第58話 【真珠】午睡時の訪問者


 『ペルセウス』を後にした穂高兄さまとわたしは、いったん『星川』へ戻り、午後のコンサートに着ていく服を選ぶことにした。


 お祖母さまがワンピースやら靴やらを事前に段ボールに詰めて宅配便で送っていたので、お目当ては割とすぐに見つかった。



 貴志と紅子が、衣装をワインレッドで揃えるということだったので、わたしと穂高兄さまもそれに近い色を服装に取り入れようという話になり、バーガンディを選んだ。残念ながらワインレッドは無かったのだ。


 穂高兄さまは黒のセンタープレスのきいたハーフパンツと白いシャツ、そこにバーガンディのシルク地のネクタイを合わせ、光沢のあるベストは貴志と同じグレーだ。


 わたしも同じくバーガンディのシフォン生地のAラインのワンピースを選択した。

 装飾のないシンプルなワンピースでパフスリーブが特にお気に入りだ。羽織るケープは白。


 お兄さまとお揃いで、グレーの差し色があったらいいのになと思ったけれど、目ぼしいものはみつからず、そこだけが残念だ。



 準備を終えて、部屋を出る時にフロントに連絡し、荷物を後で別棟まで届けてもらうことにした。


 花束も二人分準備する。

 演奏後に奏者である、貴志と紅子に渡すためだ。



 穂高兄さまと手を繋いで、別棟の紅子の部屋にまずは向かう。

 到着すると、既に貴志と紅子は最終調整に入っていて忙しそうだ。



 お兄さまはリハーサル見学とのことで、そのまま残り、わたしは晴夏とスズリンと一緒に貴志の部屋に向かう。

 暗証番号キーは既に知っているので、三人で貴志の部屋に入った。


 クイーンサイズのベッドなので三人一緒に横になれると思ったのだが、晴夏がソファで寝ると言い出す。

 が、スズリンが川の字になって寝たいとのことで、わたしと晴夏でスズリンをサンドイッチするように横になることにした。


 日中は少し暑いので、窓を閉めて空調を入れる。

 薄手の肌掛けをかけ、三人で横になった時に、首が苦しくて起き上がった。


 ああ、そうだった。


 一昨日の夜、『紅葉』でお仕置きと称して、貴志にくっつけられた例のマークが首に残っているのでスカーフはまだ巻いたままだ。

 それを付けていたことを忘れて、うっかり横になってしまったのだ。このスカーフも外さねばならん。


 まだ消えないとは――いつ消えるんだろう。

 消える……んだよね?



 実は、キスマークってどうやって作るのだろうか、と非常に興味が湧いて、好奇心旺盛なわたしは自分の右腕の内側で実験することにしたのだ―――つい先ほど。


 衣装選びと並行しながら右腕を吸いまくった。


 お前はアホかと罵ってくれても構わない。


 そう言われようが、ものすごく作ってみたくなってしまったのだ――後学のために。


 だか、頑張ってチューチュー吸ってみたのだが、いっこうに作れないのだ。


「真珠、なにしてるの? 大丈夫?」と兄に心配されるまでやり続けた。

 それでもそのマークは作れなかった。


 小さいのだが、赤い痣の一部が紫色に変色し始め、そのまわりは薄っすらと黄色くなっている。

 スカーフを外すと目立つ。これは虫刺されに見えない。バレバレだ。穴があったら入りたい。


 そこでハッと気づく。

 今日のバーガンディのワンピース――首元が丸見えなことに。


 せっかく選んだのに、泣きたい。


 なんてことをしてくれたんだ!?


 と貴志に恨み言のひとつも言いたくなって、練習中とは分かっていたが内線電話をかけた。


 これは、どうにかしなくてはいけない。

 こんな姿では人前に出られない。


 貴志がプレゼントしてくれたこのスカーフは青味がかっているため、今日の服装には合わないのだ。


 電話が通じて、貴志と話す。

 後ろで紅子がピアノを弾いていたために声がよく聞こえない。

 「ちょっとこっちに来い」とのことで、そちらに移動する。


 晴夏に「すぐに戻る」と伝えて、先にスズリンと休んでいてもらうことにした。


 紅子の部屋に移動すると、穂高兄さまは奥の寝室で紅子の弾く伴奏譜のコピーを真剣な顔で読んでいる。

 わたしが来たことにも気づいていないようで、かなり深く集中しているのが分かった。


 兄はすっかり凛々しく頼もしくなったのだな、と感慨に耽っていたところ「いったいどうしたんだ」と貴志から声をかけられた。


 紅子は一心不乱にピアノを弾いているようで、こちらのやり取りは気づかないだろうと踏んで、貴志のそばに近づいた。



 首筋鎖骨のくぼみを押さえていた手をどかすと、貴志が息を呑んだのが分かった。



「コンサート鑑賞のワンピースだと、これが隠せない。どうしてくれる!」



 お仕置きにしては、やりすぎじゃ。

 本当は嫌だが――お尻ぺんぺん位のソフトな普通のお仕置きにしてほしかった。


 このお仕置きは、子供の身にはハードすぎるのだ。色々な意味で。



 貴志の様子も、どこかおかしい。

 激しい動揺が隠せていないようだ。



「スカーフは、どうした? ああ、鑑賞する時の服と色が合わないのか?」



 わたしはコクリと頷く――貴志と紅子の衣装に合わせて同じ系統の色味の服を選んだことを伝えると、あとで貴志が着替えに戻った時に何か貸してくれると言うことで話がまとまった。


