第22話 【真珠】真夜中の秘事
「伊佐子……? いや? 今日のお前は、やっぱり真珠なのか?」
わけの分からないことを言って、貴志が訝し気に私を見下ろす。
今の私は真珠だ。
それは紛れもない事実。
その気づきたくなかった真実を教えてくれたのは――あなたの目だった。
ふと気づく――浅草寺で、この人の前では、何に遮断されることなく伊佐子の精神に戻っていたことを。
日中、仲見世商店街で子供時代の心が混同した伊佐子の心ではなく、生前の22歳の伊佐子そのものの感覚だった。
そう、あの時は――貴志との不思議な時間は、真珠という限界枠を飛び越えて、心も精神も伸びやかに、その手足を自由に羽ばたかせていた。
何故だろう。
この人と二人でいるときは、どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。
貴志が訪問してから感じていた八つ当たりしたい気分も、イライラとした自分勝手な思いも、スッと冷え込み、冷静な自分に戻った気がする。
とても、心が楽になる。
何とも言えない感覚だった。
「ああ……、そうだ。いい子だ。その目だ。伊佐子、やっぱりお前だ」
貴志の言葉に、わたしは夕食中に決めた「知らぬ存ぜぬ」で誤魔化すことを諦め、フッと溜め息をついた。
「葛城貴志――あなたは、あの話を信じるの?」
そう、わたしが浅草寺で彼に語った内容だ。この世のものならぬ者として、語った話――「前世」とは言わなかったが、伊佐子の話だ。
「ああ、信じるさ。他ならぬお前の言った言葉だ。まさか月ヶ瀬の一員だとは思わなかった」
そう言って少し自嘲的に笑う彼は、敷かれた寝具の上にドサリと座り込んだ。
「どうして、今日は何も言わなかったの?」
わたしは気になって質問してみた。
「何か、言って欲しかったのか?」
貴志は、おかしそうに笑いながら問う。
わたしは首を横に振った――言って欲しくなかった。両親や祖父母には知られたくなかった。
でも、真珠の中に眠る幼い顕示欲は「わたしは貴志叔父さんと知り合いなんだよ」と家族に自慢したかったのも事実だ。その心のギャップを抑えるのが辛いのだ。
「お前は、俺が追いかけたら、逃げるだろう?」
ドキリとした。そうだ。何か言われたら「記憶にない」と白を切るつもりだった。
「だから、放っておいた。そうすれば、お前は自分から飛び込んでくると思ったからな。そう……今みたいに。だから、やっと来たな、と言ったんだ。待っていたよ」
わたしの行動はすべて読まれていたようだ。
貴志がポンポンと自分の隣――布団をたたいて、ここに来いとわたしを呼ぶ。
いくら自分が子供の身体をしているとはいえ深夜――若い男の布団の上に行くほど愚かではない。
正直、戸の閉じられた部屋の中に二人きりでいること自体もどうかと思う。例えそれが親類だとしてもだ。
自分の判断力も今は、彼と二人でいる時だけは「前世」に戻っているのだろうか。
貴志と一緒に夕飯を食べている時の、いや、この部屋の中に入る直前までの真珠だったら、そのまま何も考えず迂闊にも隣に飛び込んだことだろう。
わたしは再度頭を横に振った――そこには行かない、の意思表示に。
「それは残念」
そう言って貴志は笑った。
わたしが少しホッとしたのも束の間、彼の手が急にこちらに伸びてきたとおもったら腰に回され、そのまま布団に仰向けに倒された。
「……動じないか……」
と言って、面白そうに貴志が上からのぞき込んでくる。
――いや、そんなことは全くない。
――実際、ものすごく動揺している。
けれど、何があっても動揺しない――ステージ上で鍛え上げられた精神は、ここのところ全く働いていなかったくせに、この押し倒されているこんな場面で急に活動し始めたのだ。
なんだかこういったシチュエーションに、もの凄く慣れている女みたいで嫌だ。わたしはピクリと眉間に皺を寄せる。
「なるほど……」
貴志はそう呟くと何事かを考えるように、わたしの上から身を起こし、そして隣に座りなおす。
何拍も遅れて、自分の心臓が、急激に跳ね上がった。
貴志がわたしの上から退くまで続けられた体勢を実感して、急に気恥ずかしくなったからだ。
「な……ななな、なにを?!」
ようやく追いついた思考と、現在の事態に、慌てて布団から起き上がる。さささっとそこから降りるつもりで動いたのだが、腰が抜けそうになって、うまく動けない。
「ああ、悪い。ちょっと確認したいことがあって……な」
思案顔でそう答える貴志は、今度はわたしの頬に手をあて目をのぞき込んできた。
