第七話 【謎】
帝国の地下に広がる水道は想像以上に暗かった。
下水とは違うのか、匂いが酷かったりすることはなかったのが幸いだ。
それに足場も意外としっかりしていたのもよかった。
ただ、もっと下調べをしてから赴くべきだったかもしれない。
「ともあれまずは明かりだな」
アルトメナから一枚の魔術陣を取り出して、それに魔力を注ぐ。
すると魔術陣の上に球体の光が灯り、辺りを照らした。
半径五メートルほどの距離の視界が確保され、地下水道の問題の一つが解消された。
「じゃあソウファは匂いを探して。アフィは例の気配の探知。俺はマッピングと二人の補助で」
「わかった!」
「了解」
二人を先導して、水流を含めて幅十メートルほどの水道を歩く。
時折ソウファが匂いを頼りに道を指示してくれるが、それ以外は基本的に葵が先頭だ。
“魔力感知”による気配の探知能力は葵がずば抜けているので、先頭を行くのは当然だ。
歩いてみてわかったが、この水路は思いのほか複雑にできていない。
基本的に真っ直ぐで多少は人工的な曲がり角があるが、十字路だったりT字路だったりと言った分岐の道がない。
マッピングと言ったが、前後さえ間違えなければ迷うことが難しいだろう。
とはいえまだ油断はしない。
入り口付近が単純で、奥に向かえば急に複雑になる可能性もある。
もちろん、憂慮もしつつ気配の探知も欠かさない。
と言っても、常時展開の“魔力感知”ではなく“魔力探査”でかなりの範囲を同時に調べているから、もし葵たち以外の存在がいても見逃す可能性は低いだろう。
だからと言って油断をするつもりもないが。
そこから五度角を曲がり、特段変わりないところでソウファが静止の指示を出した。
「ここで匂いが消えてるよ?」
「ここで?」
ソウファが頷き、葵はそのあたりの地面を調べてみる。
指輪が落ちているということなら保持している光に反射しても良さそうなものだが、ぱっと見でそんな物品は見当たらない。
水路に落ちて流れた、とは考えづらい。
指がある高さから何度かバウンドして水路に落ちたとしても、高々数回のバウンドで地面に匂いが残るとは考えづらい。
つまり何者かがここから持ち出した可能性が高い。
そしてその存在が、おそらく例の魔物であることもなんとなくわかる。
しかしそれはそれで疑問も残る。
持ち出した理由もわからないし、ここで匂いが途絶している理由もわからない。
持って運ぶのであれば、匂いは必ず残るはずだ。
それがこの場で途絶えたとなれば、指輪は匂いの届かない何かに包まれて持っていかれた可能性がある。
そんなことをする魔物がいるだろうか。
「……いや、喋れる魔物もいるんだしおかしなことはないか」
「あるじ様?」
こうして友好的に接しているが、ソウファやアフィも魔物に分類される。
そんな彼女たちは思考し理性でも動けている。
だから、その仮定はあまり意味を為さない。
「いや、何でもない。じゃあ探してみようか。何があるかわからないから、あまり離れないようにね」
「はーい」
夜目が利くソウファとアフィは光がなくてもいいが、葵はそうはいかない。
スペック的な面では多少同年代より秀でている自信はあるし、この世界で得られた能力的な面でも劣ることはない自負はあるが、根底が人間であることも変わらない事実だ。
だから少しだけ我が儘に光源を寄せて、ソウファが匂いを嗅ぎ取れなくなった辺りを探す。
しかしそう簡単に見つかるはずもなかった。
最大の手段だった匂いがもう使えなくなったことにより、正確な位置がわからなくなってしまったから仕方がない。
しかしその匂いによって大まかな位置が把握できたのも事実だ。
最後までその手段が使えなかったのは残念だが、大躍進なのは間違いない。
地道でも探すほかないのだ。
そう割り切って、視覚を頼りにそのあたりを捜索する。
「見つからないな」
「この辺じゃないのかな?」
かれこれ一時間は探しているだろうが、一向に手掛かりが見つからない。
時折、蝙蝠のような魔物が近くに来たりしたが、それだけだ。
