第66話 【真珠】謝罪と尊のこと


 紅子は、立食パーティーを挨拶無しで抜けてきたとのことで、貴志の無事を確認するとすぐに会場へ戻って行った。


 わたしはというと、先ほどから床で正座をしている――自主的に。


「真珠、お前は、今日、たった一日のうちに、どれだけのことをしでかしたのか覚えているか?」


 貴志はわたしの目の前でソファに座り、足を組んで、更に腕も組んでいる。

 そして、彼の両目は静かに怒りを湛えている。


 わたしは今日――密度の濃かった一日の出来事を、ひとつずつ振り返った。



 まず、早朝、紅子の登場に動揺し、貴志を蹴ったこと。


 そして、コンサート時、貴志に対して強制わいせつを働いたこと。


 最後に、逃亡しないと約束したのに、すっかり忘れて、逃げたこと。


 思いつくだけでも、この三つが頭に浮かぶ。


 いや、鬼ごっこだと思って逃げ回ったことや、理香を招き入れてしまったことも加えたら四つ、五つだろうか?



 一日にも満たない、たった半日の間に、それだけのことをしでかしていた自分が途方もなく恐ろしい。



「葛城貴志さま、本日は大変申し訳ないことをいたしました。朝、足を蹴ったこと。コンサートでは強制わいせつを働いたこと。鬼ごっこをしているつもりになったこと。約束を忘れて逃亡したこと。不可抗力とはいえ理香を招き入れてしまったこと。本当に、本当に申し訳ございませんでした」



 武士が切腹に臨むような面持ちで、貴志に土下座をした。

 そして、ちょっとお願いもする。



「もうチュウとか絶対しないから、訴えないでください。犯罪者にはなりたくないです」



 真珠の初キッスが犯罪者の第一歩とならないよう、丁寧に丁重に貴志に重ねてお願いをする。



「なんだ、それは。強制わいせつ? 訴える? お前はいったい何を言っているんだ」



 貴志は、訳がわからん、というように額に手を当てている。



「気づかなかったとはいえ、公衆の面前で貴志さまの唇を奪ってしまい大変申し訳なく、ただただ恥じ入るばかりでございます。どうか、お慈悲を――お願い、貴志! もう絶対しないから、警察に突き出さないで」



 理香にも与えた慈悲を、どうかわたしにも――最後は涙目になりながら切実にお願いする。



「お前は、いつも俺の予想の斜め上を行く回答をしてくるな。何故そうなる」



 貴志は、大きな溜め息をついた。


 本当に疲れているようだ。

 あの演奏会への集中で、かなり消耗しているのかもしれない。



「だって公衆の面前で、わたしみたいな子供に襲われて、貴志の今までの華々しい女性遍歴に汚点を残すことになったのを……怒っているんじゃ……ないの?」


「は?」


 貴志が不機嫌になった。

 どうしよう。



 華々しいどころじゃなくて、目くるめく、の方が良かったのかもしれない。



 わたしがまた言い直そうと口を開いたら、貴志に「もう喋るな」と掌をわたしの方に向けて止められた。



「本当に、お前には振り回されてばかりだ。俺のことをなんだと思っているんだ」

 


 どうしよう。

 本当に、貴志のお怒りポイントがまったく分からない。



「え……と、女殺しの百戦錬磨……?」



 貴志が、この世の終わりのような長い溜め息をつきだした。

 わたしは地雷原に足を踏み入れてしまったのかもしれない。



「真珠、俺も人の子だ。傷つくこともある。そんな風に思われているとは……いや、なんとなく分かっていたが……、別にそんな、誰彼かまわずというような節操のないことをしてきたつもりはない」



 どうしよう。

 最上級の褒め言葉のつもりだったが、貴志を傷つけてしまったようだ。



「ごめんなさい。傷つけるつもりはなくて、ただすごいなと褒めているつもりで……ごめんなさい」


 誠実ではないが、もう自分で考えて反省して、思いついたことを列挙して、ひたすら謝るしか術はないかもしれない。


 涙が溢れる。

 どうしていいのか、まったくわからん。




「真珠」




 貴志が手を広げている。

 ここに来い、と呼ばれているのだろうか。


 でも本当に行っても良いのだろうか。


 またうっかり口にぶつかったら、もう許してもらえない気がする。


 わたしは首をフリフリしながら、近くには行けない、とベソをかく。



「本当にごめんなさい。もう二度と、間違っても、チュウしません。許してください」



 尻込みしていると、貴志がわたしの手を引き寄せ――気づくと、わたしはその腕の中に抱かれていた。




「その件については怒っていない。むしろ申し訳なかったと思っている。俺の不注意だ。悪かった。だから泣くな。頼む。泣かれると、どうしていいのか……わからなくなる」




 貴志が少し掠れた声で、気遣ってなぐさめてくれる。



 本当にどうしたらいいか分からない。

 そんな様子がうかがえて、貴志でもこんなに戸惑うこともあるんだな、と不思議な気持ちになった。





 貴志が非常に申し訳なく思ってくれているのはよく分かった。


 まだまだ小さな子供の初キッスを奪ったと思って、心を痛めてくれているのだろう。

 相変わらず優しいやつだなと思う。



 わたしが、貴志を安心させてあげなくてはいけない。

 何故なら、わたしの中身は彼よりもお姉さんだから。



「貴志、心配してくれてありがとう。たしかに真珠にとっては初めてのチュウだったけど、わたしの記憶の中には、もっとすんごいキッスの思い出があるから、気にしないで。大丈夫!」



 貴志が固まった。

 彼の目を見ると、なぜか瞳の奥に炎が見えた気がする。



 何故だ!?

