第23話 【葛城貴志】大人の密談
都内は今夜も熱帯夜だ。
居酒屋のカウンター――生ビールで乾杯し、そのまま一気に
外気で火照った身体に、ほどよく冷えた酒精が喉を伝い、身体から熱を奪っていくのが心地よい。
「ああ、貴志くん。この前は本当に助かったよ。急な欠員で困っていたからね」
「いえ。
「そういえば、葛城クンはまだ帰国して間もないんだろう? 時差ボケの調子はどうだい?」
「そうですね、少し怠さは残っていますが、今回はそれほど酷くなくて助かっています。
「ボク? ボクは大丈夫よ。国内だし、あっちは涼しかったからねぇ。都内に戻ってきて、この暑さにビックリしちゃったくらいだよ」
世間話をしながら中学時代のチェロの恩師――利根川
二人揃って音楽界では、その名を知らない者はいないだろう名奏者であり指導者だ。
都内の楽団でコンサートマスターとプリンシパル・チェリストとして活躍後、現在は二人揃って、それぞれ音楽大学で教鞭を執っている。
先日、浅草寺近くのホテルロビーで開かれた室内楽コンサート。その代理演奏のお礼にと開かれた食事会は、俺の日本滞在日程の関係で急遽翌日の夜開かれることになった。
急なセッティングだったので他のメンバーは不参加となり、旧交のあった恩師二人と、お互いの現況報告の時間となった。
「いや〜、ボクね。この前、久しぶりに美沙子クンと会ってね。もうお子さん、あんなに大きくなってたのね、と驚いたのよ。穂高クンと真珠クン、だったっけ? 君は会っているの?」
姉・美沙子の子供。生まれた時に写真が送られてき程度で、まだ会ったことはない。
「ああ、早乙女先生、彼は中学時代から家を出ていまして、その……おそらく交流はあまりないかと……」
利根川教授は、中学時代の家庭の問題で俺がスタジオを辞めてからも、何かと気にかけてくれる。
俺の事情も知っているため助け舟を出してくれたようだ。
「ああ、そうなの。それは済まなかったね。悪いことを聞いちゃったかな」
早乙女教授がお酒の入った顔で、申し訳なさそうに謝る。
「いえ。実は明日、実家を数年振りに訪問することになりまして……、甥と姪に会うのは初めてなので、実は少し……緊張しています」
俺のその言葉に、利根川教授が嬉しそうに破顔すると、「それは良い報せをありがとう」と、自分のことのように喜んでくれた。
「詩織が……うちの家内が、君の姪御さんのバイオリンを教えていてね。とても可愛い子だよ。」
「詩織くん……香坂詩織くんか、懐かしい名前だねぇ。彼女、ボクの教え子のひとりなんだけどね。そうかい、そこで習っていたのかい。で、その後あの子は大丈夫だったの? ほらこの前のコンクールの、もの凄い演奏。途中で倒れて驚いたけど、あれは神がかっていたよ。未就学児の部とは思えないものだったねぇ。詩織くんも、すごい生徒を育てたもんだね。鼻が高いでしょう」
お酒を飲んで
反して、利根川教授が言葉に詰まる。
「いえ、それがですね。家内が言うには、あの演奏は何かの間違いじゃないかって言うんですよ。まだあそこまでの演奏をできる段階でもなくて、まだまだ身体が作られていないってね。何処か身体を痛めていないかと、そちらを心配していまして……」
「そうなのかい? それはどうしたもんだろう」
「即興で弾くのも勿論、あんな難易度の高い曲を弾きこなすことはできないらしく……ちょっと心配でしてね。その後、月ヶ瀬家に連絡を入れてはいるのですが、お母さんの美沙子さんからは返事がなくて、お祖母さんも対応できずにいるようなんです。コンクール後に家内も学生の海外引率で日本から離れていましてね。実はまだ会えていないんですよ」
早乙女教授は「う〜ん……」と唸ってから座席にもたれ、腕組みをする。
「それはまた……不思議なこともあるもんだねぇ。まあ、世の中、結局すべて不思議なことだらけだからね」
俺は串焼きを食べながら二杯目の
この二人にそうまで言わせるとは、美沙の娘は相当な実力を持っているようだ。
ふと、昨日の夜、浅草寺で出会ったあの少女を思い出す。
伊佐子――不思議な少女だった。彼女もバイオリンを弾いていたと言っていたな。
幼い外見ながら、俺より年上だと言っていた。
チェロを弾く弟がいて、俺のことを「年子の弟と同い年だ。あなた、わたしからみたら弟みたいなものね」と楽しそうに笑っていた。
「ねえ、キミ、葛城クン。明日、その姪御さんに会ったら、彼女がどの位弾き込んでいるのか確かめて来てくれないかい? あの才能を埋もれさすのは忍びない。まあ、美沙子くんの意向もあるから、無理強いはできんがね」
早乙女教授に、ここまで気にかけてもらえる演奏とは一体どんなものなのだろう。
俺はその姪の実力とやらに、かなりの興味が湧いていた。
