第57話 【真珠】「初体験」と「昔の女」


 ホゥーーーッ――わたしとハルは、うっとりとした溜め息を同時につく。


「どうした? 二人とも。そろって溜め息なんかついて、仲良しだな」


 紅子がフォークを振り回しながら、わたしたちを楽しそうに見ている。


「ハルとのデュオ、本当に気持ちが良かった。きっとエクスタシーというのはこういう感覚のことなんだと思う。知らないけど」


 わたしは全身で感じた快感の余韻が冷めやらぬ中、思わずそんなことを譫言うわごとのように口走る。


 兄がフォークを落とし、貴志がコーヒーを吹き、晴夏が息を呑んで固まった。


 まだ頭の奥が痺れているような、ふわふわとする不思議な感覚だ。


「そうかそうか! ハルと経験してしまったのか。その絶頂感を!」


 紅子は三人のその様子を、ものすごく面白そうに見ながらそう言った。


 わたしは、紅子の方に身を乗り出して、頭をコクコクさせる。そうなのだ――



「初めての経験をハルとしてしまった! これはわたしの正真正銘の初体験だ!」



 まだ興奮中のわたしは拳をギュッと握りしめ、声を大にして宣言する。これは、自分の心の日記にしっかりと刻んでおかねばならぬ。



「穂高、その阿呆あほうの口をいますぐ閉じろ。周囲の視線が痛い」



 少し離れた席に座る貴志が頭を抱えながら、わたしの右隣りに座るお兄さまに命令する。



 何を言うか、お前たちがいるからこその、この視線だろう。


 そして、貴志よ、最たる元凶はお前だ。

 わたしに責任転嫁するな。



「真珠……、お口をチャックしようね」



 兄は口角をヒクヒクさせながら、わたしに言う。

 でも兄に言われては、お口をチャックせざるを得ない。



「はい。穂高兄さま。分かりました」



 わたしは自分の右手の親指と人差し指を唇に当て、ジッパーで閉じる動作をする。



 現在、我々は昼食後のデザートタイムに入っている。

 場所は『天球』本館――ランチに選んだレストランは『ペルセウス』――こちらはビュッフェではなく、数種類の決まった定食メニューから食べたい物を選択する食事処だ。



 落ち着いた紺色の絨毯が敷き詰められ、天井には細長い角張ったガラス管が一面に埋められている。

 そのガラス管の一つ一つに小さな明かりが入っていて、まるでペルセウス流星群が地上に降り注いでいる姿を模したかのようなシャンデリアだ。


 こちらのレストランは朝お世話になった『カシオペア』の丸テーブルとは違って、細長いテーブルに淡いブルーのクロスがかけられている。角度によってクロスに織り込まれた模様が輝くのが美しい。

