第54話 【真珠】紅子の依頼と母の慈愛


「真珠――お前は一体、何者だ?」


 紅子のその問いに、真実を答えることはできない。


 彼女に宿る炎が、わたしを捕えようとする。

 けれど、わたしは彼女から目を逸らさずに事実のみを伝える。


「わたしは、わたし――月ヶ瀬真珠以外の何者でもない」


 ―――と。


 どのくらいの時間、彼女の目を見詰めていたのだろうか。

 突然、紅子がクッと笑った。



「わたしから目を逸らさないとは、大した度胸だ。わたしはお前のその目が好きだよ、真珠。特にあの演奏をするときの目はゾクゾクする。最高だ」



 紅子は、身を乗り出して、わたしの目の奥をさらにのぞき込む。


「お前は面白い匂いがする。子供でもない、大人でもない、この世のものではないような―――そんな匂いだ」


 わたしは問い返す。


「匂い?」


 彼女はベッドから降り、わたしの前で膝をつくと、その両手でわたしの顔を包み込む。


「ああ。わたしの勘が伝えるんだ。こいつは他とは違う――『匂い』が違う、とな。お前はただの子供じゃない。わたしは、お前のその度胸と、あの演奏に敬意を払っているつもりだ。同じ音楽を愛するものとしてな」


