第68話 【真珠】接吻 - kiss -


 貴志は目覚めのコーヒーを淹れている。その芳醇な香りが部屋の中に漂いはじめる。


 わたしはと言うと、バイオリンを取りに来たものの、なんとなくやる気が起きなくて貴志のベッドでゴロゴロしている。


 この憂鬱の原因は、昨夜貴志に語った尊のこと。


 自分の中で消化しきれていなかったことに、今更ながら気づいたからだ。


 何故か、心許なくて、人恋しい気持ちになっているようだ。




 わたしはベッドから起き上がると、ソファに座ってコーヒーを飲んでいる貴志の背中にピトッとくっつくように抱きついた。


 貴志は驚いたようで、ビクッと身体を震わせる。


「真珠? どうした?」


「ごめん、貴志……もうちょっとだけ……こうしていたい」


 貴志は前を向いた姿勢のまま、手を伸ばして頭を撫でてくれる。



 昨夜はよく眠れなかったのだ。

 睡眠不足もあって、心が少し弱っているみたいだ。


「貴志から元気を充電したら、また頑張るから。もう少しだけ……」


「……真珠、お前、昨夜はちゃんと寝たのか?」


 わたしは貴志に抱きつきながら、首を横に振る。


 ――完全に睡眠不足だ。


 貴志がそっとわたしの手を離し、立ち上がってこちらを向く。


 次の瞬間、フワリと横抱きにされ、ベッドに運ばれた。


「まだ朝も早い、もう少し寝ておけ。そんな顔をしていたら、穂高と晴夏も心配する。今日一日保たないぞ」



 貴志はわたしをベッドに横たえたけれど、わたしは彼の首に絡めた腕を離さなかった。



「真珠、手を離せ。起き上がれない」


 わたしは再度、首を横に振る。


「ごめんなさい……貴志。暫くこのままで……」


 彼が、一瞬、息を呑むのが伝わった。



 久々にわたしの心が揺れている。

 あの、心の嵐がやって来そうで怖いのだ。



「真珠、分かった。眠るまで側にいるから、一旦手を離してくれ……頼む」


 わたしが腕の力を緩めると、貴志は何故か少しホッとしたように身を起こした。


 彼が離れて行ってしまいそうで不安になり、その手を掴んだのは咄嗟のこと。


「行かないで。我が儘を言って……ごめん……なさい」


 貴志の手を握ると、何故か涙がポロポロと零れてきた。



 駄目だ。

 寝不足だと、ネガティブになりがちだ。



 昨夜の、尊との過去の記憶も相俟って、心が自分の暗部に偏っているのだと思う。




「貴志、教えて。キスって、どんな時にするの? 誰とでもできるものなの? わたしには分からない」




 貴志が、目を見開いてわたしを見詰めている。


 彼は昨夜、理香の隙をつくためではあるけれど、彼女に口付けていた。


 貴志にとっては、何か目的を達成する為の手段なのだろうか。そこに何の感情がなくともできるものなのだろうか。


「貴志は、理香とキスしてた。昨夜」


 一度目は理香から。二度目は貴志が形勢逆転するために。


「あれは……ただの反撃のため――そこに感情は……なかった」


 では、尊は?

 人違いで、あんなキスができるのだろうか?

 

 何がなんだか分からなくなって、涙が止まらない。



「真珠、泣くな。泣くと気持ちが昂ぶって辛くなるぞ。少し落ち着け」



 貴志と兄と、尊の――あの困った笑い顔が脳裏を過る。



 昨夜から、三人のあの――気持ちに何某なにがしかの感情を秘めて、無理に笑おうとする姿が頭から離れない。



 どうして、わたしは三人にあんな表情を、苦しい思いをさせてしまうのだろう。



「貴志は、どうして困った顔で笑うの? 『紅葉』でわたしの前世の話をしてから、どうして急に、あんな顔で笑うようになったの!? わたしは貴志に何か悪いことをしているの?」



