第2話

 自宅のキッチンが異国情調の香ばしさに包まれていく中、わたしはたまらずつぶやいた。

「違う」

 まずくもなく、かといっておいしくもない。

 初めて作ったジンジャーブレッドは、自分の不器用さをまざまざと非難してくるような味わいだった。

 しょう味のクッキーなんて、プレーンの生地に生姜を混ぜればすぐできる。そう高をくくっていた自分がふと、クラスメイトの同類に思えた。

 これではとてもルビアに喜んでなんかもらえない。

「いっそルビアからレシピを――なんて、聞けるわけないか」

 うわさをすれば影のごとし。

 わたしがはんもんしていたそのとき、廊下とリビングを仕切るレースがふわりと舞った。

「まあ、誰もいないのかしら」

「ルビア……!?」

 学校で別れたきり、どこへ行ったかもわからずじまいだったルビアの姿に動揺する。彼女の好物をこっそり作っていたとは口が裂けても言えないし、見せるわけにもいかない。

 そこでわたしは恥ずかしいものジンジャーブレッドをポリ袋にかき集め、勢いよく冷蔵庫へと投げ込んだ。

 その物音にルビアが振り向く。

「モミじゃない。いたのなら返事くらいしてほしかったわ」

「お、おかえり」食器棚に手を伸ばす。「ちょうど紅茶を淹れようと思ってて。ルビアの分も淹れるね」

 わたしは受け皿に乗せた乳色のティーカップ二組を持ってリビングへと向かう。しかし、それらをテーブルに並べることはかなわなかった。

 不意に、わたしの胸もとにつやめいた赤毛がうずめられる。その拍子にティーカップはからから回り、受け皿の上から転げ落ちそうになった。

 あろうことか、ルビアがいきなり抱きついてきたのである。

「いい匂い……」

「る、ルビア!? あのっ」

「あなたの匂い? いいえ、違う」

 こわばるエプロンに張りつくセーラー服。

 よろしく押しつける柔肌。

 そして、甘受を強いるようにとろけた青いまなざしが、わたしにいけない魔法をかけていく。

「……ルビアぁ」

「なあに?」

「わたし、わたし……」

「だめよモミ。そんなことしたら」

「え?」

 熱に浮かされかけた体から、狂おしいほどのぬくもりがほどける。

「そのカップ、腕を下ろしたら落ちてしまわないかしら?」

 ルビアの指摘にはたと気づかされ、わたしは左右に目を転じた。手にした受け皿は確かにへいこうを失い、今にもティーカップが地平を求めようとしてる。

「わっ、とと……!?」

「なんであれ、作られたものは大切にしましょうね」

「だ、だってルビアが」

「人をホームシックにさみしくさせたんだもの、お互い様よ」

 ルビアはティーカップ一組をおもむろにつかみ取り、自分のかばんが置かれた席の前に配する。ついさっきまでわたしをまどわしていたのが嘘みたいなしゅくじょぶりだ。

「先にひとりで帰ったくせに」

「言っていなかったかしら? 読みたい本があったから図書室に寄っていたのよ」

「え? そうなの?」

「今朝のうちに伝えたはずなのだけれど」

「……あー、あのときね……」

 ルビアの激しい目覚ましのおかげで、今朝の記憶はまさしくうやむやだった。

「ワタシはなんて哀れなのかしら。大切な人に忘れられていただなんて」

「ごめんなさい!」

「ふふ、冗談よ」

 ルビアは顔をほころばせる。

「素直な子は好きよ。だから、ちゃんと謝ってくれたモミにはご褒美をあげましょう」

「それって、図書室の本?」

 わたしの問いにルビアは首を縦に振る。かばんから取り出されたA4サイズの本の表紙には、ぼくなぬいぐるみの絵が描かれていた。

「先に読ませてあげる。モミにとっても役に立つでしょうから」

「うちの学校にこんなのあったんだー」

「……さてと、ワタシは着替えてくるわ。おうちでティーブレイクするのに、制服では落ち着かないもの」

「紅茶、淹れたらどうしよっか? 呼ぶ?」

「ええ、お願いするわ」

 ルビアはかばんを抱きかかえ、二階にあるわたしの部屋へと上がっていく。その後ろ姿を見送ったあと、わたしはテーブルに置かれた本に視線を注いだ。

『誰でも上達。手作りのすすめ』か。

 本当に、耳が痛くなるようなタイトルだ。

「まあルビアに比べればわたしなんて――ん?」

 少しめくってみようかと何気なく手芸本をずらしてみると、その下にもう一冊の本が隠れているのに気づいた。その絵本のような小冊子は『世界のお菓子・イギリス編』と題されている。