最後に見つけた手掛かりは、最初に見つけた匂いのみ。
つまり収穫なしだ。
あまり幅が広くないとはいえ、直線に長く水路を挟んで両脇に通路がある。
そのどちらも葵とアフィの視覚+ソウファの鼻で探したが、手掛かりもないとなるとお手上げだ。
匂いがあった付近を重点的に探しているが、やはり捜索範囲を広げるのがいいのだろうか。
「というか、そもそもこの水路は何に使うものなんだろうな」
ふとソウファがそんなことを口にした。
指輪探しが思うように進まず、意識が別のことに向いたのだろう。
「飲み水じゃないの? ほら、下水? って聞いたことあるよ」
「下水は汚い水で飲み水は上水だから別物だよ。でも飲み水ってのが正解とは思えない」
「人の出入りが簡単過ぎるからか」
「そう」
ソウファの言う通り、飲み水の水路ならば組合員如きが簡単に立ち入れるのはおかしい。
この場所に来るまでに監視カメラのようなものや守衛のような立ち位置のものは何一つなかった。
もし仮にここが上水だとして、誰かが毒を入れたらどうなるだろうか。
答えは簡単。
大量の人間が死に至る。
人間、生きている限り誰しも水は飲む。
極限状態でもない限り毎日だ。
そんなところに毒を混ぜ、しかし入れた人間がわからない、なんてことになれば国の責任問題に発展する。
「それに水の来し方、行き先が不明だ。各家庭や宿屋なんかの水を必要とする場所に届けるにしては、あまりに水路が少ない」
「確かに。ここまで一本道だったな」
細かい水路が水中にあるのなら話は変わってくるが、水中にそんな道はない。
指輪が水路に落ちた可能性も考慮して少しだけ水中や水底も探してみたが、その時にそれらしいものも発見できなかった。
「でも下水じゃないんだよね?」
「うん。下水なら多少匂いがきつかったりするだろうけどそれが一切ない。それに上からでも底が見えるくらいには水が澄んでる。とても下水とは思えない」
だからこそ、この水路の存在理由がわからない。
昔何かの儀式に使われていてその名残がとか、あるいは元々上水を作る予定だったけど何かが理由で
想定できることは少なくないが、確証を得られるほどのものはない。
「……なんか寒くない?」
「ただの風……ってわけじゃなさそうだな」
感覚が鋭いソウファが小さく呟く。
同じタイミングで風が吹いたが、野生の勘とでも言うべきものを持っているアフィも強い警戒を示す。
「魔力はない。風と匂いは?」
「ないよ」
「俺もだ」
即座に辺りの気配を探った葵は、自身が得意とする魔力以外の探知を願う。
しかし両名も異変を感知できずに違和感だけが残った。
勘違いだと言われてしまえば納得できるレベルの違和感。
「……嫌な予感がする」
ソウファが小さく呟く。
その言葉に頷きつつ、しかし確固たる証拠もないため動くこともできない。
できるのは、周りを警戒することだけ。
「どうする?」
「……何が起きてるかわからない以上、一旦引く。ここで止まっててもいいことはない」
短い思考の後、そう結論付ける。
得体の知れない違和感がある。
だがその正体がわからない。
気のせいである可能性も、当然あるだろう。
ただ三人が同時に警戒を示し、その一人が野生の勘を発揮させているのだから、軽視していい問題ではない。
だから、一度引く。
「俺が
――カバーできる位置に、と指示を飛ばそうとして、ぶわっと嫌な風が吹いた。
先ほど感じた些細なものとは違う、明らかに異常だとわかる風。
毒が風に流されているとか、そういう問題ではなかった。
視覚で捉えられる白い煙が、二つの光源しかない薄暗い通路を吹き抜けてきたのだから。
「退避ッ!」
警告を飛ばす。
白い煙を背に、来た道を全力で引き返す。
しかしそれは許されず、風と共に流れてきた煙に飲み込まれれる。
もしこれが毒の類なら一瞬たりとも吸い込んではいけないと息を止めるが、多少鍛えた程度の肺活量では通路を抜ける前に酸素が尽きる。
死から脱する本能が煙の中での呼吸を許し、想定通りに意識が遠のいていく。
視界を覆う白い煙に妨げられて、ソウファとアフィの様子を確かめる術がない。
