第26話 【真珠】慟哭と一歩


 中央線の改札を出て、駅ビルへと続くエスカレーターを上がっていく。


 背中には黒い布張りの小さなバイオリンケースを背負い、葛城貴志がわたしの手を引いている。


 穂高兄さまは駅構内を興味津々のていで見まわしてから、わたしたちの後に続いた。


 兄はいつも榊原さんの車で移動しているので、電車を使用することが滅多にない。


 前回、上野浅草間を移動した時は疲れていて、楽しむ余裕が無かったのだろう。

 今日は、その時とは違って体力にも余裕があり、全てが新鮮に見えるようだ。


          …


 貴志との外出前に、母・美沙子とひと悶着があった。


 わたしがコンクールで使っていたバイオリンを彼女が隠していたからだ。


 コンクール終了後、尋問されるのではないかと恐れていた私の「あの」演奏―――実は、母からは全く問いただされることはなかった。


 演奏中に倒れて、大変な状態になっていたので、それが原因か? とも思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。


 あの演奏をその場で目撃していたのは、家族では母と兄のみ。

 だから二人から何か質問をされない限り、何も言わなくてよいのでホッとしていた―――何か釈然としないものを感じつつも。


 今、わたしは1/8(八分の1)サイズの分数バイオリンを使用している。


 そのバイオリンをコンクールで使用して演奏中に倒れたのだ。


 衝撃が加わって破損の可能性があったため父が弦楽器工房へ調整に出してくれたのは、わたしが入院中のこと。


 すぐに戻ってくると思っていたバイオリンは未だわたしの手元に戻らず、毎日の音階練習には以前愛用していた1/10サイズを使っていたのだ。


 身体に合わないサイズを使用すると違和感が出るので、ここ数週間は集中的に練習に取り組むことができず、物足りない思いをしていたのだが――まさか母が引き取ったまま何も言わず、保管しているとは思いもよらなかった。


 貴志が祖母からその話を聞き、彼が母に問い詰めたところ、わたしの手元にジャストサイズの分数バイオリンが戻った。


 早乙女教授という母の恩師のところへ、わたしと穂高を連れて行く――貴志が母にそう告げると、母は「そう……」と呟き、その後は何も言わなかった。


 兄もわたしも母のその態度が気になったものの、貴志に連れ出され――そして、今に至る。


          …


「ちょっと手土産を買ってから行くぞ。穂高、真珠の手をつないで二人でここで待ってろ」


 貴志がデパートの地下で菓子折りを選んでいる間、わたしと穂高兄さまは、その近くの休憩用の椅子で座って待っていた。



 貴志の姿を目で追う――彼が歩く先々で、立ち止まる人、振り返って二度見する人、デート中のカップルだろうか? それさえも彼に目が釘付けになる。


 カップルの片割れの女性のみならず男性までも――凄まじい魅力としか言いようがない。


 洗練された立居振る舞い。

 それに加え、あの容姿だ。


 お菓子売り場の売り子のお姉さんは、ポーッとしてしまい仕事になっていない。かわいそうに。

 彼は歩く公害ではないかと思う。


 そしてこちらにもチラチラと多くの視線を感じる。


 それはそうだろう。愛くるしい穂高兄さまがこちらにおわすのだ。


 ひかえおろう~! と印籠を出したいくらいだ。


 その美少年ぶりに「はは~、恐れ入りました」と言ってひれ伏したくもなろう。


 攻略対象二人は、そんじょそこらにはいない極上品だ。


 何度も見て、その目に焼き付けたくなるのは、わたしでも分かる。充分納得だ。


 穂高兄さまは、たくさんの通行人から注がれる視線を避けるように繋いだ手を引いて、その身体の影にわたしを隠した。何故だ。


 貴志がこちらに戻ってくるほんの十数メートルの間に、綺麗なお姉さん数人からお誘いを受けていて、「ほう、これが大人の魅力か」と感動すらした。


 わたしとお兄さまが側にいなくなるだけで、こんなに声をかけられるのか。凄まじい。


          …


 早乙女教授というバイオリンの先生のお宅は、駅から徒歩5分ほどの場所にあった。


 細い路地が入り組んだ閑静な住宅街のため、車で来るよりは電車の移動のほうが確かに便が良さそうだ。


「ああ、葛城クン、それに穂高クンに真珠クン良く来たね」


 呼び鈴を鳴らすと、人好きのする相好の初老の男性が出てきた。


「早乙女教授、今日はお時間を取っていただきありがとうございます」


 貴志はそう言って頭を下げる。


 穂高が何かに気づいて、慌てて貴志の隣に並ぶ。


「あっ あの、コンクールの時は、お世話になりました。ステージで動けないところを助けていただいて、本当にありがとうございました」


 兄はそう言ってから、貴志と同じようにペコリとお辞儀をした。


 わたしも二人にならって、深々とこうべを垂れ挨拶をする。


「本日は、お招きありがとうございます。お邪魔します」



 部屋に通されると、グランドピアノが目に入った。


 その奥の壁一面が本棚になり、ずらりと音楽関係の教本や雑誌、楽譜の数々、それから録音されたテープだろうか年代物が並び、レコードにCDと、数々のものが収められている。