 紅子の双眸に、わたしが映っているのがはっきりと分かる。


「真珠。話を戻そう。ハルの演奏をどう思った。音楽家として、対等な立場として、感じたままを答えてくれ」


 それだけ言うと紅子は立ち上がり、腕を組んでわたしの前に佇んだ。


 晴夏の今朝の演奏のことだ――わたしが彼に対して違和感を覚えた、あの演奏。


 心を乗せて弾くことを得意としない彼が、何かしらの想いを込めて弾いたあの――


「あの演奏は――何かを強く求め彷徨うような……大切な何かを掴もうと足掻いて―――暗闇から必死に手を伸ばして光に触れようとする……そんな演奏に聴こえた」


 紅子は、何故かホッとしたような表情を見せると、なにがしかの感情を抑えるために顔を歪ませた。


「そうか。お前にも……そう、聞こえたのか」


 ああ、よかった――とでも言うように、彼女は後ろのベッドにドサッと座り込み、後ろ向きに倒れて仰向けになった。


 そして途端に、堪えきれずに笑いだしたのだ。

 その瞳にうっすらと涙を浮かべて。


「わたしの希望が見せたものではなかったということか。……これで、決まりだ」


 そんなことを呟きながら、ガバッという効果音がつくような勢いで起き上がった。


「真珠、お前への頼みだが――『クラシックの夕べ』最終日にハルと一緒に弾いてほしい。Bach Doubleだ」


 Bach Double――正式には『Concerto for two violins in D minor BWV 1043』

 日本名では、『ふたつのバイオリンのための協奏曲』――


 バイオリニストであれば弾けない者はいないのではないかという、三楽章にわたる名曲だ。


 紅子は、慈愛に満ちた聖母のような笑顔をわたしに向けている。


 すべてを焼きつくす劫火のごとく、今日のたった数時間でわたしの心を何度も焦土にし続けた彼女が、こんな笑い方をするのかと驚き、何度も瞬いてしまう。



「弾けるか?――いや、愚問だな。お前は弾ける」



 ――勿論、弾ける。


 この曲は、伊佐子がバイオリンを習い始めた幼少の頃、いつかこの曲を弾くんだ、と目標にした憧れの曲でもある。


 目標に到達してからも、弾く機会が何度も訪れ、何百回も――いや、それこそ何千回と弾いた。

 第一バイオリンも、第二バイオリンも含めて暗譜という域ではなく、もう身体全体に染みついた――わたしを形づくる一部だ。


 晴夏は、今朝セカンドパートを弾いていた。


「わたしがファーストバイオリンね。分かった――あ、でも全楽章は無理。第一楽章のヴィバーチェのみでお願い」


 そう伝えて、わたしは紅子に自分の手首を指さす。


「腕――手首を痛めているのか……あのコンクールの時の演奏のせいか?」


「そう。そんな感じ。でも早乙女教授からは無理しなければ弾いてもいいって言われている。ファーストムーブメントだけならイケる」


 わたしのその科白に、紅子が目を大きく開いた。


「お前、功雄に師事しているのか!? 美沙子は何て!? ……ああ、いや、この話は別にしよう。今は、こちらの話をまとめるのが先だ」


 紅子が母の名前を出し、その後独り言のようにブツブツと呟く。


 母が、どうしたというのだろう。

 気にはなるが、今は晴夏とのデュオについて話さなくてはいけない。


 最終日は今週の土曜日――当日は朝から終日、チャペル『天球館』が解放される。


 近隣の学生に婦人合唱団、時には飛び入り参加もあり、非常に賑やかな演奏会になる。

 チャペル前にはテントが張られ、立食形式の食事もふるまわれる。活気のある一日だ。


 今日がお盆の中日。

 練習時間は、今日を含めて3日。

 コンサートの時間帯を考えると、かろうじて3日と半日。


 ハルは、大丈夫だ。

 今朝のあの演奏は、音程もリズムも既に完璧だった。


 この年齢で、あれだけの演奏をできる子供はなかなかいない。

 ただ問題は、わたしと呼吸を合わせることができるか――だ。


「紅子、質問がある――ハルに、アンサンブルの経験は?」


「残念ながら、正式なものはない――ハルと同じ域で演奏できる子供が周りにいなかった」


 わたしは腕を組んで、しばらく考える。


 ソロではなく、複数人と一緒に弾くアンサンブルは、経験がないと呼吸やタイミングを合わせるコツを掴むのが難しい。


 晴夏にその経験は、無し、か――


「紅子、わたしはリードしない。ハルの演奏に合わせて弾く。だから上手くいくか、いかないか――すべてハル次第。それでもいい?」


 紅子は、わたしに飛びついて、急に抱き上げるとクルクルと回転した。


 視界が急に高くなり、本当にビックリした。


「勿論だ。受けてくれるか? それは良かった!」


 そう言ってから、彼女はわたしの頬にキスをする。

 口紅がついた。


「真珠。『匂い』が告げるんだ、お前なら大丈夫だと――ハルを救い出してくれると」


「救う?」


 紅子は「すまん、すまん」と言いながら、わたしの頬についた赤い口紅を落としてくれる。


「何がハルの救いになるのかは正直分からない。あいつが何を望んで、つかもうとしているのかも。

 わたしは人の心を慮るのが苦手だ。それは自覚している。

 もしも、ハルがお前に何か語ったとして、わたしに伝えてもよいと判断したら、ぜひ教えてほしい。

 わたしは知りたいんだ――あいつの目にうつる世界が、今はどんな色になっているのかを」


 紅子の言っている意味は、なんとなく分かるような、分からないような――ボンヤリとした意味で捉えるしかできなかった。


 けれど彼女は、母親として晴夏に対して何かをしてやりたいと思っている、それだけは分かった。



「真珠、ありがとう――ハルは、お前のあの演奏を聴いてから、変わった。何もうつそうとしなかった目に、光が生まれたんだ。

ただ正確さだけを求めたハルが、心に光を灯し、演奏に微かな息づかいが生まれた気がした。

 だが、親の願望や欲目が見せる幻かと、判断がつかなかった」


 そういうものなのだろうか。

 日本を代表するピアニストである彼女でも判断がつかないという、音楽に関する感覚など存在するのだろうか。


 わたしが不思議そうな顔をしているのに気づいた紅子が言う。


「まだお前には分からないだろうが、親というのは――母親と言うのは、自分の子供に対しては時に盲目になるもんなんだよ。お前にも、いつか分かる」


 穏やかな暖炉の火のような母性を宿した瞳で語る彼女は、とても慈愛に満ちていた。


 初めて会った時の印象とは全く違う、いつくしみに溢れる美しい面影が印象的だった。




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