第55話 【真珠】晴夏とガゼヴォへ
紅子とこれから三日にわたる、晴夏とわたしの練習スケジュールについての話を詰める。
ふと、気になったことがあって、わたしは紅子に質問する。
「紅子、どうしてハルにわたしとのデュオを組ませようとしたの?」
そんな問いを彼女に投げかけたのだ。
「わたしはハルに、音楽を『友と一緒に作り上げる』喜びを知ってほしかったんだ。でも、ハルは音楽にひたむきなあまり、周りを傷つけてしまうことも多くてな。あの年齢で、あそこまでストイックに音と向き合う子供も珍しいとは思うんだが……な」
紅子は「うーん」と唸りながら理由を教えてくれた。
なるほど。
確かにゲームでもそんな場面があった。
「君は、音楽と真剣に向き合っているのか。とてもそうは思えない演奏だ」とか――
「君は、その程度の練習で満足なのか。未熟なままでは共に弾くことなどできない。何故もっと高みを目指さないんだ」とか――
「君の音色は聞くに堪えない。もっと精進するべきではないのか」とか――
思いつくだけでも、かなりへこむ科白ばかりだった。
しかも、絶対零度の『氷の王子』ボイスでだ。
感情が伴わない冷徹な声で蔑まれるのだから、小心者のわたしの心のダメージの大きさも想像出来よう。
当時、バイオリンもだいぶ弾けるようになり、練習を少しさぼっていた――とは言っても練習は毎日していたのだが、練習に費やす時間が短かったのだ――そんな時期だったので、なおさら晴夏サマの言葉に、全わたしの心がズタズタにされたのである。
そして伊佐子は「晴夏サマにそう言われないように」と、日々の練習に打ち込むようになった。
晴夏ルート開始からしばらくして、急に真剣にバイオリンの練習に励むようになったわたしを、家族が不信がっていた記憶がよみがえる。
いくらかお姉さんに成長していた伊佐子でさえ――自業自得なのはわかっているが――晴夏サマの言葉責めプレイに、毎夜夢の中で
同年代の、しかも未就学児がそんなことを言われたら、もうそれは恐怖でしかないだろう。
音楽家の卵たちを、意図せずに氷の刃で傷つけまくったのは想像に難くない。音楽への愛ゆえに――
そんなことを思い出していると、貴志に連れられて晴夏が戻ってきた。
どうやら二人の話は終わったらしい。
紅子が「ハル。真珠と話がしたいって言っていたが、今するか?」と訊いたのだが、少し考えるような素振りをみせてから「今はいい」と返された。
貴志との話で何か思うところがあったのだろうか。
詳細は分からないけれど、それならば早く練習に移りたい。
時間はあまりない。
だが、今日の『クラシックの夕べ』には、貴志と紅子も出演するのだ。
それを鑑賞する時間もキチンと取りたい。
今日はコンサート後、夜遅くまで晴夏とのリハーサルに費やすことになりそうだ。
夜はどこで練習をしようかと考えていたところ、子供の体力問題について思い至り、『クラシックの夕べ』の前に昼寝をする必要があることが分かった。
穂高兄さまは紅子と貴志のリハーサルを見学し、アンサンブルについても学ぶとのことでお昼寝は無しだ。
よって、今日のコンサート後の夕食時間以降は身体がもたないと紅子によって判断され、元からお兄さまの練習時間を取っていなかったとのこと。
わたしも二人のリハーサルにはとても興味がある。
本当なら一緒に見学したかった。
けれど、それをしてしまっては夜まで間違いなく体力がもたず、おそらく何処かで寝落ちするのは確実。
よって敢え無く断念したのだ。
お兄さまと紅子のレッスンが無いのならばと、夜の練習時間にわたしと晴夏で紅子の棟を使用させてもらう許可もとる。
遅くなったらガゼヴォでの練習はできないからだ。
みんなで話し合いながら、サクサクと今日の予定を決めていく。
これからお昼までの短時間で、一度晴夏の演奏を聴き、気になった点を補正しながらテンポと緩急、少し溜めるところ、盛り上げるポイントについて二人で相談していこうと決めた。
貴志は午前中は部屋に籠り、今日の演目を弾き込むとのこと。
午後は、昼食後に紅子と貴志の二人はリハーサルに入るらしく、二人でその件に関してちょっとした打ち合わせもしていた。
わたしが、どうやって晴夏と合奏していこうかと考えていた時、紅子と貴志の会話が急に耳に入ってきた。
「貴志、この天下の紅子さまを伴奏者にできる男など、世界中どこを探してもお前くらいのものだ。だが、わたしをアカンパニストに選択した判断は間違いなく正しい。
今年も『あの小娘』を伴奏者に選んでいたらと思うと虫唾が走る。アイツは好かん」
ふと顔を上げると、貴志とパチッと目が合った――と思ったのだが、気のせいだったのか?