 じゃあ、これで昼寝に戻る、と伝えると、貴志の右手がわたしの頬を包んだ。



「すまなかった」


 本当に申し訳なさそうに、そう言われた。



「これはいつか消える? 消えるよね? 消える……かな?」


 こんな経験をしたことがなかったため、本当に消えるのかちょっと不安になって、質問の仕方が尻すぼみになってしまう。


「消えるから安心しろ。悪かった。あとでちゃんと隠せるものを渡すから」


 貴志は自分の持ち物で、何か代用できるものがないかを思い出しているようだ。何か隠せるものがあるといいのだけれど。


「どうやったら作れるのか興味があって、さっき実験したけど自分では作れなかった」


「実験……お前はいったい何をやっているんだ」


 右腕の内側を見せて、ここを吸ったがどうやっても作れなかった旨を伝えた。


 貴志は、わたしの行動に驚いたあと、おかしくなったのか笑い出す。


 わたしにとっては笑い事じゃないのだが、後でコツを教えてくれ、と言っておいた。


 ただの興味本位だが、知りたい。

 あくまでも後学のために。


「お前は、また突拍子もないことを……」


 貴志は溜め息をついていた。が、知らないことは、やはり知りたくなるのが人間のさがだ。


「とりあえず戻って昼寝しろ。夜も練習するんだろう。身体がもたないぞ。部屋まで送る」


 そう言って、フワリと抱き上げられる。


「うん……」


 貴志の首に手をまわし、落ちないようにしがみ付く。

 ほんの数メートルの距離――あっという間に部屋の前に着いた。



 そのまま部屋の暗証番号を押して、部屋の中に入る。

 晴夏とスズリンはベッドの上で横になっている。もう寝たのだろうか。


 そう言えば、子守歌を歌ってあげられなかったな。


「ハルはソファで寝るって言っていたんだけど、スズリンが川の字で寝たいって最初三人で横になったんだ――でも、一緒に寝かしつけしてあげられなかった」


 そんなことを貴志に伝える。


 貴志はわたしをピアノの置いてある部屋に降ろすと、わたしと視線を合わせるように片膝をつく。


 どうしたんだろう。


「あの日は、本当にどうかしていた。自分でも何があったのかよく分からないんた……怖い思いをさせたのかもしれない。すまなかった」


 わたしは意味が分からず、キョトンとした顔をしている事だろう。



「え? なに? どういうこと? 怖いって、何が? この痕をつけたことを言っているの? 貴志?」



 貴志の両手が再びわたしの頬を包む。


 右手をゆっくりと滑らせ、彼の冷たい指が首筋の印に触れた。

 その瞬間、ビリッとした甘い痺れが身体の奥から湧き上がり、わたしはビクッと身体を震わせる。


「俺は……」


 そう貴志が何事かを言いかけた時――玄関のベルが鳴った。


「紅子が呼びに来たのかもよ? 戻って来いって」


 わたしがそう言うと、少し躊躇うような仕草で、貴志の手がわたしから離れて行った。


「貴志? 貴志のことを怖いと思ったことはないよ。いつもわたしのことを大切に扱ってくれてるのもちゃんと分かってる」


 わたしは微笑みながら、貴志の首に抱きついた。


 時間がないので、それ位のことしか言ってあげられなかったのだけれど―――怖くないよ、むしろ感謝しているよ、と伝えたかったのだ。



「いつも、守ってくれてありがとう。貴志が優しい人なのは、一緒にいるわたしが一番良く分かってるつもりだよ」



 そう言いながら、貴志の背中をポンポンと宥めるように叩く。



 先ほど、彼は何かを言いかけていたが、きっともう戻らないといけない時間だろう。


 貴志は、わたしのことを包むように抱きしめてくれた。

 その力がいつもよりも強い。



「誰に対しても優しく気遣うわけじゃない。お前が知らないところでは、かなり……ひどい男だと思う……その自覚は……ある」



 呼び鈴が、また鳴る。



「やっぱり紅子じゃないかな? 貴志、戻らないと。」


 貴志はフーッと溜め息をつくと、何故かもう一度わたしを抱き上げ玄関に向かった。


「お前のその首の印、紅に化粧品を借りてカバーしてもらおう。後は、何本かネクタイがあるからそれで隠そう。悪かった」



 貴志がそう言いながらドアを開けると、そこには二人の男性を引き連れた若い女性がひとり――



「貴志、一年振りね――どうして今年は伴奏にわたしを選ばなかったの? 理由を教えて」



 貴志が愕然とした表情で呟く――



「西園寺、何故ここに……?」



 ――と。




 貴志の『昔の女』が、そこに立っていた。




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