次いでわたしの手を取り、左手の指先に触れて何かを確かめると、今度はこの腕にその手を這わせていく。
彼の触れ方に、男女の機微をにおわせるような色はない。
おそらく彼の意識は、今のわたしを生物学上の女として見ていない。
確かめるように、ひとつひとつ何かを見極めながら触れていくのだ。
貴志の眼差しには、全く下心はない。
それは分かっているのだが、情けないことに異性と触れ合った経験のかなり乏しいわたしの心は嵐だ――本当に困るのだ。
慣れていないのだ。こういったスキンシップに。
この手のやり取りの経験は、おそらく中学生以下だろう。
顎に手をかけられて、クイッと上に向けられる。
わたしの目を確認するような眼差しで見詰められた後――彼の顔が何かを探すように、わたしの左肩に移動していく。
首に息がかかる。
「悪い、少し首に触るぞ」
そう言って、彼の指先が左の首筋をなぞった。
ぞくぞくと痺れるような感覚に、目の前がチカチカとした。
「なっ……、やめっ くすぐったい……!」
身体の奥底から湧き上がる感覚に耐えられず、貴志を突き放したが、彼はずっと心ここにあらずという顔で何事かを考えている。
「やはり、無い……か」
彼は口元に手を当て、そんなことを呟いている。
「なに? なにがしたいの?」
羞恥で涙声になっている自分に気づく。
ハッと我に返った貴志が、慌てる。
「悪い。ちょっと確かめたいことがあったんだ。集中しすぎて、その……色々と気づけなかった。すまない」
わたしは胸元の寝間着をぎゅっと握りしめ、ワナワナと手を震わせた。顔もおそらく真っ赤だろう。
「こ……子供の身体だと思って、不躾に触らないで!」
そう言うのが精一杯だった。
何かしらの目的があっての一連の行動だったようだが、自分が何をしてきたのか今更ながらに気づいたようで、彼はかなり気まずそうにしている。
「あー……と、その……本当に……すまなかった」
子供相手だから済まされる、、、いや、済まされるのか?
もし、大人の女性相手だったら、かなり際どいことをしていたのではないか。
医師やフィジカルトレーナーならまだしも―――だ。
精神と身体のギャップに耐えられず、わたしは身動きがとれない布団の上でぎゅっと蹲った。
「伊佐子、明日は何か予定はあるか? ちょっと連れていきたいところがある。」
「今みたいな、変なことをしないと約束するなら行っても良いけど、するなら行かない」
「いや、確認したいことは終わったからもう何もしない。今日は、な」
貴志はそう言うと、わたしの頭を撫でた。
緊張と羞恥心で、精神はハッキリと覚醒しているのだが、何故か急な眠気が突然襲い、大きな欠伸が出始める。
こんな状況で……と、自分の意識を必死に保とうとするが――
体力はやはり五歳児だ。
眠さにはどう抵抗しようとも、勝てない。
「……急に……眠く……なってきた……」
「おい待て! ここで寝るな。それは……困る」
わたしは眠りの渦に巻き込まれながらも、少し意趣返しをしたくなった。
「もう……ここで……寝る」
貴志は、困ったように笑う。
「じゃあ、一緒に寝るか?」
そう言ってあの色気たっぷりの笑顔で悪戯っぽくわたしの顔をのぞいてくる。
困ると言ったくせに――ズルい奴だと思いながら、わたしの首はコクリコクリと舟をこぎ始める。
「参ったな……」
貴志は溜め息交じりでそう言ってからわたしを抱き上げる。
ああ、お姫さま抱っこだなぁ、と思い、なんだか無性に嬉しくなって、うふふと笑った気がする。
それにしても、子供って体力無さすぎだ。
ここで寝落ちとは――早く大きくなりたい。
そうすれば心と身体のバランスが均衡を保って、常識的な行動をとれるようになるのだろうか。
幼い心に息づく感受性が激しく揺れ動き、子供の脳の活動限界バランスが大人の精神についていかない。
真珠のなかで目覚めてからの、このどうしようもない不均衡がもどかしくもあり、辛くもあった。
早く、はやく、成長しなければ―――
眠りの森の奥に、貴志のくぐもった声が届く。
「お前が何者でも、俺はお前を守るよ。救ってくれてありがとう。俺を……家族を……。今度は俺がお前を助けるよ。まずは……」
(まずは……?)
額に柔らかな何かが触れる。
ゆらゆら揺れる。なんだか心地良い揺れだ。
(もう……限界だ。本当に……眠い……部屋に……戻らなくちゃ……)
意識の外側で
わたしはまどろみの底へと、ゆっくりゆっくり落ちていった。
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