 駄目だ――ずっと思い悩んでいたことが、口から溢れて止まらない。



「真珠、落ち着け」


 横になるわたしの顔の両側に、貴志が手をつく。



「貴志も、穂高兄さまも――いつも困った顔で苦しそうに笑うの」



 貴志が息を呑む。



「あの表情には何か意味があるの? わたしは二人に何をしたの!?」


「真珠、興奮するな。頼むから落ち着いてくれ」



 わたしは涙を流しながら、嫌だと首を振る。

 ああ、やはりわたしは二人を苦しめているのか。



「尊も……尊も……二人と同じ、あの顔で笑っていたの……」



 貴志の動きが止まった。



「わたしはどうすればいいの? どうしたら、みんなを苦しめずに済むの!? ねえっ 貴志! 教えて!」


「真珠……」


「だって分からないの。理由がわからなくちゃ、直しようがないんだよ!? 二人を……ううん、三人を苦しめて、わたしはっ わたしは……っ」



 ずっとずっと、考えていた。

 わたしは彼らに何かしてしまったのかと。

 あの顔を向けられるたびに、不安が心を支配した。


 貴志は、横になるわたしの上で、苦しそうな表情を見せる。



「その顔だよ! ねえ、わたし、何かしたの? 貴志っ ねえ! どうして教えてくれないの!?」



 彼は唇をギュッと噛みしめて、わたしのことを見下ろしている。



「落ち着け。真珠っ 本当に口を塞ぐぞ」



 いつもの脅しだ――ズルい。

 そうやって、わたしから、何かを隠して逃げようとする。



「塞げばいいよ。理香にしたみたいに。貴志にとってそれは特別なものじゃないんでしょう? 何かをするための、ただの手段なんでしょう? だったら塞げばいい」



 急に冷えていく気持ちに、わたしは下から彼を見上げ、静かな怒りをぶつけていく。


 貴志が息を呑む音が――彼の喉の奥からヒュッという音がもれ、部屋に響いた。


 彼は少し震える声で、言を紡ぐ。



「……真珠、そんなことを、言うな……駄目だ。お前はまだ子供だろう、何を言って……っ」



 もう、止めてほしい。

 そんな顔をするのは。



「自分から言ったくせにっ そうやって、いつも脅すだけ脅して逃げる。貴志はズルい! ズルいよ!」


 貴志は、横たわるわたしに覆いかぶさり、優しく子供をあやすように抱きしめる。



「理香にしたようにして」



 わたしこそ、ズルい――いつもの貴志なら、きっと、わたしの唇に触れたりはしない。


 それをわかっていながら、わたしは怒りをぶつけ、彼を困らせているのだ。



「真珠、それは……駄目だ。できない。そんな『目』をしないでくれ……頼む、もう……喋るな……」


 いつもとは違う震える声で、貴志はわたしにもう止めてくれと言葉を洩らす――まるで懇願でもするかのように。



「だったらわたしの口を塞げはいい」



 わたしは、何故こんなにも彼を困らせているのだろう。

 でも……止められない。

 感情が口から零れ落ちるように流れていく。



 貴志の痛切な願いを込めた掠れた声が、わたしの耳に届く。



「真珠……、困らせないでくれ……、本当に……止められなくなる……だから……」



 わたしは、彼の瞳を捉えて、真っ直ぐに見据え続ける。


「いや、理香にしたようにして」


 彼は、唇を噛みしめ、わたしの両の眼を――どこか切なさを宿す眼差しの中に映す。



 貴志の右手がわたしの頬を上向かせた時、その手が小刻みに震えているのが分かった。



 彼のその綺麗な顔が、ゆっくりとわたしに近づく。



 わたしは目を逸らさずに、彼の双眸をじっと見詰める。

 彼が隠そうとする、その心を見逃さないように――




 貴志の唇が、わたしのそれを塞ごうと――触れようとしたその時に、とても切ない――苦しい程の感情のうねりが、わたしの心に流れ込んできた。




 わたしの唇は塞がれた――けれど、それは、彼の唇ではなく、そのてのひらによって。





 そして、貴志は――自らの手の甲の上から


 わたしの唇のある場所に


 ――その震える唇を、ゆっくりと重ねた。





 とても大切な宝物に口付けをするかのように、壊さないよう――守り、慈しむように。



 彼は、そんな優しい口付けを落とした。




 ――貴志がわたしにくれたものは、接吻と言って良いのだろうか。



 唇に直接触れ合うことはなかったけれど――それは、囁くように甘く重ねる口付けよりも、身を焦がし激しく絡み合う口付けよりも




 ――狂おしいほどの、深い愛情に、溢れているような気がした。





 貴志が、愛おしむように触れた掌越しの接吻は、わたしの中の不安を少しずつ溶かし、解いていく。



 理香にできたことが、何故、わたしにはできないのだろう。

 貴志の心は――彼がわたしに対して向けるこの感情は、何という言葉で言い表すのだろう。

 今のわたしには、そのどちらも、まだ分からない。



 けれど、彼がその瞳にのせた想いは、とても深く、そして温かいものだということは、伝わった。








「今は、これ以上……お前に触れることは……できない、……触れたら、触れてしまったら……そのままお前を壊してしまいそうで……怖いんだ……。

 中身が……大人だということは、理解している。でも、ふとした瞬間に、お前の姿までもが……子供に見えなくなる時があるんだ。まるで……大人の女性と一緒にいるような錯覚をおぼえてしまう……だから……」




 貴志は、自嘲の笑みを浮かべる。

 その様子は、いつもの彼とはまったく違ってみえた。


 貴志は、そっとわたしから離れ、窓辺に寄る。

 開け放たれた窓からは、清涼とした朝の空気が流れ込む。



 窓から外を眺めた後、こちらに顔をむけた彼は、とても穏やかな瞳で笑いかける。

 その微笑みはわたしの目に、彼が何かを振り切ったような――心を決めたような、そんな清々しさを湛えたものにうつった。



 彼の表情に、困ったように笑う、あの苦しい笑顔は、今はもうない。





「真珠、コンサートの最終日、俺も飛び入りで参加するよ。お前のために――お前だけのために、この気持ちを

 

 ―――『この音色を……君に捧げよう』」





 わたしは目を見開き、息を呑んだ。


 ――両手で抑えた口元が、カチカチと音をたてて震える。




   『この音色を君に捧ぐ』




 攻略対象が――彼らが恋心を認めた時に、『主人公』へと贈る愛の言葉――『この音』のタイトルを飾る、彼らの思いの丈を込めた、かけがえのない言の葉だ。




 ああ、貴志は――




 わたしの両目から、涙が溢れた。

 声にならない想いが、頬を伝いほとばしる。



 わたしは、零れる涙を拭うことなく、彼を――葛城貴志を見詰めることしかできなかった。











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