 地雷原突入どころじゃなくて、地雷を踏み抜いたらしい。



 わたしは無事、生還できるのだろうか。『星川』に。



「それは一体、どういうことだ?」


 笑っているけど、目は笑っていない。

 怖い。


 ソローッとわたしは彼から目を逸らす。


「やっぱり嘘です。あれはカウントしちゃ駄目なやつでした。えへへ……」


 キッスは伊佐子で経験としてはある。

 でも本当の意味では未経験だ。

 あれは相手が悪かった。



 だから、あれはカウントしては絶対に駄目なやつだ。

 どう考えてもノーカウントだろう。

 うん、やっぱりノーカウント。


 しかも人違いでされたものなのだ。


 経験値として加えてはいけない。

 ありえんだろう。


 貴志の目が怖くて見れない。

 すこぶる不機嫌だ。


「ほう、それで?」


 真実を隠せば、もっと恐ろしいことが起きそうになって、わたしは迷わず即こたえる。


「えーと……、あれはノーカウントだけど、すんごいキスをしたことがあるのです。腰が抜けるほどのディープなやつを。伊佐子の時に」


「で? それは誰と?」



 どうしよう、貴志が娘を嫁にやる父親モードに突入している気がする。

 多分、勘違いではないと思う。



「た……たけると……」


「尊とは、誰だ?」



 追及の手が厳しい。

 彼の目の奥が、きらりと光ったような気がした。



 でも、これを言ってもいいものなのか?

 絶対にドン引くこと間違いなしだ。



 伊佐子は大学院の夏休みで自宅に里帰りし、夜中に居間で映画を見ながらうっかりうたた寝をしていたのだ。


 あの日、ヤツも夏休みのため大学から戻ってきていた。

 そして、友達と出かけて酔っ払って帰ってきたのは夜半過ぎ。


 久々に会った日の夜、あやつめはかなり酩酊していたため、おそらくわたしを彼女と間違えたのであろう。


 蕩けるような口づけを、寝ているわたしにかましてくれたのだ。


 ものすごい気持ち良さで腰がぬけるのと同時に、「サーコ」と苦し気な声で呼ばれた気がした。


 サーコ――伊佐子の愛称だ。

 おそらく、かましてくれて本人も我に返り、相手がわたしだったことに焦ったのだろう。


 わたしはそこでハタと我に返り目が覚めたのだが、そこには尊が――伊佐子の弟がいたのだ。



「お……弟……です」


「は? 弟?」



「はい。何故か……弟が、おそらく彼女と間違えてわたしに激しいチュウをいたしたのです。腰が抜けるほどの激しいチュウを」


 椎葉尊――伊佐子の年子の弟だ。


 今の貴志と同い年の21歳。

 やつは昔からモテモテのモテ男くんだった。


 わたしがずっと恋愛できなかったのは、こやつのせいだ。


 それなりに好意を寄せてくれる男性はいた――が、弟による小姑チェックが厳しく、それを潜り抜け、突破してやるぞという気骨のあるツワモノがいなかったのだ。


 高校のプロムなど、数人から申し込まれたのだが弟がすべて一刀両断。

 自分より優れた部分を示して勝ち抜かねば、伊佐子を連れていくことはまかり通らん! と、バッタバッタと倒してくれたのだ。


 ヤツは、成績超優秀、運動神経抜群、チェロの腕もピカイチ、しかもマーチングバンドでもドラムメジャー――つまり指揮官を務め、ハイスクール内で男子も女子もまとめての憧れの存在だったのだ。


 ちなみに顔面偏差値もかなり高い。

 と言っても『この音』の世界と比べては月とスッポンなのだが、現実世界では相当のスペックの持ち主だった。


 そんな奴にかなう一般男子など、なかなかいない。


 しかも、わたしなんぞに声をかけてくれる懐の深い男子が、ヤツに叶うほどのハイスペックなわけもなく――


 わたしは悲しいかな、一生の思い出になるはずのプロムパーティーを何故か弟にエスコートされ、ドレスで着飾って出席したという苦い記憶がよみがえる。


 友達ですら、もう何も言ってくれなかった。


 おそらく、ご愁傷様と思っていたが、気遣って何も言えなかったのではないかと思われる。


 伊佐子が22歳になっても男性経験がなく、そっち方面でおぼこいのは、すべて実弟・尊による仕業だったのだ。


「お……弟……だから、ノーカウントです。しかも人違いでされたものでした……多分……きっと、おそらく……」


 わたしは、貴志の腕の中で更に小さくなった。


「弟……か……」


 貴志は何を考えているのだろう。

 こわくて顔が見られなかった。


 彼は困惑しているのかもしれない。


 当時わたしもした―――何が起きたのか良くわからなかった。

 腰が抜けてしまったわたしのことを、尊が横抱きにして部屋まで運んでくれ、そのまま「すまん。彼女と間違えた」とぬかして去って行ったのだ。


 わたしは茫然とし、釈然としないまま就寝したことを今でも覚えている。



 そうだ――あの時の尊の表情は、最近良く目にする穂高兄さまと貴志の困った笑顔と同じものだった。




 もう会いたくても会えないのだけれど、かなりのシスコンだったから、わたしがいなくなった世界でも、元気でわたしの分まで頑張っているだろうか―――




 貴志の後ろ――窓越しの空を見上げると、天空に月が懸かっていた。


 ああ、もうすぐ満月だ。





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