 ルビアが口にしていた「期待」の二文字が脳裏をよぎった。


 又貸しされた料理本を参考にしながら、わたしはひたすらジンジャーブレッドの試作を繰り返した。本場の味こそわからないものの、作り続ければいつかは必ず再現できるはずだ。

 ただひたむきに、前向きに。ルビアが喜んでくれるという盲信だけを頼りにして。

 そうして迎えた調理実習当日。二桁に上る努力は大きな自信となってわたしを調理台に向かわせた。

 それにしても、今日は体がいやに熱い。高鳴る鼓動を静めるためにも、よりいっそう集中して作業しよう。


「――ちゃん、紅絹もみちゃん?」

 班員のひとりがわたしの顔をのぞき込んできた。

「聞こえてる?」

「……えっと、なんだっけ?」

「小麦粉の分量を確認してたんだけど……」

 名も知らぬ女子はほのかに赤茶けた眉を曇らす。

「大丈夫? 私の声にもなかなか気づいてくれなかったし、もしかして具合悪い?」

「集中してただけだよ」

「無理してない?」

「うん」

「んー……ならいいけど」

「それで小麦粉だっけ。分量は合ってるから、ふるっておいて」

 名も知らぬ女子にそう指示を出し、わたしはバターを混ぜる泡立て器にふたたび力を込める。

 ほかの班員はというと、楽しそうにおしゃべりしている子がふたり、材料を計量している子がひとり、欠席がひとり。戦力に数えられるのは、わたしを含めてたったの三人ぽっちである。

 もっとも、ジンジャーブレッドの作り方自体はそれほど難しくない。授業の時間をめいっぱい使えば、少ない人数であっても焼き上げまでこぎ着けられるだろう。

 わたしはその後もどこか重たい体にむち打って、ルビアの好物を形にしていった。

 ほかのふたりは料理の経験でもあったらしく、気づけばオーブンに生地を入れるところまでもくもくと作業が進んだ。一段落ついたとたんに緊張の糸が切れ、調理台に突っ伏してしまったのは言わずもがなである。

 やがてオーブンからほんのり焦げたような小麦が香り、ほどなくして焼き上がりを知らせるタイマーが鳴った。

「焼けた! 私、開けるね」

 迫る調理実習の終わりに焦っていたのか、名も知らぬ女子がいの一番にミトンをはめ、オーブンに手をかける。

 空気をがらりと一変させる焼き菓子の蒸気。

 調理台に置かれたトレイを前に、ほかの班員は次々手を伸ばしていき、それの熱さに驚きながらも口に運んだ。最初はみな一様に大口を開け、見るにたえないアヒルの顔を熱心にまねていたが、すぐさま目を輝かせて「おいしい」と口々に伝え合う。

 冷ましてから食べればいいのに。

 我ながら落ち着いた所感を飲み込むと、わたしは焼き上がったそれをふっと一吹きしてからつまんだ。

 ――なにこれ?

 疑問はたちどころに氷解した。

「ねえ」名も知らぬ女子を呼ぶ。「そこにあった生姜ってどうしたの?」

「あー、あれね。どうかした?」

「どうかしたじゃなくて、どうしたの」

 名も知らぬ女子はきつもんにたじろぎ、おずおずと目をそばめる。

「く、クッキーには使わないかなーって、それで、誰かが置き間違えたのかと思って、その……」

「……先生のところに、戻したんだね」

 開いた口がふさがらなかった。

 自分の過失に驚いたわけではない。まして彼女の判断にあきれたわけでもない。

 ルビアが喜ぶ贈り物ジンジャーブレッドを作れなかった。

 その事実の重さに、わたしはぼうぜんしつしてしまったのだ。

 ――ああ。明かりが遠い。床が冷たい。

 倒れたような気もするし、愛しい声が聞こえた気もする。けれど、確かめる気力はどこにもなかった。

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