 テーブル中央には花ではなく、星をかたどった大きめのガラス細工が置かれ。その中では炎が揺らめいていた。


「ハル。で、どうだった? 真珠とのデュオは」


 紅子は、ザッハトルテを頬張りながら晴夏に訊く。


 晴夏は目を見開いた後、少し頬を赤く染めて、照れたような表情を見せる。


 周りのテーブルのお姉さまお兄さま方の視線が、秒で晴夏に向かったのが手に取るように分かった。


 本当にビックリするほどの美人さんである。


 普段はその端正な顔立ちから氷のように冷たい印象を受けるため、和らいだ表情との落差が激しい。

 彼がその笑顔をみせたら、あまりの美麗さに倒れる人続出間違いなしだ。


 彼のもつ氷の刃が、一瞬にして常春の花園に早変わりする様は見ていてクルものがある。



 笑わない、喋らない、そんなハルルン時代とのギャップがすごい。これがまさしくギャップ萌えというやつなのだろう。



「そうか。真珠との合奏はそんなに良かったか」


 紅子は嬉しそうにカカカッと笑った。



 そうなのだ、スケールを弾いた後、晴夏に一度Bach Doubleのセカンドパートを弾いてもらった。

 彼の奏でる、音程もテンポも音色も、その全てが完璧だった。


 早朝ガゼヴォでわたしが感じた、晴夏の演奏に潜む惑い――そんな物など幻だった、とでも言うかのような凛とした厳粛な演奏を、彼は披露してくれた。

 直すところなどまるで見当たらなかったのだ。


 これは本当に素晴らしいとしか言いようがない。


 わたしは最後まで聴いているだけ、という状況に我慢がでず、途中で晴夏の音にあわせて合奏を開始してしまう位に心惹かれる音色だった。


 晴夏は最初、突然のわたしの乱入に息を呑み、つられまいと努力する姿が垣間見えた。けれど、それはほんの一瞬のことだった。


 彼は、わたしの呼吸を読み、わたしの目線を感じ、それに即座に応じていった。


 紅子には、彼にリードさせ、わたしはそれを纏めるように演奏していくと宣言したが、そんな必要は全くない。


 アンサンブルの経験が無い――そのことで感じた多少の不安は、ただの杞憂でしかなかった。


 お互いがお互いを知り、ひとつの曲を作り上げていく。


 一心同体とでも表現するかのような演奏に、わたしと晴夏は恍惚とし、時間さえ忘れて楽器を鳴らすことに没頭したのだ。



 その時間の終わりを告げたのは、紅子たちの「昼飯だぞ」という声だった。


 この分だったら大丈夫だ。

 まったく問題なく仕上げられる。

 そう安心したところ、紅子が貴志に話を振る。



「そうだ貴志、今日のコンサート、衣装はどうする? 色も統一した方がいいだろう?」



 貴志は珈琲を飲みながら「ドレスのカラーは何を持ってきているんだ?」と訊く。


「色々とあるぞ。先週お前から伴奏の打診があったときに、何着か増やしたからな。かなり持参してきた。必要ならホテル内の店で購入しても良いしな」


「赤系統は何着ある?」


「真紅、朱色、それから……あとはワインレッドを持ってきている」


 貴志は少し考え込んでいる。


「情熱の赤だけでなく、少し淫靡な感じも出したい。」


 紅子も一緒に考えていたようだが、二人同時に――


「「ワインレッドだな」」


 と言った。


「ワインレッドのドレスは、なかなかセクシーだぞ! 右足に大胆なスリットが入っている。演奏中は紅子さまの美脚を拝むがよい。皆のもの!」


 衣装のテーマカラーは決まったようだ。 


「貴志、お前はどこにその色を入れる?」


「とりあえずネクタイにしようかと思ってる。黒のスーツでジレは光沢のあるグレーだ。」


 ちょっと二人の姿を想像してみる。


 おお!

