第3話

 まぶたを開くと、薄暗い天井と照明だけがあった。電気がついてなくてもわかる。わたしは今、自分の部屋のベッドで目覚めたのだ。

 カーテンの隙間から夕焼けがのぞいていること、そしてのどがとても渇いていることから、気を失ってからだいぶ時間が経っているらしい。

 わたしは力なく目をつむる。まぶたに浮かぶのは、調理台に鎮座したジンジャーブレッドの出来損ない。あれを味見したときの絶望感たるや、そう簡単には忘れられないだろう。

 柄にもなく張り切った。その程度のことでわたしに風邪を引かせ、あまつさえ致命的な失敗までさせるなんて、運命の女神様はさぞ無節操で性悪な女に違いない。

「……喜んでほしかっただけなのに」

 ふてくされながら寝返りを打つ。すると、閉じた世界の向こう側に光を感じた。

 小さな刺激が気になったので片目を開いてみる。飛び込んできたのは、ひっそりと明かりを注ぐドアと、その隙間からこちらをのぞくピンクのうさぎの姿だった。

「『モミちゃん大丈夫オーライ? 入るうなよ~』」

「……ルビア?」

「『うさ子だうな』」

「そういえば、そんな名前だったね」

「『うな~』」

 うなうなと猫みたいな声で鳴かされるうさぎと、それをいる飼い主がわたしのベッドへ近づく。いつもは大人っぽいルビアだが、時にはこうしていたいけに振る舞うこともある。

 そんな彼女を熱っぽく見ていた気がして、ほんの少し後ろめたい。

「『ご主人から聞いたうな~。家庭科の時間は大変だったうなね~』」

「でもルビアと別々の班だっただけましかな」

「『どうしてうな?』」

「わたしが作ってたお菓子ね、今までの中で最低の仕上がりだったの」

 恨めしさのあまりルビアから顔をそむける。

「あんなの、食べてもらうどころか味見だってさせられないよ」

「『でも班のみんなはおいしそうに』」

「それでもっ!」潤んだ声を振り絞る。「……ルビアの期待に、ちゃんと応えたいの……!」

 こみ上げる大切な人への熱情。

 せきを切ったようにあふれ出す涙。

 いちに慕っているからこそ、大切な人への贈り物を中途半端にしてしまったことが、悔しくて、悔しくて、悔しくて――。

 それからしばらくは泣いていたように思える。

 頭をさするぬいぐるみの感触や、ルビアの優しい声になぐさめられながら。

「――ごめんなさい」

 あの言葉が演技などではないと、わたしは信じている。


 今朝は自然と目が覚めた。多少のだるさは感じるものの、熱はほとんど引いている。寝返りがやっとだった昨日に比べれば、体を起こすことだってなんら苦ではない。

 そんな調子でベッドから出るべく、わたしは布団をずらす。すると、引こうとした腕に柔らかな重みが絡みついてきた。眠り姫よろしく瞳を閉じるルビアが、わたしの太ももにうつぶせていたのである。

「ずっと慰めてくれたんだね」

 どこか乱れた赤毛を指ですく。寝間着ナイトドレスの肩紐がずれていたから、これも直す。そうするうちに寝息をうかがうような劣情をもよおしてしまい、とうとうわたしは荒ぶる呼吸を整えられなくなっていた。

 このまま白桃のほおに吸いつきたい。

 いやしい行いだとしても、はばかる人目がないのなら、いっそ。

「もう少しだけ、わたしを慰めて……?」

 ルビアの眉に指先を伝わせる。次いでほおへ、首へ、鎖骨へ、肩へ。ぬくもりを確かめるようにねっとりと、時間をかけてなで下ろしていく。

 そうしておうを迎えた指と指をつがわせ、いよいよ額を合わせようとしたそのとき、わたしの目にあるものが留まった。

 雪うさぎを思わせる、耳を生やした白いミトン。

紅絹もみ』のしゅうまで入れられたそれは、まるで我が子のようにルビアの腕の中に抱き込まれていた。

 彼女がここで眠っているのは、自分の時間を慰めに費やしたからではない。一晩中、寝る間も惜しんでミトンを縫っていたからだろう。

「ルビアったら……ほしいなんて、一言も言ってないのに」

 それでも嬉しかった。

 裏地がなく、耳もずれているような、ちっともルビアらしくない出来映えだとしても。

 胸がいっぱいになるくらいの気持ちが詰まっていたから。

 ――もしかすると。いや、もしかしなくとも、わたしは大変な思い違いをしていたのかもしれない。

 ルビアが本当に期待していたもの。

 今ならきっと形にできる。


「家庭科室で待ってるね」

 そうルビアに伝えたわたしは、ひとり靴を履き、二つ折りにした食パンをくわえながら玄関をあとにした。

 朝練も始まっていないくらいの頃合いに校門をくぐり、靴を履き替え、教室にかばんを置く。愛しい人との通学をあきらめてまで足早に歩を進めているのは、この時間にしか使えないとっておきの口実があるからだ。

 しんとした廊下を渡り、職員室が見えたところでほんの数秒、息をつく。

 わたしはさらに進み、職員室のドアに手をかけると同時に二度、すばやくノックした。「失礼します」と入室するわたしの声に、ドア近くで英語を印刷していたお姉さんの先生が驚いたような表情を向ける。

にしきさん? ずいぶん早いね」

「あの、家庭科室のかぎってありますか?」

「そこにかかってるけど、どうしたの?」

「料理部の友だちが使いたいそうなので」


 存在しない友人をだしにして、ようやくたどり着いたのは家庭科室。あの出来損ないを作ってしまったまわしい場所だ。

 案の定、窓から一望できる校庭に運動部員の人影はなく、寂しいくらいに静まりかえっている。朝の早いうちに登校したので、料理部員はおろか先生にだって邪魔されないだろう。

 思惑はさらに的中する。家庭科室の冷蔵庫には、調理実習で使えずじまいだった生姜がしっかりと保存されていた。料理部のものであろう小麦粉や砂糖といった材料もばっちりだ。

 わたしは持ってきたエプロンとさんかくきんを結び、贈り物を作るための最小限の材料を調理台に並べていく。

「……もう大丈夫。だから、一緒に作ろうね」

 そして、自分を立ち直らせてくれた二匹の雪うさぎを調理台の端に座らせた。作り手ルビアが見守ってくれるような、そんな気がしたのである。

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