第64話 【真珠】ごっつんこと貞操の危機 2
逃亡しないとの約束のもと、貴志がわたしをパーティー会場の床に降ろした。
やっと一人で立てると、ホッとする。
「紅子、そういえばスズリンは?」
さきほどからスズリンが見当たらない。
「スズか? あいつはもう部屋だ。今夜はベビーシッターに任せた。長時間の音楽鑑賞の後は、あいつはすぐに眠ってしまうんだ。音に集中するから疲れるんだろうな」
そうか、スズリンも音楽家の卵街道まっしぐらなんだな。
トリを飾った立役者――神がかった演奏を繰り広げた本日の主役・貴志と紅子が二人揃っているのを認めた周囲の人たちが、彼らの周りに集まってくる。
わたしはそれを少し離れたところで見ている。
観客席にいた人たちに囲まれて、身動きのできなくなった貴志と目が合ったが、わたしは手を振ってから近くのテーブルに移動する。食べ物の物色だ。
穂高兄さまと晴夏も、綺麗なお姉さま方に囲まれているので、今は近寄りづらい。しばらくはひとりで会場を楽しもう。
まずは飲み物でも飲むか、と思ってどれにしようか考えていると、昼間『ペルセウス』で貴志と話しをしていたお姉さま二人組から声をかけられた。
「あれ? 一人なのかな? 真珠ちゃん、だっけ? たしか葛城くんがチャペルでそう叫んでいたよね」
「急に声かけて驚いちゃったかな。ごめんね。飲み物? どれがいい? とってあげるよ」
やさしいお姉さま方だ。
わたしは感謝の気持ちを伝えてから、レモン水を取ってもらった。
冷えていて美味しい。
やっと身体の自由を満喫できたのもあって大満足だ。
「今年は葛城くん、今までと違って、本当に楽しそうにしているのよ。本当によかったなーと思って、葛城くんと真珠ちゃんのことを見ていたんだ」
「わたしたちと葛城くん、昔から夏休みのミュージックキャンプで一緒になることが多くてね。中学校の時からの知り合いなの」
わたしはコクコクと頷きながら、話を聞く。
そうか、貴志の昔からの知り合いなのか。
この二人も音楽の道を歩んでいるのだなと、嬉しくなる。
「今日の彼の演奏、本当に素敵で、去年までとは音色もまるで違っていてビックリしたの」
「でも、それよりも今日の演奏後の、葛城くんの態度の方がもっと驚いたけど」
ああ、あの奇行か。
貴志よ、これはお前の黒歴史決定だな。
成仏しろよ、と心の中で手を合わせる。
あれは、わたしもどうしてしまったのかと驚いたのだが、結局何が原因だったのだろう。
「真珠ちゃんが葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ? あの後の彼の真っ赤な顔とか、大声で追いかけるところとか、去年までの彼からはまったく想像がつかなくて、本当に驚いたのよね。ね?」
「そうそう。本当にビックリした。真珠ちゃん、葛城くんのこと大好きなのね。さっきもお説教されて頭をグリグリされていたけど、あれはきっと愛情表情よ。彼の」
いまサラッと聞き捨てならない
『葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ?』
『葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ?』
『葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ?』
『葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ?』
『葛城くんのお口にチュッてしてたでしょ?』
頭の中で、その言葉が回る。
何度も何度もぐるぐると―――
「へ? お口にチュッってした? わたしはほっぺにチュウしたつもりで……え?」
―――ちょっと待て!
そうだ、あの時だ。
なんだか想像していた頬の感触とは違って、妙に柔らかかったな、と確かに思ったのだ。
その後、貴志は茫然としながら指を唇に添わせていた……気がする。
ま……まさか、まさか!
わたしはあの観衆の面前で、あの大人数の皆様の前で――『公開生キッス』をご披露してしまったのか!?
いや、そんなことは、まさかまさかまさかまさか……。
頭がくらくらする。
どうしよう。
わたしが貴志に、強制わいせつを働いたということになるのだろうか!?
しかも、
いや、教会だったから、もしかしたら神様も見ていたかもしれん!
貴志に訴えられるのか?
