第67話 【真珠】『かやまン』と理香


 ああ、気持ちの良い朝だ。

 空気もとても清々しい。


 紅子と貴志が観客の心を虜にした演奏会の翌日。

 昨日の、官能と扇情と肉惑に満ちた一日とは大違いの、非常に爽やかな朝である。


 わたしは眠さからくる欠伸を噛み殺しながら、森の小径を進んでいく。


 昨日、貴志に打ち明けた弟との間にあった過去を思うと心は重いのだが、この爽やかな空気がその気持ちを和らげてくれるような気がして、一心不乱に歩いていく。



          …



 昨夜、紅子の部屋にて晴夏と一緒に夜間練習をする予定になっていたのだが、急遽キャンセルとなった。


 貴志の部屋で抱きしめられているうちに眠ってしまったわたしは、目が覚めた後、紅子の部屋を訪問することになった。


 晴夏との約束の時間になり「もう練習できそう?」と確認したのだが、彼は何故か眠っていた。


 紅子の話によると、どうやら昼寝をあまりしていなかったようだ。


 もしかしたら、部屋が変わったから熟睡できなかったのかもしれない。

 それでは仕方がない――と思い、わたしは『星川』へ戻り就寝したのだ。


 前述の通り、結局は眠れなかったのだけれど。


 寝不足はいけない。

 気持ちが沈みがちになるから――


          …



 チャペルの横を抜け、森の小径を歩いていると、バイオリンの音色が風に乗って届いてきた。


 ――晴夏の音ではない。


 ガゼヴォに近づくにつれ、先ほどから届く音色を生み出す人物が姿を現した。


 そこには、眼鏡をかけた青年がひとり。

 彼はバイオリンを慈しむように弾いている。その姿は―――


「あ! 『かやまン』だ!」


 わたしは懐かしい衝撃に、うっかりポロリと言葉に出してしまった。


 その言葉に、青年は奏でる音を止め、こちらを向く。


「――え? 君は……ああ、『葛城のお姫さま』だね」


 わたしに気づいたその青年は、柔らかな笑顔を返してくれた。


 眼鏡の奥からのぞく瞳に温かさを感じ、見ているだけでとても安心する。

 ああ、彼の笑顔に、心の中が綺麗に濯がれていくようだ。



 わたしは、彼に朝の挨拶をする。


「おはようございます」


「おはようございます。お姫さま」


 貴志の色気と対を成す、爽やか美青年―――彼は、加山かやま良治りょうじ


 渾名は『加山ン』―――将来、愛音学院でバイオリン専攻の指導者になる青年だ。

 貴志と同学年なので、今は21歳。ちなみに攻略対象ではない。


 その人柄ゆえか、彼を是非攻略対象に! という要望が続出した人気キャラクターだ。


 何故、彼が攻略対象にはなりえなかったかというと――ゲーム開始時、既に結婚していたからだ。


 彼の奥さんも、愛音学院で指導者件進路指導教諭として教鞭を執っていたのだ。


 奥さんとは筒井筒の仲――いわゆる幼馴染婚というやつだ。


 そして、彼の奥さんである加山先生は、貴志ルートにおいて貴志の過去の女性ということで当初『主人公』を不安にさせるのだ。


 