一つ確かに言えることは、このまま意識を落としてもいいことは何一つないということだけだ。
「――風破ッ」
葵の右手を中心に、風が吹き荒れる。
渦を巻き、煙が散っていく。
気が付けば煙を押し流していた風は鳴りを潜め、葵が放った魔術の風だけが通路を駆け抜けていた。
すんでのところで意識を保った葵は、魔術で肺へと風を送り、吸い込んでしまった煙を少しでも吐き出そうと試みる。
しかし取り込んだ煙は空気とともに体内に運ばれているので、意味の薄い行為だ。
それでも気休めにはなる。
「大丈夫かっ?」
こんな人為的な煙は聞いていなかったな、と内心で毒づきながら数メートルの距離で倒れているソウファとアフィへ声をかける。
呼びかけに呼応するように、二人が小さく声をあげる。
生きていることを確認し、呼びかけを続けたまま辺りを警戒する。
“魔力探査”で異常は捉えられず、通路に葵たち以外の生命反応はないことを確認。
目下、脅威という脅威がないことを念入りに確認してから、近くで倒れているソウファに声をかけた。
「大丈夫か?」
「あるじ様……はい、ちょっと呼吸が苦しいですが」
「同じく。こほっ……万全ではないですが、動けます」
「よかった。取り敢えず脱出しよう。また何を仕掛けられるかわかったもんじゃない」
二人が頷いたのを確認し、地下水路を脱出する。
と言っても、来た道を辿るだけの簡単な内容だ。
一本道だったこともあって、迷うはずもない。
煙に妨害されたが、その前に考えていた通りのフォーメーションで来た道を引き返す。
もちろん、警戒は欠かさない。
煙は想定外だったが、依頼主の言っていた透明な魔物はいつ何時襲ってくるかわからない。
ソウファもアフィも煙の所為か呼吸が辛そうだが、今は我慢してもらう。
この場に留まっている方が危険だ。
警戒の為か無言でしばらく歩く。
光源は幸い無事だったので、足元の心配はない。
しかし、なぜだろう。
“魔力探査”にも視界にもおかしなところはない。
だというのに、なぜか警鐘が鳴りやんでくれない。
まだ何かあると、本能が全力で語り掛けてくる。
「……長くないか?」
「ソウファもそう思う? でも入り口はなかったよね?」
ソウファの後ろをゆっくり飛行するアフィが呟いた。
純粋な疑問。
勘違いで済まされそうな疑問。
されど、それは勘違いではない。
ソウファが同調したように、葵も同じことを思っていたからだ。
「入り口が閉ざされた、ってのは考えづらい。あの大きさを人力で埋めるのは時間的に難しいだろうし、魔術を使ったなら残滓が残る。俺が見つけられないはずない」
「でも、入り口なかったよ?」
確実に来た道よりも長い距離を歩いている。
一度角を曲がっただけで、実際はそこまで長い距離を歩いたわけじゃない。
煙に飲み込まれ、その疲労感から長いと感じる、というような生易しいものじゃない。
角を曲がった時点では、入り口の光は地下水路に落ちていた。
正確な距離こそわからないが、それが視認できない時点でおかしいのだ。
「さっきの煙で実は意識を失ってて、幻覚でも見せられてる、とか」
「……否定できないな」
これが集団幻覚の類で、絶賛その幻覚に囚われているのなら、それを打開する術はあるだろうか。
よくある手法だと、強い刺激を与えれば幻覚が解けたり、あるいは何か一定の条件を達成したときに無条件で脱出できたり。
条件を瞬時に理解できるほど頭の回転は速くないので、とりあえず思いついた刺激を与えてみる。
両手を肩の高さまで持ち上げて、掌で頬を叩く。
パチンッと小気味良い音を立てて、掌と頬がじんわりと熱を持つ。
しかし、目の前の光景は変わらない。
それなりに強い刺激を与えたつもりだが、まだ足りないのだろうか。
「どうする?」
「……進んでみよう。もう一度角にぶつかったら明らかに異常だ。そこでまた考える」
「わかった」
疑問を表情に出したまま、ソウファが先導する。
正直わからないことだらけだが、それでも今は行動を起こすしかない。
