第90話 【鷹司晴夏】葛城貴志という人


 朝食のため『天球』本館のレストランへ行った。

 いつもルームサービスで食事をとっていたので、大人数で食べる食事はとても賑やかだった。


 朝食中は母の所業と言動に、貴志さんと真珠は頭を抱えていたようだ。


 その疲弊した様子も印象深かったのだが、目に焼きつき耳から離れずにいるのは――穂高の様子と、絞り出すように呟いた言葉だった。



 穂高はピアノの曲を『大切な人』の為に奏でたいと言っていた。


 母はその人のことを穂高の『想い人』だと言う。

 朝食中の会話で、穂高はその『大切な人』のことを『心に決めた人』と言い換えていた。



 真珠が彼の想いを応援すると言った時の、彼のあの表情と掠れた声が耳から離れないのだ。



 あの、絞るように出した『ありがとう』という真珠にむけた言葉――そこには彼の奏でる曲に見え隠れする、苦しさと切なさが含まれているように感じたのだ。




 彼が『大切な人』だという、その女性と言うのは――もしかして?


 そう考えて、頭を振る。

 いや、そんなことはないだろう。

 きっと僕の思い違いだ。


 でも、その疑念は払拭できずにいる。


 穂高が真珠に向ける微笑みは、僕が妹の涼葉に向ける想いとは、少し異なる気がしたのだ。



          …



 部屋に戻ったあと、気持ちを落ち着けるべく深呼吸をした。

 真珠は、あとから穂高と一緒にこの部屋へやってくる。


 僕も彼女に質問したいことがあるのだ。

 けれど、その前に母が彼女と話をすることになっている。


 母は真珠との話の場で、おそらく僕との二重奏を打診するのだろう。


 彼女は受けてくれるだろうか。


 僕は、彼女と同じ舞台に立ちたい。

 彼女の作り出す『天上の音色』に少しでも近づきたい。

 

 もう一度顔を洗い、神経を研ぎ澄ますように目を閉じる。

 そして、そのまま一度深く息を吐く。


 彼女が承諾してくれるかどうかは分からない。

 けれど、そこは話をつける母に任せるしかない。



 僕は――今の僕にできることをしていこう。



「貴志さんのところに行ってきます」


 母にそう告げて、僕は彼の滞在する隣の棟へと向かった。




          …



「晴夏、お前……ひとりか?」


 玄関の呼び鈴を鳴らすと、貴志さんが迎え入れてくれた。


「はい。僕ひとりですが……なにか?」


 不思議に思って訊ねると、彼は少し思案するような表情を見せる。


「いや、真珠も昨夜の演奏について聞きたそうにしていたから……、紅との話を後回しにして、一緒に乗り込んでくるかと思っていただけだ。気にするな」



 真珠は来ない――そう伝えた時、彼がホッと安堵したように映ったのは僕の見間違いだろうか。



 寝室に通され、ソファへの着席を勧められる。


 ミネラルウォーターのボトルを手渡されたが開封せず、僕はそれを目の前のテーブルに置いた。



「晴夏、最初に謝っておくが、答えられない質問も……あると思う。そこは分かってほしい」



 貴志さんはベッドに腰を下ろして、両脚に腕をつき、その長い指を交差させる。



 とても真摯な眼差しだ。

 その言葉から、彼の答えられることは、きちんと答えようとする姿勢を感じた。



 この人は、僕を子供だと侮ったり、返答を煙に巻いて誤魔化すことをしないのだな。


 そのために、彼は事前に断りをいれてくれたのだ。

 彼の真面目な態度は僕にでも分かった。



 子供に対しても誠実な態度で向き合ってくれる――彼の人柄が伝わり、憧れにも似た思いが湧き起こる。



 今朝、初めて会った時は、少し危険な香りのする大人の男性だと感じた。


 でもそれは、きっと彼の外面しか見ていない人が出す、最初の評価なのかもしれない。


 彼の華やかな容姿が、そういった実直さや律儀さを隠してしまうのだろう。


 彼の心の奥底はきっと、とても温かく慈愛に溢れている筈だ。




 この人は信用してもいい――この葛城貴志という人の話を聞いてみたい。僕はそう思った。




「ああ、そうだ。何故あの曲を弾いたのか、という質問には答えられない。気が付いたら弾いていた。これは昨夜、あいつにも――真珠にも答えた内容だ」


 貴志さんは、思い出したように、そう告げた。


 あの曲――『夢のあとに』

 元は歌曲だと、母が教えてくれた。



 『覚めてしまった夢の中で出会った女性に恋焦がれ、追い求め、けれど二度と会うことができないと嘆く歌だ。情熱的だが寂しさの漂う旋律だったろう』



 そして、母は更に続けた。



『おおかた、苦しい恋でもしているんだろう―――この奏者は』



 あの音色は、穂高のピアノの調べを彷彿とさせる。



 貴志さんのような大人になっても『恋』というのは苦しいものなのだろうか。

 なぜそんな辛い思いをしてまで、人は誰かを好きになるのだろう。


 僕にはまだ、その気持ちは分からない。

 苦しくて辛いだけなら、そんなものは僕には必要ないとさえ思える。



「貴志さんは、苦しい『恋』をしているんですね」



 僕の口から、母から聞いた言葉がこぼれた。


 彼は驚いたような表情を見せたあと、少し自嘲の笑みをもらすと天井を仰いだ。そして、僕の耳に彼の溜め息が届く。


「そう……なのかも、しれない」



 少し掠れた声が、穂高の「ありがとう」というあの声に重なる。



「僕は、生まれて初めて、誰かの奏でた音色に心打たれて泣きました――あなたの奏でた音色で涙が止まらなかったんです」


 貴志さんは、僕の科白を聞き双眸を細めた。



「それは、音楽家にむける最上の称賛だ。ありがとう」



 この人は、なんて優しく微笑むのだろう。

 こんなに素敵な男性から想われる女性は、きっととても幸せに違いない。



「貴志さんは、何を思って、あの曲を弾いたのですか?」



 僕は、それが知りたかった。

 

 どうしたら、あんなに心の震える演奏ができるのか。

 何をどんなふうに想えば、彼の音色に近づけるのか。


 あれは母や真珠が奏でる物とは異なる『天上の音色』だ。


 僕は、彼の奏でるあの調べに涙がこぼれるほど、心を奪われたのだ。



 貴志さんは、遠い目をしている。

 その心に誰を思い浮かべているのだろう。



「――とても、大切な人を。求めてはいけない……触れてはいけない人を想って……」



 貴志さんはうわ言のように呟いてから、ハッとしたように右手で半顔を覆った。顔も少し赤い。



「すまない。余計な事を言ったようだ……」



 彼は自分が放った言葉について、僕に聞かせてしまったことを少し後悔しているように見えた。



「いえ、ありがとうございます。ここでの話は、誰にも……シィにも言いませんから」



 ――そう言わなければ、いけない気がした。




 

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