第25話 【閑話・月ヶ瀬穂高】真珠と貴志と「伊佐子さん?」


 朝、まだ早い時間。

 珍しく憂鬱な気持ちで目が覚めた。


 昨夜、僕は美沙子さんの弟・葛城貴志さんに初めて会った。



 とても背の高い人で、笑顔が優しくて、でもどこか危険な香りがして、今まで会ったどんな大人よりも格好良くて、こんな人が世の中にいるんだ、と心底驚いた。



 その人は、和室で祖父母に手をついて今までのことを謝罪した。




 自分の非を認め額づく姿をみて――ああ、これが本当の「男の潔さ」なんだと、この人が「男の中の男」なんだと、密かに憧れた。




 真珠は、初めて会う貴志叔父さんに興味津々だ。食事中もずっと、チラチラと様子を伺っている。


 男の僕でも、貴志叔父さんを格好良いと思うんだ。真珠がそう思っても仕方がない。



 真珠をとられてしまうようで寂しく思いながらも、見守らなくちゃと二人の様子を時々うかがった。




 その会食中に、お祖母さまが「貴志兄さま」と呼ぶことを僕達にすすめた。


 僕が「貴志兄さま」と言おうとして、口に入れた物を急いで飲み込んでいる間に、真珠が一足早く、その名を口にした。


「はい、お祖母さま。貴志兄さま。」


 ――と。




 行儀の悪いことに、僕は動揺して手にしたフォークを落としてしまった。


 けれど、真珠より先に「貴志兄さま」と呼ばなかった自分を、褒めてあげたいと思った。




「お兄さま」と真珠が呼ぶのは、僕だけにしてほしかった。




 ああ、僕はなんて身勝手なんだろうと思ったが、そのままスラスラと科白が飛び出してくる口を抑えることができなかった。


 僕の口はどうしてしまったんだろう。



「叔父上に向かって兄と呼ぶのは失礼にあたります。ねえ、真珠?」



 今まで口に上らせたことのないような、強くて、ちょっと冷たい言葉が止まらなかった。


 本当に僕はどうしてしまったんだろう。




 僕が真珠にそう呼んで欲しくなかっただけなのに、自分の我が儘を真珠にまで押し付けてしまった。

 おまけに、真珠の口元をナプキンで拭いた――どこも汚れていなかったのに。



 昨夜のことを思い返すと更に憂鬱になるので「もう起きよう」と思い、着替えて真珠の部屋に向かう。


 真珠の顔が見たかった。

 けれど真珠は部屋にはいなかった。


 既に目が覚めて居間にいるのだろうか?


 まだ家族は誰も起きていない。




 居間に行くと、浴衣姿の貴志叔父さんがソファの上で寝入っていた。浴衣の前が少しはだけていて、見てはいけないものを見てしまった気分でドキドキした。


 近くで見ても、睫毛が長くてやっぱり寝顔も格好良い。


 僕の気配に気づいたのか、叔父さんが一度眉間に皺を寄せた後 少し枯れた声で 「んん……伊佐子か……?」と言いながら、ゆっくり目を開けていく。

 

 ――ん? 伊佐子さんて誰だろう?


