第88話 【鷹司晴夏】Boy meets Girl


 その日――夜明け前に目が覚めた。


 カーテンの向こうをのぞく――東の空は薄明の輝きで薄桃色に色づきはじめ、外には白い靄が漂う。


 森の小径には足元を照らす電灯が輝き、その小さくともった明かりが靄の中で揺れ、真珠のようなまろやかな光を放つ。



 その光の連なりが、僕をガゼヴォへ誘っているように見えた。



 この森の道を辿れば彼女に会える――僕の胸の中の何かがそう告げる。


 これは予感ではなく、定められた運命――何故そう感じるのかは分からない。

 けれど、自分の心の中にストンと落ちた、得心とでも言うべき感覚だった。


 僕は着替え、バイオリンケースを背に宿泊棟の扉を開けた。



 この感覚は、おそらく母が言う――『匂い』だ。



 僕の胸の真ん中に棲む何かが、僕に囁くのだ。

 ガゼヴォに向かえ、これは運命だ――と。



 足元を照らす電灯に誘われるように、僕はその声に従った。


 周囲の明かりが靄で滲み、光の玉が瞬いている。


 靄はまだ色濃く、森一帯を取り巻いているため視界は芳しくない。



 その白いベールが、僕から彼女を覆い隠そうとしているようにみえた。



 このままでは彼女を探し出すことができない。


 彼女に気づいてほしい、そんな思いを胸に、僕はバイオリンを取り出した。




 君は僕を見つけてくれるだろうか。


  焦がれて望むは、彼女の生み出す音色。

  不安に彷徨うのは、僕の奏でる調べ。



 僕は弓をひく。


  僕はここだと。

  ここにいると。


  そう伝えるために。



 君は気づいてくれるだろうか。


  靄の中、君の訪れを待つ僕を。

  昏い世界から手を伸ばし、光を――君を、求める僕の音色に。



 時を忘れて、演奏に没頭した。

 彼女に出会うために。


 僕はここにいると伝えるために。


 彼女を想い、彼女の音を求め、どのくらいの時間バイオリンを鳴らしていたのだろうか――



 パキリッ



 何かを踏み割る音が、森の中に木霊した。




 僕は演奏を中断し、靄に隠れたその先を見据える――静寂を切り裂いた音の主を確かめる為に。



 僕は誰何すいかする。


 ――そこに隠れているのは「誰?」と。



「ご……ごめんなさい。邪魔をするつもりじゃ……なかったの」


 消え入りそうな少女の声が、謝罪の言葉を口にした。



 僕は息を呑んだ。

 間違いない。



 この声は――



「シィ……か?」



 名前を呼ばれたことに驚いたのか、彼女がその面を上げた。




 刹那――暁を告げる閃光が、靄の中を駆け抜ける。


 ――黄金色の夜明けが訪れたのだ。




 突風が吹き抜ける。


 僕と彼女の間を隔てていた白い紗幕が、森の奥へと、まるで追い立てられるかのように消えていく。



 彼女と僕の視線が交差する。


 そこには、「真珠」がいた。


 僕は目を離せなかった。

 動くことさえできなかった。




 彼女だ――「あの真珠」は、涼葉の言うとおり「シィ」だったのだ。



 僕の焦がれる『天上の音色』を爪弾いた彼女を、間違うわけがない。


 僕が、彼女の輝きを見誤る筈もない。



 彼女の背中から払暁の光が生まれ、幾筋もの光芒が彼女を包む。



 その光景は、黄金色の羽根を背中に纏った妖精が、今まさに誕生する瞬間のようにも見えた。




 ああ、彼女は本当に『光の妖精』なのかもしれない。




 真珠は――シィは、灰色の世界から僕を連れ出すために現れた、紛うことなき光彩だ。




 彼女の身体から溢れた輝きが道標になり、僕の世界を明るく照らしていく。



 彼女と一緒なら、僕だけの『天上の音色』を見つけられる――それは確信に近い直感だ。




          …




「ハル……ルン……?」



 驚きに目を見開いたまま、彼女は僕のことを呼んだ。


 そんな彼女に、僕は再度訊ねる。



「シィ……なのか……?」



 ――と。



 彼女はシィだ。

 それは間違いない。


 けれど、僕は彼女の声を、もう一度聴きたかった。

 しかし、彼女は声に出さず、ただコクリと静かに頷くだけだ。




 僕は彼女へ、手を伸ばした――

 彼女の持つ、その輝きに触れたいと思った。



 シィは怯えたような眼差しで後退り――僕の手をすり抜けた。



「……待っ……!」


 

 追いかけたかった。

 でも、追い縋ることはできなかった。


 彼女が、僕のことを恐れているように見えたから。



 シィは、僕の手を振り払うようにして、何処いずこへか、走り去ってしまった。



 僕が差し出した手は、彼女に届かないまま、なすすべもなく空をかいた。



 僕は、運命に出会えたと思った。


 最上の音色を奏でる『仲間』になれる気がした。



 彼女は、僕とのこの出会いを――再会を、どのように感じたのだろう。



 僕を避けて、シィは何処どこに向かったのか。

 彼女が消えたのは森の奥。



 君は、僕が感じた運命とは違う、別の定めと既に巡り合っているの?



 僕は、君と共に『天上の音色』を奏でたい。


 音楽の高みを目指す、唯一無二の『友』になりたい。


 望むのは、ただ、それだけなのに――








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