 これは――紅子の大胆ドレスと貴志のスーツ姿。

 女性客だけでなく、男性客も目が釘付け間違いなしだな。


 貴志よ。

 場合によってはジャケットを脱いでジレだけでも、相当恰好いいと思うぞ。




 みんなが昼食を食べ終え、席を立った時、貴志の知り合いらしき女性二人組が彼に声をかけてきた。


「あれ、葛城君、お久しぶり。元気だった?」


 昔からの知り合いのようで、貴志もそれに「ご無沙汰しています」と無難に挨拶をこなしていく。


 わたしは紅子に、昼寝場所についての確認をする。


 午後は貴志と紅子はコンサート前の最後のリハーサルなので、部屋で弾いたり、チャペルに移動したり、衣装合わせをしたりと忙しくなるのだ。

 その間、わたしと晴夏とスズリンはお昼寝の予定だ。


「貴志の棟で昼寝させてもらったらいい。さっき、あいつに確認したら問題ないと言っていたぞ」


 そうか、わかった。

 では、わたしは晴夏とスズリンのことを責任もって預かり、お姉さんらしく寝かしつけしてさしあげよう。

 子守歌は『七つの子』で良いだろうか。


 ふと貴志を見る。


 まだお姉さん二人組と話をしているようだ。

 ここまで話声が届いてくる。


「葛城君、柊紅子女史とデュオって聞いたわ。今年は『理香』と一緒には弾かないのね」


「もう彼女とは会ったの?」


「ええ、今年は柊女史にお願いしました。西園寺さんとはまだ会っていないですね」


 貴志がそう答える声が聞こえ、その後二言三言交わした彼は、ではまた、と別れを告げてこちらに足早に戻ってきた。






 紅子が溜め息をつく。


「西園寺理香――か。お前も変な女に目をつけられたものだな。あの小娘は可愛らしい見てくれとは違って、中身は蛇のような女だぞ。いつも男を侍らしてプライドだけは高い。いけ好かない女だ。まさか手を出したりしてないだろうな」


 紅子は貴志に視線を送り、最後の科白は小声になった。

 それに対して貴志は、一瞬の逡巡をみせたあと答える。


「……一度だけ、だ」


「寝たのか!? あいつと?」


 紅子が小さな声で叱咤している。


「その時は特段拒む理由がなかった。別に西園寺も俺に特別な感情があったというわけでもないし、後腐れのない関係だ。一年に一度、ここで会うか会わないか。今では連絡を取りあうでもない。そんな希薄な関係――それ以上のことは何もない。お互いにな」


「また厄介なことを。今までの……去年までのお前だったら、あの小娘も自分に靡かない男などサッサと諦めるだろうが、今年は……今のお前の演奏を聴いたら、ヤツは間違いなく粉をかけてくるぞ」


「どういうことだ?」


「お前の音は今までと違う。生まれ変わったかのような音色の変化だ。何があった。親御さんと和解したから、だけじゃないんだろう?」


 貴志は「それは……」と、少し言い淀んだ後、紅子に断言する。


「西園寺とは何も起きない。だから、紅――今年はお前に伴奏を依頼したんだ」


 貴志の迷いのない真っ直ぐな言葉に、紅子はフーッと息をつく。


「……分かったよ……仕方ない。何かあったら、わたしが身体を張って助けてやる」


 紅子は貴志の背中をバンッと叩く。


 貴志は、紅子を見て笑った。


「お前は相変わらず男前だな。俺は大丈夫だ。西園寺とは関わるつもりも――話すつもりも――ない。

 今は……『あいつ』以外――他に欲しいものは何もないんだ」


 貴志は最後の言葉で、何故か自嘲の笑みを浮かべていた。


「そうか、あの音色は……そういう……やっと……出会えたんだな……」


 紅子はそう呟くと、次第に穏やかな表情をその顔に浮かべた。






 貴志と紅子が、大人な会話をしている。


 そうか、昔の女か。


 まあ、この容姿だ――寄ってくる女も一人や二人どころの騒ぎではなかったのだろう。

 その中で、ちょっとつまみ食い、ということもあったのかもしれない。


 年齢的に言っても、そういうことがあってもおかしくはない。(伊佐子には全くなかったのだがな)


 けれど、何故か聞いていてあまり良い気分ではなかった。


 何故だろう。

 これは、兄弟を誰かに取られたような気持ちなのだろうか。


 モヤモヤしていると、ふいに誰かの手がわたしの左手に触れた。


「シィ、何を泣きそうになっている?」


 その手の主は、晴夏。


 相変わらず普段は感情を感じさせない表情だが、心配してくれているのは分かった。


「え? 泣きそう……な?」


 晴夏はわたしと繋いだ手にキュッと力を入れた。

 まるで、頑張れとでも言うかのような握り方だった。



 泣きそう?

 そんなことはない。



 心配をかけたようで申し訳なく感じ、わたしは彼に笑いかけた。



「大丈夫。それより、午後はコンサートまで、お昼寝しないとだね。貴志の部屋でみんなで一緒に寝よう」



 そう言って、わたしたちは『ペルセウス』を後にした。





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