訴えられるかもしれない。
訴えられたらどうしよう。
わたしは
そうか、だからチャペルから逃げた後、つかまった時にあんなに激怒していたのか。
こんな子供に人前で襲われるとは、貴志の華々しいであろう女性遍歴の汚点となってしまったのだ。間違いなく。
パーティー会場でもずっと離してくれなかったのは、危険人物を野放しにできないと、周囲の皆さんの安全のためにしたことだったのかもしれない。
見張っていたのだ。きっと。
どうしよう。
これは、相当まずい。
いや、そうじゃない。
それだけじゃない。
わたしの――真珠の初キッスにもなるのではないか?
なんたることだ!
初キッスが犯罪への第一歩になってしまうとは。
何故いままで、まったく気が付かなかったのだ。
貴志のお口と、わたしのお口が、ごっつんこをしてしまっていたことに!
みんなに訊いても教えてくれなかったから、まったく気がつかなかったのだけれど――既にわたしの頭はオーバーヒートで、正常に動いていない。
しかも五歳児が強制わいせつ罪の加害者とかあり得ないだろう。よく考えればわかる常識ですら、宇宙の果てだ。
「あの……、お話中に申し訳ありません。ちょっとお手洗いに……」
考え過ぎて倒れる前に、なんとか落ち着ける場所に移動しよう。
お姉さま二人に別れを告げ、わたしは逃げるようにパーティー会場を抜け出した。
貴志と約束した、絶対逃亡しないとの約束も完全に忘却の彼方だ。
…
そして現在、アリさんとアリさんがごっつんこ、と脳内を歌が巡っているのだ。ご理解して頂けたであろうか。
わたしが逃げて隠れることができる場所など、たかが知れている。
『星川』か貴志の別棟。
その二ヶ所しか隠れる場所はないのだ。
きっとあっという間に見つかってしまうだろう。
とりあえず貴志の別棟に逃げ込んだ。
あそこならちょっとした時間稼ぎができると踏んだのだ。
そして今、寝室に設置されているウォークインクローゼットに潜伏中だ。
でもちょっと小細工はしてある。
玄関から解錠して部屋に入り、テーブルに花束を置き、窓辺に椅子を移動し、窓を開け、そこからわたしは既に逃げ出したという工作を行ったのだ。
クローゼットに隠れていても、すぐにバレる。
ちょっと考えをまとめる時間が欲しい。
そのための苦しい時間稼ぎだ。
落ち着こう。
深呼吸しよう。
スーハースーハーと息をしていると、外から男女の
「理香、もういいかげんにしろ。葛城に迷惑をかけるな」
「もう、いいじゃない。このままじゃ気持ちが収まらないんだもの。昼は柊紅子、夕方はあの子供にしてやられてっ 毎年、わたしが伴奏をしていたのに、今年に限っては一言もないのよ。それなのに、あの演奏――人の変わりよう。何があったって言うの!? もう、あなたは帰ってよ、わたしは暫くここで貴志を待つから」
そんな声が聞こえてきた。
西園寺理香と、男の声だ。
「理香っ」
「
理香の声がした後、男の人の溜め息が聞こえ、しばらく何事かを話した後、足音が遠ざかっていくのが分かった。
「貴志? 部屋に戻っているの?」
窓が開いていることに気づいた理香が、この部屋をのぞき込んでいるようだ。
「いないの? 貴志?」
物音が響いて「よっ」という掛け声が聞こえる。
窓から部屋に侵入したのだろうか。
どうしよう。
わたしが自分で考える時間を取ろうと、小細工などしてしまったからだ。
窓をあけていなければ、こんなことにはならなかった筈なのに。
これはまずい。
どうしたらいいのだろうか?
もう既に、行くも地獄、戻るも地獄の心境だ。
大変大変大変まずいことになった。
己の自業自得のせいで、貴志に多大な迷惑をかけてしまうことになったのだ。
ごっつんことか呑気に歌ってる場合じゃない。
ウォークインクローゼットの隙間から覗くと、理香が服を脱ぎ始めた。
ワンピースのような下着姿になって、貴志のベッドにもぐりこんでいる。
これは、どうしよう。
公開強制生キッスによって、貴志に強制わいせつ罪で訴えられるとか怯えている場合でもない。
このままでは、貴志が理香に襲われる。
やつの貞操の危機だ。
もう、頭の中は、色々なことが重なりすぎて大パニックだ。
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