


 ドアの中から、不機嫌さを滲ませた少女の声が届いた。


 この声は――


「……シィ……なぜ、ここに……?」


 僕は茫然としながら、その声の主を見詰めた。

 


 そこには、先ほど僕が差し伸べた手から逃げ出した少女―――真珠が立っていた。


 彼女は、ポカーンとした顔をして、僕の目を凝視している。

 そして、しばらくしてからソローッと視線を逸らすと、バツの悪そうな様子で、こう言った。


「と……トウモロコシ、食べる?」


 意味が分からなかった。


 彼女は何を言っているのだろうか。

 僕の聞き間違いなのかもしれない?


 それとも、僕のうかがい知れない、何か大切なことを伝えようとしているのだろうか?


 おそらく僕は、未だかつてない呆気にとられた顔をしていることだろう。

 思わず声がこぼれてしまった。


「……は……、トウ……モロコ……シ?」


 何故ここでトウモロコシの話が出るのか、脈絡がまったく分からなくて混乱したのだ。


 僕は何て答えるべきなんだろう。


 いただきます?

 一緒に食べましょう?

 それとも、遠慮した方がよいのだろうか?


 会話のキャッチボールをしたことのなかった僕はどう答えるのが正解なのか分からず、言葉をどう続けるべきなのかと思考が停止した。


 そんな状態の僕をよそに、母の嬉々とした声が玄関先まで届いた。


「おう! ハル、来たのか? お前が昨夜、流れてきたチェロの音色を気にしていたから、こいつを捕獲しといたぞ」


 母はそう言って、青年の頬に唇を当てた。

 彼の頬に母の赤い口紅がべったりついた。


 ああ、これはなかなか落とすのに苦労する口紅だ。

 僕も時々、頬につけられるから分かる。


 昨夜の胸打つ演奏のチェリスト――彼がその音の主。


 この様子だと、母の古くからの知り合いなのだろう。

 僕は、トウモロコシと落ちない赤い口紅に動揺しながら、礼を言う。


「あ、ありがとうございます。母さん」


 その青年は心底迷惑そうな表情だ。

 蔦のように絡みついた母の腕を剥がし、そのまま彼女を窓の外に追しやった。


「相変わらずの馬鹿力だな。もう俺だって子供じゃないんだから、こういう歓迎は止めろ。紅。色々と誤解を生む」


「いっぱしの大人ぶって。成長したなぁ、貴志。まあ、そう言うなって」



 貴志――ああ、先週、電話をくれた人だ。

 彼が、母に伴奏を頼んだ人物だったのか。


 ふと真珠が目に入った。

 彼女は、彼らのやり取りを凝視し、微動だにしない。


 直後、彼女は身体をビクッと跳び上がらせた。


 その瞬間――


「ハル! そいつを確保! これと交換だ」


 母の威勢の良い声が部屋中に響いた。


「え……?」


 僕は、何か起きているのか全くわからなかった。

 疑問だけが頭の中をぐるぐるとまわる。


 真珠は何故ここにいるんだろう?

 トウモロコシはどうしたらいい?

 僕は彼女をつかまえなくてはいけないのか?

 でも、どうやって?


 どうしていいのか分からないことだらけだ。


 立ち尽くすしかできない僕に、天の助け――穂高の声が窓の外から届いた。


「紅子さん! ここにいたんですね。森にいましたよ!」


 母は嬉しそうに両手を広げて、穂高とその背中で眠る涼葉を迎え入れた。


「お! 我が家のお姫さまを見つけたか? ご苦労であった、穂高よ。褒美にこの紅子さまがチュウをして進ぜよう」


「いえ、結構です」


 穂高はすごい。

 母からの問答無用でされる頬への口づけを、自力で回避できるのだから。僕にはできない技だ。


 真珠を見る。

 彼女は何故か両手を合わせて、穂高を拝んでいた。


 これは何をしているのだろうか?

 彼女の行動がよく分からない。


 真珠に気づいた穂高が、嬉しそうな笑顔を見せる。


 彼のこんなに幸せそうな笑顔を、僕は初めて目にした。


 仲の良い兄妹なのだろう、お互いに微笑みを交わし、手を振りあっている。



          …



「まさかあの昨夜の演奏がお前だったとはな。驚きだ」


 母はそんな言葉を貴志さんに対して告げた後、穂高と共に涼葉を連れて部屋に戻って行った。

 母は去り際に、僕の希望を貴志さんに伝えてくれた。希望――彼と昨夜の演奏についての話をしてみたかったのだ。


 あの胸に染み渡る音色を、彼はどんな気持ちで爪弾いていたのだろう。その心を知りたかった。


 僕は、真珠と貴志さんのいる部屋に残された。


 真珠が、また僕の横をすり抜けてどこかへ逃げようとしていることに気づく。


 ああ、また逃げてしまう。それは嫌だ――僕が彼女の手を掴んだのは咄嗟のことだった。


 彼女の、あの輝く音色を作り出すその手は、触れてみるととても小さいことが分かった。


 テレビの画面では、まるで往年の音楽家を思わせる存在感を示していた彼女。しかし、実際にはとても小さな少女だった。


 彼女の手は、僕の憧れの音色を生み出す手だ。

 その指は、焦がれてやまない音の渦を作り出すのだ。


 僕は彼女の手を、宝物のように丁寧に両手で包み込んだ。



「君に……君に、会いたかった」



 彼女にとても会いたかった。

 奇跡の音色を生み出す、その手に、指に、触れたかったのだ。


 貴志さんが「まずは朝食だ」と腰かけていたベッドから立ち上がる。



 僕は、彼女の手を離せずにいた。

 離したら、今度こそどこかへ行ってしまい、二度と会えなくなるような気がしたから。



 彼女が何かを話しかけてくれているけれど、僕はその手に意識が集中してしまい会話らしい会話もできなかった。


 この手だ。

 この手があの『天上の音色』を生み出し、育むのだ。


 森の中のガゼヴォを通り過ぎる。

 今朝の様相とは打って変わり、そこは清々しい陽光に照らされている。


 真珠が僕のことを、躊躇いがちに呼んだ。


「あの、ハル……ルン?」




 僕は――



「ハル」



 そう一言、彼女に告げた。



 両親と涼葉――家族だけが呼ぶ、僕の愛称。

 


 何故だか分からない。

 けれど、彼女には、その名で呼んでもらいたかった。




 だから、僕はもう一度言った。 


「シィ。ハル――だ」


 真珠は、きょとんとした顔をしたのち、頷いてくれた。


「うん、わかった――ハル」



 彼女が、家族だけが呼ぶ僕の名前を、その口で紡いだ。


 僕はとても温かい気持ちになって、繋いだ手にそっと力を入れた。




 彼女の掌から伝わる温もりが、この手を『天上の音色』に近づけてくれるような、そんな気がした。




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