 その足元には、本棚に入りきらない楽譜の山がいくつもあった。


 ソファをすすめられ、貴志がそこで持参した菓子折りを手渡す。


「ああ、お気遣いありがとう。わたしの好物を覚えていてくれるとは、嬉しいねぇ」


 嬉しそうに受け取る姿は、好々爺そのものだ。


「そうそう、真珠クン。コンクールは課題曲ではない曲だったことと、途中棄権の扱いになってしまったので、結果は残念だったね」


 わたしはペコリとお辞儀だけを返す。

 なんと答えて良いのか分からなかったのだ。


「葛城クン、さっそくだけどね、そのコンクールのビデオを見てみようか。君たちも一緒に見るかい?」


 わたしと兄はコクリと頷いた。


「はい。よろしくお願いします。」



 見るのは、何故かとても怖かった――前世に引きずられるような気がしたから。



 けれど、今この二人と一緒に見なければいけない――どうしてそう思うのだろう。


 理由は分からないが、自分の気持ちに従った。



          …



 早乙女教授は準備を終えると、コンクールの映像を流し始める。



 緊張した足取りで、ステージに進んでいく子供――動きが止まり、しばし動かず、会場がざわざわとし始める。


 頼りなげな様子で佇むその姿――5歳の真珠だ。


 下を向いていた彼女が、急に動き始める。


 手先足先までピンッと張った緊張感を漲らせ、自信に満ち溢れた微笑をたたえ、深々とお辞儀をする姿――その顔は、目は、動作は、今まで心細そうにしていた子供の真珠とはまるで違う。



 ああ、わたしはこの時に、真珠になったのか――そんな思いでそのビデオに見入る。



 演奏が始まる――初音は重音だ。


 フォルテシモでたっぷりと響かせ、重音のまま速弾きのパッセージへと移行する。



 ああ、やはり……心が乱れる――もう大丈夫だと思っていたのに。



 この曲は、両親から、弟から、恩師から、友人から、すべての仲間からの愛情が詰まった――思い出の曲なのだ。本当は、ここから伊佐子の人生は更に開けていくはずだったのだ。




 嵐だ。



 今まで感じたことのないほど、大きな感情のうねりがわたしを襲った。




 溢れる涙が止まらない―――この曲が胸の慟哭を引き起こす。



 心の震えが止まらない―――いまは遥か遠い場所に、ひとりいる心細さに。




 わたしはこのビデオを見続けることができそうもない――苦しい。悲しい。息ができない。



 ひとりで、自分の足で立つと決めたのに。それなのに―――



 ああ―――溺れそうだ。


 誰か助けてほしい!


 心細くて消えてしまいそうだ!


 誰か……。




 その悲痛な心の叫びにくずおれそうになった――その瞬間。




 ――貴志がわたしの頭を抱き寄せ

 ――穂高がわたしの手を握りしめた。




 二人の想いと、その伝わる熱に守られる―――



 刹那――狂おしいまでの熱い想いの塊が、急流のようにわたしの心の慟哭を押し流していく。



 悲しみを洗い流す奔流のようだった熱が、穏やかで暖かな流れにかわり、温もりが心の中にとめどなく注がれていく。


 徐々に徐々に、緩やかな時間が過ぎ、冬を超え、ようやく芽吹き始めた若葉が歓喜に打ち震えるように、体が呼吸を始める。



 心の叫びは、いつのまにか止み、あたたかい優しさに包まれているのがわかった。



 二人の体温を近くに感じる。


 とても大切な宝物のように優しく触れる、二人の腕が、手が――傷ついた心を労い癒やしてくれることを、その肌で感じる。




(ああ……わたしはもう……、『この世界』でひとりぼっちじゃないんだ―――)



 いま流している涙は、悲しみからくるものなのか。

 それとも喜びから生じたものなのか、判別は全くつかないけれど―――



 ようやく『この世界』に根をおろせた――



 やっと、ひとりで佇んでいた暗闇から、一歩抜け出せた――わたしの隣には、この二人がいてくれる。


 

 二人がいるから、歩き出せる。



 いつか、その足でひとりでしっかり立てるまで――

 それまでは、まだ誰かを必要としても良いのかもしれない。



 何故か、そんな気がした。



          …



 ひとしきり泣いた――


 その映像が終わったことに気づいたのは、暫しの時間が経過してからだった。




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