次の瞬間には、その視線は逸らされていた。
貴志との打ち合わせを終えた紅子は、これから穂高兄さまを指導するらしく、わたしと晴夏はガゼヴォに移動することになった。
移動する時に貴志も自分の棟へ戻るということで、数メートルの距離を三人で一緒に移動する。
貴志と紅子の棟が近くて良かった。移動も打ち合わせも本当に楽チンだ。
貴志の部屋に置いてもらっているバイオリンを受け取りながら、今日彼が紅子と一緒に演奏する曲目について質問する。
「貴志は紅子と何を演奏するの?」
『クラシックの夕べ』と銘打ってはいるが、実際は普段音楽に触れる機会のない人や子供も鑑賞するので、正統派クラシックだけの演目ではない。
有名なポップスだったり、映画の曲だったり、時には子供の好きなアニメの曲なども演奏されるのだ。
貴志と紅子、この強烈な個性を放つ魅惑の二人組が何を披露するのか興味が湧いた。
「ピアソラの『リベルタンゴ』―――だ」
ひゃーーーーーー!!!
アストラ・ピアソラか!
それは――貴志があの曲を弾くのなら、客席はどんな状態になってしまうのだろうか!?
女性客など倒れる人続出で、中には鼻血を流してしまう人も出るかもしれんぞ。
あの色気たっぷりの情熱のリズム!
そこはかとなく頽廃的な気怠い響きを潜ませる、エロス溢れるあのタンゴを炎の女・紅子と弾くのか。
すごいことになりそうだ。
これは絶対に鑑賞せねばなるまい!
よし!
と気合いを入れて、コンサートを心待ちにする。
わたしと晴夏のデュオも、二人に負けてはいられない!
早速頑張らねば!!!
わたしは晴夏の手を取ると、指を絡ませてギュッとつないだ。
貴志&紅子コンビに遅れをとってなるものか!
晴夏のその手を引っ張るようにしてガゼヴォに足早に向かう。
「え? おい。シィ?」
焦ったような声が晴夏から届いたが、構っている暇はない。
貴志と紅子に負けるわけにはいかないのだ。
「ハル! 行くよ! はやく練習しよう」
ワクワクする。
わたしは晴夏に向けて満面の笑みを向ける。
今、わたしの瞳の中にあるのは音楽への愛情のみだ。
今からアンサンブルを楽しめることが、嬉しくて仕方ない。
もうニヤニヤが止まらないのだ。
晴夏よ。
不気味だろうが暫く――三日ほど? 我慢してくれたまえ。
この嬉しい興奮に、わたしの
血が
貴志は、わたしたちを自分の部屋の玄関先で見送ってくれた。
「真珠、周りを見ろ! 負けず嫌いもいいが、ほどほどにな」
少し慌てたように貴志が言っている。
何を慌てているのだ。
我々に追い越されまいと焦っているのか?
貴志よ、お主もまだまだだな。修行が足りんぞ!
わたしは振り返り「大丈夫、大丈夫!」と貴志に笑い返した。
声もきっとルンルンしていることであろう。
でも、闘志はメラメラだ――隠しようのない高揚感に頬が上気する。
早く練習をしたい。
アンサンブルなんて久しぶりだ。
スケール以外を弾くのも何週間ぶりだろう。
でも、基礎だけはバッチリ積み重ねてきた。
Bach Doubleなら腕に負担もかからない。
まったく問題ない。
嬉しさが炸裂する。
一人ではなく、二人で曲を作り上げていくのだ。
それだけで天にも昇る――幸福感が倍増だ。
音楽に恋焦がれる――そんな思いで、晴夏とつないだ手を引き寄せ、今度はその腕をギュッと胸に抱いて、晴夏に笑いかける。
咄嗟に逃げようとする晴夏を、逃がすものかと更に抱き寄せる。
一刻も早くガゼヴォに到着したいのだ。
身を寄せるようにして、強引に連行しているのは分かる。
おそらく誘拐犯に拉致されている気分なのであろう。
怖がらせて申し訳ない、が―――
すまんな晴夏よ!
わたしのこの音楽にかける想いを、侮ってはいけないのだよ。
「え、ちょっと……おい、シィ? 君は……本当に何をして……」
晴夏は何故かとても赤い顔をして、それを隠すように左手で口元を覆っている。右手はわたしの腕の中。
大変焦っているようだが、ノンノン、だ!
こちらも時間がなくて非常に焦っているのだ。
晴夏よ、安心したまえ!
拉致監禁して、とって食おうとしているわけではない。
怖がらずとも、よいよい!
まあ、お姉さんにまかせない!
君の演奏のすべてを受け止めて進ぜよう。
どんと来い! だ。
「あー、あの負けず嫌いめ。また色々と見えなくなってるな。本当に周りを翻弄する女だな――真珠、お前は」
貴志がそんなことを言いながら苦笑いしていたことなど、わたしは全く知る由もなかったのだけれど――
後日、晴夏に対してやらかした、この一連の行動を指摘され、悶え苦しむことになるのだが、今はそんな羞恥心さえ何処か宇宙の彼方――さて、練習の時間だ!
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