第15話 【葛城貴志】追憶と葛藤 2


伊佐子いさこ――私は椎葉しいば伊佐子」


 少女というにはあまりに幼い子供は、溢れる涙を拭いもせず、はっきりとした声でそう言った。



 それは、俺が「伊佐子」に初めて出会った時のこと――



          …


 成田空港上空、機体高度が徐々に下がる。


 気圧の変化のため、耳奥に現れた違和感に気づき、耳抜きのためゴクリと唾を飲みこむ。


 隣のシートに固定された黒のチェロケースの様子も忘れず確認した後、座席に身を沈めた。



 フライト中、秘めやかに隠されていた車輪が機体から顔を出し、滑走路へと吸い込まれていく。


 それと同時に、抗うような地面の叫びと、詰まるような圧迫感が訪れ――逆噴射の轟音が飛行機の機内に響き渡った。



 

 キャビンアテンダントに見送られながら、機内からボーディング・ブリッジに足を踏み入れた瞬間――継ぎ目から忍び込んだからみつく熱気に迎えられる。



 外気を肺に吸い込む――夜も遅いというのに、むせ返るような湿気とだるような暑さが体内を巡った。



 何かを予感させる、ほとばしる高揚に――俺は身体をブルリと震わせ、日本の地をその足で踏みしめた。




 本来の一時帰国は来週を予定していたが、夏の出国ラッシュに差し掛かる時期に重なるようで、混雑を避けるため急遽フライト日程の変更をしたのは先週のこと。


 変更できたのは深夜到着便。直前のフライト変更のため経由便を覚悟したが、深夜到着とは言え直行便をとれたのは運が良かった。


 長時間フライトの怠さの中、成田空港近くのホテルへ急ぐ。




 中学時代までお世話になっていたチェロの恩師から連絡をもらったのは、翌日まだ惰眠を貪っている時間帯だった。おそらく母から、俺が日本へ短期間戻ることを聞いていたのだろう。


 電話の要件は、今日開催予定の室内楽コンサートについて。


 メンバーの一人であるチェロ奏者が急病になり参加できなくなったため、到着直後で申し訳ないが代打で演奏に加わってほしい、というものだった。


 場所は浅草。時間は夕方6時。ホテルのロビーでの演奏。


 交通機関のアクセス方法と移動に必要な時間を調べ、問題なく間に合う時間だったため承諾すると、安心した声が返ってきた。


 直近使用するものを機内持ち込みしたトランクに収める。

 残りは大きいトランクに詰めかえ、身軽に動けるようにと滞在先へと配送する。



 演目のパート譜とスコアを俺のメール宛てにファイル添付で送ってもらい、譜面を確認しながら移動。


 楽器工房にもフライト後のメンテナンスに寄り、長旅を終えた楽器の調整をしてもらった。


 日本の湿度で膨張する楽器の魂柱こんちゅう割れを心配し、サウンドポストの様子も確認してもらう。

 必要があれば交換しようと思っていたのだが、今のところ問題は無いとの言葉に安堵した。


 パーツ交換の手間が省け、思いのほか楽器調整が早く終わった。

 予定よりも早く浅草に到着することができそうだ。


 リハーサル開始は午後5時。それまでには、まだ時間がある。


 地下鉄の階段をのぼると道路のむこうに雷門が見えた。


 思いつきで浅草寺へ寄ることにしたのは、本当に単なる気まぐれだった。




 雷門の前で、ふとひとりの子供が目に入った。


 少し明るい色をした真っ直ぐな黒髪。

 アーモンド型の目と切りそろえられた前髪が、意志の強そうな印象を与える。


 周りにいた海外からの観光客が、その少女について「心惹かれるほど美しい」と賛辞を送る声が耳に入った。



 なるほど――確かに、整った美しい顔立ちをしている。



 紺のワンピースと白いボレロが気品を引き立て、この暑さの中にいても、その凛とした佇まいが一際目を引いた。


 彼女の周りだけ、何故か涼やかな空気が流れ、清廉な印象を見る者の目に与える。



 その子供の隣には、どこから持ってきたのであろうか、大きな青い恐竜のヌイグルミが置かれていた。


 少女は飲み物を買っているようで、売り子と何か会話を交わしているようだ。



 ――理由は分からないが、目が離せなかった。



 だが、その子供のことが気になりつつも、俺は当初の目的を思い出し、参道に向かって歩を進める。



 参拝を済ませた後、商店街を歩いていると、恐竜を抱き締めたあの子供がひとりで歩いている姿を目にした。



 少女は土産物店で足を止めると、箸を手に取り、嬉しいような悲しいような、色々な感情がない混ぜになった複雑な表情を浮かべる――子供の筈なのに、子供に見えず、消えてしまいそうなはかなさに、視線を……外すことができないのだ。



(迷子なのだろうか?)


 最初はそう思った。


 けれど、それにしては何か目的を持った行動のように見受けられた。



 誰にぶつかることなく、スイスイと泳ぐように人波を進むその様は、幼子おさなごのものではない。



(本当に人間なのか?)


 自分の頭を疑うが、そう思ってしまうほど、存在自体が異質に見えた。



 そこに存在している筈なのに、現在いまを生きていないような。


 何かを渇望しているけれど諦めているような――その姿は、年相応のものではない。




 何かが揺らいでいるように、誰かに助けを求めているように――そう見えたのだ。




 その不自然なさまに、後ろ髪を引かれつつもリハーサルの時間が間近になったので俺はその場を後にした。




 室内楽コンサート中、演奏の合間になるたび、あの子供の姿が俺の脳裏をかすめる。



 何故だろう。あの何かを吹っ切ろうとする表情が、あの大人びた眼差しが、自分の心をかき乱すのだ。



 ホテルのロビーは高層階にあり、ガラス張りの大きな壁の眼下には浅草寺界隈が見渡せる。



 外が薄暗くなると、天井を覆うシャンデリアにあかりが灯された。

 嵌めガラスにはロビー内の人間だけが映し出され、外の様子は目を凝らさないと見えない。


 短時間のミニ・コンサートが終わりを告げ、恩師とその室内楽メンバーにお礼を兼ねて夕食に誘われた。

 だが、時差ボケを理由に辞退し、また後ほど埋め合わせをしてもらうことになった。




 気になるのだ――あの子供が。



 子供というには、あまりに大人びた、あの儚い存在の少女が。



 もう、いないかもしれない。

 それならそれで構わない。


 急ぎ着替えて、浅草寺へと向かう。


 自分は何をしているのだろう。

 何故、これほどまで、あの少女に惹かれるのか――答えは見つからない。




 けれど――


 俺の心が「急げ」と、足をかすのだ。








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