「はい、わたしもお二人にそう言われる姪の演奏に興味がありますので、できる限りのことはしてみます。ちなみにその音源は?」
教授二人が顔を見合わせる。
「それがね、あのコンクール、大部分が月ヶ瀬グループからの寄付金で成り立っているものでね。今回、貴志くんの姪御さんが倒れられたこともあって、映像の一般公開が禁じられているんだ」
利根川教授の発言を受けた早乙女教授が、何かを思いついたのか急に手を叩いた。
「あ! でも葛城クンは身内でしょう? 見せても問題ないんじゃないかねえ。明日は、キミご実家に行くんでしょ? 明後日なら、ボクはスタジオにいるから、都合つくようだったらおいでよ。見せてあげられるから。」
早乙女教授の申し出に、俺は素直に頷いた。
その神がかっていた演奏を、この目で、耳で、聴いてみたいと思った。
…
翌日、夕方過ぎに実家へ向かった。
以前姉から聞いていた家族関係とは、全く違う現状に驚き、そのきっかけは姪からはじまったことを知った。
真珠――いや伊佐子が、美沙の娘だったことに驚いたが、今日の様子は先日とは全く異なっていた。
浅草で会った伊佐子は、鮮烈な印象を俺に残したのだが、今日のあいつは何処か幼さの方が目立ち、こちらをかなり気にしているのが手に取るように分かった。
――この印象の差は何なのだろう。
俺のことを、知っている――のは間違いない。が、あの伊佐子なら、もっと平然としていてもおかしくない。
とりあえず、本当のところは分からないが、問い正したとしても、伊佐子ならスルリと俺のことを
今の様子であれば、
夜。両親と姉夫婦と大人だけの時間を過ごしたのだが、そこで美沙に気になっていたことを聞いてみた。
「なあ、美沙。真珠は英語、どこで習っているんだ?」
食卓には、父好みの日本酒が並ぶ。
俺は、父が皇居参観で手に入れたという、限定の純米大吟醸を静かに呑み干す。芳醇なかおりが鼻から抜け、喉越しも爽やかだ。
姉は、意味が分からないというような顔をする。
「英語? 穂高には習わせてはいるけど、真珠はまだよ。どうしたの?」
「いや、ちょっとな……子供の外国語教育に興味があっただけだ」
俺はそう答えて、次の酒を新たに継ぎ足す。
「ねえ、ちょっと待ってよ。貴志、まさか変な女に
「はっ?」
何故、そうなるのか分からずに思わず眉を顰めていると、美沙が口を開く。
「貴志、自覚はないかもしれないけど、あなた顔だけは良いから。姉として心配しているのよ。わたしがそれでどれだけ大変な思いをしたことか……」
そう言って、遠い昔のことを掘り返してくる。
たしかに姉には苦労をかけた。
中学生時代、同級生や何故か高等部の女子学生たちが、学校に俺を迎えに来てくれた姉に詰め寄ったのだ。
「わたしたちの貴志くんを誑かさないで」と、校門でひと騒動が起き、なかなか収拾がつかない騒ぎが起こった。
後に美沙が俺の姉だということが知れて、「似ていなかったから、気づけなかった」と平謝りされたことがあった。
すっかり忘れていた思い出がよみがえる。
「貴志の年上の恋人と勘違いされて、年増のババア呼ばわりされたりと散々だったわ。かなり傷ついたんだから。まだ20代前半の頃だったのに」
その時のことを思い出したのか、姉はブツブツ言い始める。
「本当に悪かったと思ってる。俺と美沙は似ていないからな。勘違いされたんだろう」
俺は再度謝って、子供の言語教育について興味があるのは、そういう――俺に子供ができたということではない、と伝える。
相変わらずそそっかしい美沙に苦笑した。
まだ学生だ。当たり前だろう。
それに――共に生きたいと思えるほどの人間に、巡り合ったことはなかった。
人との関わりに興味が持てなかった自分が、人の親になるなど考えも及ばない。
――何故かこの時、伊佐子の瞳が
…
夜半、シャワーで汗を流してから和室の縁側で月を眺めた。
先ほどの美沙との会話を思い出す。
『英語? 穂高は習わせ始めてはいるけど、真珠はまだよ…。どうしたの?』
そうか。それなら、やはり伊佐子の言ったことは――半ば信じがたくもあるが、紛れもない事実なのだろう。
浅草寺での俺との会話。
伊佐子は気づいていなかったようだが、彼女は英語をたくみに操っていた。
生まれて五年で、あそこまで流暢な英語を話せるとは思えない――しかも、海外に出たことも、英会話を習ったことさえない子供が。
そんなことを考えていると、廊下が軋んだ。
振り返ると、伊佐子――いや、真珠がそこにいた。
(やっと来たか……)
そんな思いで、彼女を部屋に引き入れた。
――そう、調べなければいけない事があるのだ。二人の教授に頼まれたことを。
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