第63話 【真珠】ごっつんこと貞操の危機 1


 皆さんは、あの童謡をご存知だろうか。


 アリさんとアリさんが、ごっつんこしてしまう、あの童謡。


 あんまり急ぎすぎて、ごっつんこしてしまいお遣いを忘れてしまう、あの童謡だ。


 現在、わたしの頭の中ではその歌が流れている。無限ループで止まらない。辛い。



          …



 ――時は少し遡る。


 石のチャペル『天球館』を飛び出した後、わたしは晴夏の手も振り払い、絶対に捕まってなるものか、と本気になってチョロチョロと逃げまわった。


 そして、穂高兄さま、晴夏と貴志の四人で鬼ごっこを楽しんだ後、とうとう貴志によって捕獲された。


 体力も脚力も、やはりあやつめにはかなわない。


 貴志は、最初の頃は何故か大慌てで追いかけていたのだが、わたしがチョコマカと巧みに罠をかわし、なかなか捕まらないので、最後は何故か激怒していた。



「このド阿呆が、俺が何度お前に待てと言った!? 次はどんな仕置きが望みだ!」



 あれは怖かった。

 恐怖だった。



 でも、鬼ごっことは命を懸けて逃げる遊びだと思う。

 あんなに怒るとは、なんと狭量な男だ。



 最後は首根っこをつかまえられ、猫の子供のように連行された―――コンサート後の立食パーティー会場へ。



 そして、皆が美味しそうに食事をする姿を横目に、がっちり叱られた。


 そこになおれ、と椅子に正座をさせられ、周りを見ろだの、不注意すぎるだの、最後は「何故、待てというのに逃げたんだ!?」と言われた。



「え? 追いかけっこ? 鬼ごっこ? したかったんじゃないの? あんな時に遊びたいだなんて、貴志もまだまだ子供だね」


 と言ったら、コメカミを両拳でグリグリされた。

 痛すぎた。



 すまん、貴志よ。

 違ったのか。

 それは大変申し訳なかった。

 でも、グリグリは痛い。



 その後は、ずっと抱っこだ。



 もう逃げないと言っているのに、わたしの信用は地に落ちてしまったようで、離してくれないのだ。



 こんな状態では、好きな物も食べられない。

 あれが食べたい。


 それに穂高兄さまも、晴夏も様子がおかしい。


 なぜ、そんな態度なのかと訊いたが

 ――兄は「僕の口からは言えない」と遠い目線で言われ

 ――晴夏は、目を閉じて頭を左右にゆっくりと振るだけだった。声さえ出してくれない。


 仲間外れにされたようで、ちょっと悲しかった。


 叱られ終わったところで、お祖母さまがわたしの好物をのせたお皿を運んでくれた。ありがたい。


 貴志がそれを受け取り、お祖母さまは知り合いの人と話があるとのことで、すぐにわたしから離れて行ってしまった。


 ああ! わたしも連れて行って欲しかった。


 祖母が去り際に「真珠は、貴志が大好きなのね。貴志、悪いけど真珠のこと、見ていてちょうだいね」と言っていた。


 お祖母さま、これは違うのです。

 怒られて、お仕置きで離してもらえないだけなのです――と、目で訴えたが、まったく気づいてもらえなかった。



 そして、また餌付けだ。

 貴志の左膝に乗せられ、モグモグと食べる。



 中身は22歳の素敵女子のはずなのに、これでは完全に赤ちゃんだ。

 くそう。貴志もそれを知っている筈なのに、この扱い。

 こやつめから、ひどい辱めを受けている気分になる。



 赤子が持つぬいぐるみのかわりに、わたしは貴志への花束を未だに抱えている。

 実際には、それを持っているので一人では食べられないだろう、と気遣っての餌付けなのかもしれない。が、周りの目が非常に痛い。


 ものすごく見られているのを感じる。


 常に目立って視線を独り占めしている貴志だけではなく、何故かわたしにも針のような視線が刺さっているのだ。



 もし、その視線の針が目視できるのだとしたら、おそらくわたしは華道の剣山けんざんになっている。間違いなく。



 それもそうだ。

 もうすぐ6歳になろうという大きな子供が、大人に食べさせてもらっているのだ。


 きっと、一人で食べることのできない自立心のない子供だと、皆様呆れているのだろう。

 そう思うと恥ずかしい。


 本当は自分ひとりで食べられるのに。


