エスによろしく

水白 建人

第1話

 ほだされる。それは「きずな」を送っただけなのに、誰もが心をかき乱す言葉――いわゆる愛情のようなものだ。

 そのためだろう。すいの安らぎがこれほど心地よいのに、彼女の声を聞いただけでわたしはつい飛び起きてしまいそうになる。それだとまるで子犬みたいにこらえ性がなくて、「はしたない」だなんて思われそうだから、今は布団をかぶって聞こえないふりをしよう。

「起きて」「もう朝よ」と言われてもじっと目をつぶる。目覚ましだって自分からは止めない。

 そんなわたしを、ルビアはひそかにそそらせた。

「学校、遅れてしまうわよ?」

 柔らかな重みが下腹に沈む。またがっているのだ。

「行きたくないの? ふたりで、一緒に」

 小さなぬくもりが胸もとへといずる。なで上げているのだ。

「ねえ、お願い……ひとりにしないで……?」

 甘やかな猫なで声が耳を濡らす。ささやいているのだ。

 湧き上がる興奮は、カフェインよりも刺激的なかくせいをもたらす。正直なところ、わざとらしい起こし方にしゅうを抑えられなかった。

「あら、ふふ。おはようモミ」

 の目を浴びる青い瞳と赤い髪。そしてそそのかすようなほほえみが、布団から顔をのぞかせたわたしの心をかき乱す。

 ――いけないルビア。

 女の子だって切なくなるのに。


 ルビアと知り合ったのはちょうど半年前。小学校生活最後の冬休みに入ろうかという頃になる。

 いたずらに、何の気なしにSNSを眺めていたわたしの視界に、ピンクのうさぎが飛び込んだ。サイズの異なるボタンの両目に、糸がゆるく縫いつけられた大口を開けるそれは、ハロウィンの小物かと見まごう異様なぬいぐるみだった。

 下手の横好きでこそあれ、手芸をもてあそぶ身として多少は見る目がある。だからわたしはそのぬいぐるみの上手さというか、特別な魅力に感心してしまい、それをアップした人物――タイムラインが英語であふれていた彼女に一言『ナイス』とだけ送った。

 驚いたのはそのあとだ。しばらくしてから送られた返事には日本語がずらりと並び、しかもわたしのみじめな作品群を褒めちぎる内容だったのである。

 小さな妹がなだめすかされるように。だまされるように。

 言うまでもなく、わたしはルビアとのやりとりに酔いしれていった。

 会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。でも、そんなメッセージを送ったせいで拒絶されたらどうしよう――そんな劇中劇にもならない妄想に身を焦がす毎日。

 言いたくて、けれど言えなくて。雪解けを見届けてなお、わたしの心に新たな春が訪れるきざしは見られない。

 いっそ、このままの関係を楽しもう。

 そう考えるようになったある日を境に、抱いた季節はとこしえとなり、一輪の花だけを愛でる陽気に満たされた。

『ホームステイがしたいのだけれど、構わないかしら?』

 運命の女神様に感謝を。

 両親の説得には半日もかからなかった。


 しろ女子中学校は、その名の通り男子禁制の花園だ。だから放課後を狙ってルビアに群がるちょうたちに、しさなんてどこにもない。

 しょうりもなく、来る日も来る日も赤いばなを愛でたがるクラスメイトの面々だが、今日の話題は珍しく授業のことに及んでいた。

 ――いや、どうやらそのおもわくに違いはないらしい。

「ルビアちゃんって好きな食べ物ある?」

「あら、突然なあに?」

「来週の火曜に調理実習あるでしょ」

「だから、その、ルビアちゃんはなに食べたいのかなって……」

「作ってくれるの? なら――」

 そうしてルビアはひとつずつ、イギリスらしい料理に解説を添えて語り始める。

 わたしにはそう、いうなれば五十音図の暗唱と同じだ。その程度のことを聞いて仲良くなろうとする彼女たちが、も知らない小学児童に見えて仕方なかった。

 あんなものがルビアに求められるわけない。

「――ではごきげんよう」

 クラスメイトを軽くあしらったルビアが、かばんに背をあてがう。合わせてわたしも椅子を引く。

「お疲れルビア。帰ろっか」

「モミはどうかしら?」

「なにが?」

「作ってほしいもの。モミにだってあるのでしょう?」

 意外な問いかけだった。

「えっと……どうして急にそんなことを?」

 高鳴りが胸を燃やす。

「モミにも喜んでほしいから。彼女たちの話からふと、そう思っただけよ」

「珍しいね。ルビアがそういうこと聞くなんて」

「きっと浮かれているのね」

 そう言うとルビアは流し目を送り、

「ワタシ、期待しているわ。彼女たちにも、あなたにも」

 しなやかな足取りでひとり教室を出て行ってしまった。

「…………期待、してるんだ」

「期待」だなんてちょくに過ぎる。ルビアらしくもない。に付き合わされたせいで調子が狂ってしまったの?

 ――だとしても、わたしは期待に応えたい。彼女の気まぐれであっても、絶対に。

 黒い三つ編みを留める深紅のリボン。ルビアがくれたこれさえあれば、ほかに作ってほしいものはない。赤い糸をつむいでくれたうすくれないの指先で、ただいつくしんでほしいだけ。

 ゆえに思う。

 ほかの誰にも振り向かせず、ほださせもしないと。

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