第56話 【真珠】「君と一緒なら」
晴夏の腕をグワシッと胸に抱え、半ば拉致するようにしてガゼヴォに到着。
背負っていたバイオリンケースを、中央に設置されたテーブルの上に並べて置くと、晴夏は左手で口元を押さえこみながら、涙目で座り込んでしまった。
彼はどうしてしまったのだろう。
よく見ると顔どころか耳まで真っ赤だ。
競歩するかのような速さで引き連れてここまでやってきた為、息が上がってしまったのだろうか。
右手は胸を押さえている。
やはりあの速度での移動により、動悸を起こしてしまったのかもしれない。
わたし自身も、身体を鍛えねば!――と思うくらいに体力がない。
しかし、晴夏がわたしよりも体力が少ないとなると問題だ。
音楽家は体力も必要だ。
一緒に走り込みやら、マラソンやらしたほうが良いのかもしれない。
この程度で真っ赤になって呼吸が上がってしまうようでは、この先ちょっと心配だ。
わたしは晴夏の前に一緒に蹲り、彼の顔を両手で包んで瞳をのぞき込む。
心配になって、瞳孔を確認する。
本当に大丈夫だろうか。
晴夏は更に呼吸が荒くなった。
どうしよう、このまま練習しても良いのだろうか。
「立てる? ハル? 大丈夫?」
わたしは立ち上がり、晴夏に手を伸ばす。
彼は我に返った様子で、一度深呼吸をすると「大丈夫だ」と言って、わたしの手は取らず、ひとりで立ち上がった。
動悸もだいぶおさまってきたようで、少しホッとする。
わたしはテーブルに向かうと、ケースを開けてバイオリンと弓を取り出した。
バイオリンにショルダーレストを取り付けて、チンレストにガーゼを乗せる。弓を張り、ホースヘアーに松脂をぬり込む。
「チューニングしようか。準備して」
晴夏の表情がスッと変わる。
彼は音楽に向き合う準備ができたようだ。
「わかった」
晴夏もバイオリンケースを開けて、わたしと同じ作業を繰り返す。
彼が準備をしている間に、わたしは自分のバイオリンの音の調整を済ませる。
晴夏はチューナーを起動させている。
「A線から」
晴夏のバイオリンから生み出される透き通った音が、森の中に広がっていく。
「少し低い。もうちょっと。あと、少しだけ上げて」
晴夏の音を耳でとらえ、調整していく。
「この音に合わせて」
そう言って、わたしのバイオリンを鳴らす。
晴夏は、その音に重ねるように自分の音を正していく。
「ハル、今はチューナーで合わせてもいい。でも将来コンクールに出るのなら、耳で音の調整をできるようにしたほうがいい。舞台に上がったらチューナーは使えない。何かあった時は、自分の耳だけが唯一の味方になるから。そのうち慣れていこう」
わたしがそう言うと、素直に頷く。
彼からわたしに対する辛辣な発言はない。
わたしのことを、多少なりとも認めてくれたということなのだろうか。
それぞれの弦を、ひとつずつ丁寧に正しい音へと導いていく。
バイオリンの弦は全部で4本ある。
高音から低音に向かって、E線、A線、D線、G線となる。
チェロも同じく弦は4本。こちらはA線から始まり、D線、G線、C線となる。
この4本のストリングをA線を基準に順番に調整し、正しい音程にする。
ここで音が少しでもズレてしまうと、すべての音が変わってしまうのだ。
最初の頃は調整に手間取るが、慣れてくればものの数秒でピタリと合わせることができるようになる。
ちなみに『G線上のアリア』という有名な曲があるが、この曲はG線1本のみの音域で弾けるためそう呼ばれている。
指慣らしのために、まずは二人でスケールを弾く。
ハルはポジション取りも正確で、左手をシフトさせても全て正しい音を的確に弾いていく。
この年齢でこれだけのことができるのか。
将来、『この音』の中で、音楽界の寵児といわれるだけのことはある。
本当にすごい。
『あの』彼と――幼少期とはいえ――一緒にコンチェルトが弾けるのだ。
こんなに贅沢なことはない。
わたしも負けていられない。
今はまだわたしの――伊佐子の知識と経験があるが、彼の成長にいつ追い越されるか分からない。
これからも奢らず、気を引き締めて、彼からも学びながら進んでいかなくてはいけない。
ああ、鳥肌が立つ。
彼と一緒に音楽を作っていけるのだ。
なんという僥倖だろう――自分の幸運に武者震いが起きる。
スケールを順番に弾いていく。
音の重なりが心地よい。
ただ音階を弾く、というだけではなく、それぞれに弾き方を変えて、まるで楽曲のように弾き連ねる。
わたしが弾き方を変えると、晴夏も即時に対応し、同じように音を重ねる。
まるで、追いかけっこをして遊んでいるような気分になる。
楽しい――次の音階はどんな弾き方をしようか?
彼はどんなふうに応えてくれる?
二人で時々アイコンタクトを取り、お互いの弓の動きと、呼吸を読む。
まるで、ユニゾンの音遊び。
わたしが笑うと、彼の音も笑う。
わたしが囁くと、彼の音も囁く。
わたしが跳ねると、彼の音も跳ねる。
ああ、彼は音に心をのせることが、こんなにも容易くできるではないか!
心が弾む。
音がキラキラと弾ける。
これが「音」を「楽」しむと言うのこと―――
本当に気持ちがいい。
幸せな気持ちになり、わたしの顔から笑顔が溢れる。
晴夏も演奏に耽り、夢中になって弓を引いているのが伝わる。
すべての音階を長調短調で弾き終わった時に、彼の茫然とした、けれど爽快感を思わせる微かな笑顔が見えた。
ああ、やはり彼の微笑は高潔で美しい。
いつか満面の笑顔を見ることができるだろうか。
――そんな日が来たらいいな。
「すごい……っ」
晴夏の小さな呟きを、わたしの耳が拾った。
彼もわたしと一緒に、音遊びを楽しんでくれたようだ。
良かった。
本当に嬉しい。
わたしは弓を左手に持ち替え、空いた右手を彼に差し出す。
晴夏がそれに気づくと口角が少し上がり、その右手がわたしの右手を取った。
「一緒に弾くって楽しいね。すごく幸せな気持ちになるね。スケールだけでこんなに気持ち良く弾けるんだよ。デュオだったら、きっと、もっともっとワクワクするよ!」
わたしはそう言って、彼の手を握り返した。
晴夏はわたしの右手をそのまま引き寄せて、自分の胸に当てる。
彼の鼓動が、わたしに直接伝わってくる。
「ありがとう……シィ。僕は君と一緒なら……見つけられるかもしれない……僕の……僕だけの音色を……」
晴夏は、とても穏やかな表情をみせる。
わたしは彼に音楽の楽しさを、もっと知ってほしい。
共に奏でる幸せを感じてほしい。
いつか、『あなたの音楽に対する、ひたむきな愛情を尊敬している』と伝えたい。
だから一緒に音を重ねていこう。
「ハル――わたしに聴かせて。あなたの音色で奏でるバッハを」
いま、彼の瞳の中には、わたしがしっかり映っている。
わたしをキチンと見て、ここにいることを認めてくれたのだ。
その事実が、とても嬉しかった。
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