 貴志がお皿の上の食べ物をわたしの口に運び、わたしは咀嚼し、飲み込むだけのマシーンと化した。


 ひたすら無言で食べ続け、皿の上の食べ物をすべて平らげることに成功した。お残しはいけない。


 貴志は、鬼押し出し園の時から、子供への餌付けの楽しさに目覚めてしまったのだろうか。


 知らない子供を捕まえてまでやりださないか、ちょっと心配だ。


 お兄さまと晴夏が、時々二人でこちらを見ている。


 多分、わたしの現状を見て、気の毒に思っていてくれるのだろう。


 手を振ると、二人共手を振り返してくれるのだが、そんなに遠い場所にいないで、早くこの状況から助け出してほしい。


 そして、先ほどのチャペルの時のように、颯爽と連れ去ってほしい。切実に。



 ふと貴志のタイピンが目に入った。


「あれ? 貴志、そのタイピン、わたしにプレゼントしてくれたブローチと大きさ違いでお揃いだね」


 貴志が「ああ、これか」と言って、タイピンを見せてくれた。


「演奏会用のタイピンが壊れていたから、本館に行った時に手に入れておいたんだ。お前のは、隣にあったのを思い出して、コンサート前にフロントに連絡して届けてもらった。気に入ったか?」


「うん。これ本当に可愛い。すごく気に入った。ありがとう」


 最初にもらった時に勿論お礼は言った。が、やはり使ってみての感想も伝えなくてはいかんなと思い、もう一度感謝の言葉を述べた。


「これ、皮ひものチョーカーに着けてペンダントにしてもいいなと思った。もう少し大人になってからだけど」


 そう言うと、貴志は「そうか。気に入ったなら良かった」と笑っていた。




「おーい、貴志、ちょっとこっちに来い!」


 遠くから紅子の声がした。

 声のした方を振り返ると、紅子が大きく手を振っている。


 これは貴志から離れるチャンス到来!

 と、膝から降りようとしたのだが、ひょいっと抱えられて、またしても連行だ。


 わたしの逃亡は失敗に終わった。


「お前たち、仲良しだなー。穂高とハルも後でかまってやれよ。真珠」


 紅子が楽しそうに笑う。


 これはまたしても、貴志から離れるチャンス!

 はやく穂高兄さまと晴夏の所に行こう!

 と、紅子のアシストを期待して言う。


「紅子からも貴志に言ってあげて。もう逃亡しない、と言っているのに離してくれない。これじゃあ、わたしは赤ちゃんだ! もうそろそろ、お兄さまとハルのところに行きたい」


 ちょっとぷりぷりしながら、貴志に対しての文句を言う。

 紅子が今わたしのバックにいるので、ちょっと気が大きくなっているのは否めない。


「そうか。でも、今日くらいは貴志と一緒にいてやれ。あの演奏のご褒美にな」


 紅子がわたしの頭を撫でて、そう言う。

 どうやら紅子も、逃亡幇助ほうじょはしてくれないらしい。


「そうだ真珠、今日の紅子さまの演奏はどう聴こえた?」


 紅子はスパークリングワインを飲みながら、わたしに訊く。


 そうだった。

 あの素晴らしい演奏に対する言葉を、まだ紅子に伝えていなかった。何故かは分からないが、晴夏にチャペルから連れ出された故に。


 なんたる失態だ!

 わたしとしたことが。



「さすが世界の柊紅子だと思った。紅子も貴志も、とっても素敵だったよ。言葉にすると嘘になっちゃいそうで怖いくらい、本当に身体の芯から痺れた!」


 わたしは舞台鑑賞時の興奮を思い出して、あの感動を力説する。


 あれは一生のうちに、そう何度もお目にかかることのできない名演奏だ。


 色々な人に見て、聴いてもらいたい。

 あれは音楽の真髄を垣間見る舞台だった。


 この二人の音色は紛れもない――正真正銘、魂の輝きを秘めた本物だ。



 ふと、西園寺理香のピアノの音色を思い出す。



 あれは、真っ直ぐな心が乗った音だった。

 あれだけの音色を出せる人間が、そんなに悪い女性なのだろうか。


 貴志との過去のことを思って何故かモヤモヤもしたが、あの音を耳にしてからは彼女の音色が気になって仕方がない。



 コンサートの後、立食パーティーの会場に理香は現れていない。



 紅子は、何かあるかもしれないと心配していたようだが、今のところ何も起きてはいない。





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