 すこし寝ぼけた様子が、また僕を落ち着かなくさせる。


 これを本当の「目の毒」というのかもしれない。



 僕の真珠に、この如何いかがわしい姿を見せるわけにはいかない。



「おはようございます。貴志叔父さん。よく眠れましたか?」


 僕は笑顔で声をかけた。たぶん笑えていたと思う。


「ああ……穂高か。……おはよう」


 叔父さんはちょっと驚いてから、引き攣った笑顔で僕のあいさつに応えてくれた。



 真珠が居間にもいないことに気づいて、叔父さんに真珠を知らないか? と聞いてみる。


「真珠? ああ……あいつなら……俺の布団で寝てるぞ。まだいるんじゃないかな?」


 そう言って、叔父さんはまた欠伸をした。


 その様子も、何故だかドキドキした。


 この浴衣姿で公共の場に出てはいけない気がする。



 僕は客間として使用している和室に向かう。


 昨夜、木嶋さんが敷いていた叔父さん用の布団の上で、何故か真珠がスヤスヤと眠っていた。


 夜中に寝ぼけて潜り込んだのかな。


「まだ寝てるか? 伊佐……真珠は」


 叔父さんが欠伸をしながら僕の後ろから、ゆっくり和室にやってきた。


 とても眠たそうだ。



「ここで寝るって言うから、俺は居間で寝ていたんだ」



 そうか、一緒に寝ていた訳ではなかったのか。


 叔父さんも困ったのかな。


 でも、僕の心は何故かモヤモヤする。




「叔父さん、真珠のことが好きなんですか?」




 咄嗟に訊いてしまった。


 また口が勝手に動いてしまった。



「はっ? え?」



 叔父さんはびっくりしたような声を挙げた。


 その声で真珠が布団の中で動き出した。



「……ん?……あれ? 貴志は……? んん……。ん?」



 なんだか大人の女の人のような声と仕草で、モソモソと布団から出てきた。


 しかも、叔父さんの名前を呼び捨てにしている。



「ばっ……伊……じゃない、真珠っ 寝ぼけるな」



 叔父さんが、ちょっと慌てたように真珠のそばに寄った。


 眠たそうにしていた叔父さんも、突然目が覚めたみたいだ。



 僕は固まってしまった。

 ―――これは、由々しき事態だ。



 昨日の夜、真珠が叔父さんのことを気にしていたから、もしかして、兄である僕よりも叔父さんのことを好きになってしまったのかな? と寂しく思っていた。



 実は、昨夜ゆうべ、寝る前に自分ひとりで色々と調べてみた。


 僕はしっかりすると決めたから、もう木嶋さんに訊くのではなく、自分で調べていくことに決めたんだ。


 昨夜調べて、初めて学んだ言葉を使ってみた。



「叔父さんは、ロリコンという人種なのでしょうか?」



 真珠と貴志叔父さんが同時にピシッと固まった。



 叔父さんは額に手を当てて、はぁ~と疲れたような溜め息をつき。

 真珠は「お兄さま、どこでそんな言葉をっ」と、口元に両手を当てて涙目になっている。


「あ~……穂高。それはないから。大丈夫だから」


 ははは……と疲れたように、渇いた声で叔父さんは笑う。



「じゃあ、寝起きに寝言で言っていた、伊佐子さんて誰なんですか?」


「はっ?」

「ほへっ」


 今度も叔父さんと真珠は同時に声を挙げる。


 叔父さんはちょっと焦っていて、真珠は怪訝な顔で叔父さんを見ている。


 お互い顔を見合わせて、なんだか気まずそうだ。



「言えないような人なんですか?」


「子供の直球は、こわいな……」


 叔父さんが真顔でそう呟いている。


「伊佐子っていうのは……、それは……」


 叔父さんは口籠って、チラッと一瞬、真珠を盗み見たのを僕は見逃さなかった。


「お兄さま、それはわたしのことなんです。実は浅草で迷子になった時に、叔父さまが迷子か?と心配して声をかけてくださったんです。でもその時は知らない方だったので、本当の名前を……月ヶ瀬の名前を伝えず、咄嗟に名乗った名前なんです」


 そうなのか。真珠は、そんなことを咄嗟に判断して伝えたのか――さすがだ。


 僕の妹は可愛いだけじゃなくて、賢い。



 「嘘をついてはいけません」と大人はよく言う。



 大人の言う「ついてはいけない嘘」と言うのは、人を傷つけたり、悲しませたり、立場の保身のためにつく嘘のことなんだ。今わかった。



 自分の身を危険から守るため、大切な誰かを守るためには、時には必要なことなんだ―――




 僕も将来、何かを守るために嘘をつくのかもしれない。




 その時は、きちんと胸をはって誰に恥じることなく、立派にそれを成し遂げようと思った。



 だって、それは誰かを――大切な人を守るために必要なことだから。



 そして、気づく。


「あれ? じゃあ二人は以前出会っていたということですか?」


「ああ、浅草寺でな。」

「はい! 浅草寺で。」


 また二人が同時に答えた。

 仲が良くて、ちょっと嫌になる。

 ああ、僕の心はどうしてしまったんだろう。


 だから真珠は昨日叔父さんを見て、会ったことのある人だと気になってキョロキョロしていたのか。



「あれ? じゃあ、どうして寝言で真珠の嘘の名前を?」


 貴志叔父さんは、また右手を額に置いて、今度はそのまま天井を見上げた。



「子供の『なんで?どうして?』攻撃が、これほどの威力とは……」

「ええ……、本当に……」



 二人の呼吸は今度もピッタリだった。



「真珠、昨夜は叔父さんに何か酷いことされなかった?」


 意地悪されたりとか、髪を引っ張られたりとか―――


 僕は心配になって、またスラスラと叔父さんを疑うようなことを言ってしまった。


 二人の動きが、今度は氷みたいになった。


「だっ……大丈夫……でし……た?」


 真珠が急に真っ赤な顔になり、叔父さんをチロッと一瞬だけ見て、サッと目を逸した。

 叔父さんは軽く咳払いをして、僕から顔を背けた。


 僕のうかがい知らない何かがあった気がする―――



 今日、真珠と叔父さんは一緒に出かけるらしい。僕も一緒に行って真珠を守らなければ―――



 今はまだ大丈夫だ。


 でも、きっと近い将来――


 僕は、叔父さんの魔の手から真珠を守らなくてはいけない――


――何故だか分からないが、そんな気がした。




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