 ――貴志よ、お主は過去の女が何人いるのだ。



 昨夜、貴志は、自分の女性遍歴に対してのわたしの認識に、とても傷ついたと言っていた。

 だから、わたしもこれからは言動に気をつけようと思ったのだが――翌朝に、また過去の女性が出てきたので、考えを改めるべきか否か、非常に迷うところではある。




 話は戻って、件の加山先生は、生徒のことを考えた進路指導で人気があり、人望も厚く、素晴らしい女性として描かれる。


 そんな女性がライバルなのか!? とプレイ当時わたしも焦った。

 だが、加山ンと既に結婚していることが分かり、最終的に『主人公』の良き相談相手となる。

 残念なことに、スチルは後ろ姿のみだったので、どんな人なのかはよく分からない。





「お姫さまは、朝からひとりでお散歩ですか?」


 彼は、バイオリンを布で拭き、ケースにしまう準備をしている。

 練習の邪魔をしてしまったようで、申し訳ない。


「はい。これから貴志兄さまのところに楽器を取りに行こうと思って」


 わたしはそう答えた。


「葛城の棟までお送りしましょう。僕もそろそろ部屋に戻ろうと思っていたところなんですよ。途中までご一緒しませんか?」


 この心配り、さすが人気キャラクターということだけはあるなと感心する。


「お気遣いありがとうございます。では、お願いしてもよろしいですか?」


 加山ンの好意に甘えさせていただくことにしたわたしは、彼が片付けをする姿を眺める。


 眼鏡を外してケースにしまい「さて、行きましょうか」と、彼はガゼヴォを去る準備をする。


 眼鏡を外した顔を見て「あれ?」と気づく。

 この顔には―――どこかで会ったことがあるのだ。


 昨日の『クラシックの夕べ』の西園寺理香が伴奏をするバイオリンデュオの男性の一人だ。


 懐かしさを覚えたデュオの一人、伊佐子時代の仲間の誰かに似ているのかもしれない―――と思っていたのだが、まさか眼鏡を外した加山ンだったとは!?

 これには、かなり驚いた。


「では参りましょうか? お姫さま」


 加山ンはそう言って、わたしに手を恭しく差し伸べてくれる。


 おお! 紳士だ!

 紳士がここにいる。

 清らかな微笑みに、心が洗われる。


 彼に手を引かれながら、貴志の部屋の前に着く。


 さすがにここで暗証番号キーを解除するわけにもいかず、ベルを鳴らすことにする。


 貴志はシャワーを浴びた直後のようで、首にタオルをかけ、濡れた髪のまま玄関に出てきた。


 ――色気がすごい。


 加山ンの爽やかさを堪能した後だと、この溢れかえる色気に中てられる。


 むせ返るほどだ。

 人によっては中毒死するやもしれん。



「葛城、おはよう。君のお姫さまをお届けするよ。森の東屋で彼女と会ったんだ」



 そう言って、加山ンはわたしの手を貴志に引き渡す。


「加山――手を煩わせたな」


 そう言って貴志は、加山ンにお礼を言う。


「いや、こちらこそ。昨夜は、理香が面倒をかけて申し訳なかった。彼女、君と会ったあと東屋まで来てね。なんだか昔の理香に戻ったような気がして、とても驚いたよ。葛城が何かを言ってくれたのかい? もしそうだとしたら……ありがとう」


 もしかして、理香が貴志の部屋に侵入する前に言い争っていたのは、彼―――加山良治なのだろうか。


「僕と理香は、土曜日の最終日までコンサート鑑賞をするつもりなんだけど、葛城、君は? 例年だと自分の演奏が終わると直ぐに、ここを発っていただろう」


 へえ、そうなんだ。

 例年は、最終日までいなかったのか。


「今年は最終日まで滞在するつもりだ。こいつが演奏するからな」


 貴志がわたしの頭を撫でながら、そう言う。


「君のお姫さまが? お名前は、真珠ちゃん、だっけ?」


 何故わたしの名前を?


 不思議に思ってコテリと首を傾げる。その意味を理解したのか、彼は直ぐにわたしの名前を知った理由を教えてくれた。


「ああ、チャペルから君が連れ出されたあと、葛城が大声で君の名前を呼びながら追いかけて行ったからね。きっとみんな知っているよ」


 加山ンは、クスクスと笑いながら教えてくれた。


 公開生キッスに加え、名前までご披露されていたとは……。

 真珠の黒歴史に、しかもトップ10に残るかもしれない。


「最終日のコンサートでは、何を演奏するんだい?」


「バッハの『ふたつのバイオリンの為の協奏曲』です」


 彼は嬉しそうに目を細める。


「君はバイオリニストなんだね。僕と一緒だ。あの曲をもう弾けるのかい? すごいね。最終日、僕も楽しみにしているよ。じゃあ、葛城もまた後で」


 彼はそう言って、手を振りながら去って行った。


 その去り際の様子も、やはり爽やかだった。




「ねえ、貴志。加山ンと理香の関係は?」


 ふと疑問に思ったことを質問する。


「ん? ああ、あの二人は幼馴染だ。いつも夏のミュージックキャンプは一緒に来ていたぞ。親同士が仲が良いらしい。」


 では、もしや――『主人公』を不安にさせ、最終的には良き相談相手となる加山先生――ああ! そうだ! たしか、名前は加山リカ先生だった筈だ。

 熱血リカちゃん先生と呼ばれていたことを思い出す。



 すまん、貴志よ。


 過去の女が何人いるのだ?―――などと疑って申し訳なかった。


 君の女性遍歴については再考の余地アリなのかもしれん。




 そうか、加山ンの奥さんになるのは、あの西園寺理香なのか。


 熱血リカちゃん先生と渾名される彼女は、どのようにこれから変わっていくのだろう。


 とても興味深かった。




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