周辺の異常に意識を張り巡らせつつ、今後の打開策も練る。
何が必要で何をしなければならないのか。
現段階の少ない情報でそれを考える。
「角だ」
「つまり――」
「うん。何らかの妨害を受けてる」
夜目の利くアフィが反対側にある曲がり角を見つけ、ソウファがキュッと口を結ぶ。
不安を隠せないソウファの頭を撫でる。
状況はよくない。
でもそこで立ち止まっていては何も解決しない。
道すがら考えていた打開策を実行していく。
「まずは入り口の有無を探そう。もし高速で塞がれたにしろ俺に感知できないレベルの魔術で塞がれたにしろ、確実に差異が残るはずだ」
「それを見つけよう、と?」
「そうだ。天井を注視して、その痕跡を探してみよう」
角を曲がらず、天井を見上げながら引き返す。
もちろん、ただ天井を見つめるだけではダメだ。
アフィに天井を突いてもらい音を発生させ、聴覚による差異も見つけようと試みる。
天井を照らしながら、水路に落ちないよう足元にも気を付けて水路を進む。
しかし異常は見つけられず、また角へと戻ってきた。
「なかったな」
「ああ。次は一度天井をぶち破ってみよう」
「大丈夫か? もしここが幻覚じゃなかったら上の人たちに被害がでないか?」
「問題はないはずだ。この水路の入り口は人気のない町外れにあった。ここに来るのは依頼を受けた組合員くらいだろう」
少し歩き、この辺でいいかなと目星をつけて脚に力を溜める。
天井までは約三メートル。
“身体強化”込みの跳躍なら問題なく届く。
踏み込み、重力に逆らって振り抜いた拳が天井にヒットし、衝撃を余すことなく天井へ伝えた。
申し分ない威力を発揮したと思ったのだが、天井は
それなりに年季の入った通路だと思っていたのだが、パラパラと砂埃が落ちてくる気配すらない。
「利かない、か」
「やぱり幻覚か?」
「説は濃厚だけど、まだはっきりとはわからない。もしそうなら、物理的な突破はできないのかもしれないな」
「じゃあ助けてーって叫んでみる?」
さも当然のことを言っていますと言わんばかりに、ソウファは素の表情で聞いてきた。
一瞬、何を馬鹿なことを、とも思ったが、考えてみれば悪い手ではないのかもしれない。
「何もしないよりはマシだな」
そう独り言ちり、大きく息を吸い込む。
腹に力を入れて、拳でビクともしない分厚いであろう天井をぶち破るほどの声量で叫ぶ。
「誰かいませんか――――――!」
鼓膜がビリビリと震える。
自分ですら五月蠅いと思ってしまう程の大声は、上には届かない。
少なくとも、葵と同じ大声で応えてくれる人はいない。
「届かないね」
「だね。じゃあ次の――」
『――そこで何してる?』
次の手に移る前に、そんな声が聞こえた。
嫌悪感――というよりは素っ気ない雰囲気のある、女性の声。
大人っぽくクールな雰囲気の声音から、少し歓迎されていない感じに聞こえる。
不気味なのは、どこから声が発せられているかわからないという点だ。
辺りに生命反応はない。
しかし不思議と敵である気もしない。
なので、とりあえず状況を説明してみる。
「あっ、すみません。どなたか存じ上げませんが、ここに閉じ込められてしまったようで。出口を探しているんですが、どこにあるかわかりませんか?」
『……ああ、なるほど。今の状況を理解してないみたいだね』
「えーっと……?」
知りうる限りの情報を提示したはずだが、返ってきたのは呆れともとれる言葉だった。
想定外の言葉を受けて、思わず言葉に詰まる。
『ま、そうだね。私が外と関われるのは滅多にないし。いいよ、助けてあげる』
「え? あ、ありがとうございます……?」
急な心変わりに反応がついていけない。
何を考え、どうしたいのかがわからない。
だが助言をくれるというのなら受け取っておく。
それがどんなものであれ、利用するもしないも自分たち次第だと切り替える。
『怖い思いをしたら夢から醒める。ほら、眠りにつきそうなときに高いところから落ちるような感覚』
「……つまり汗が噴き出るくらいの怖い思いをしろ、と」
『そうだね。夢ならそれで現実に戻れる』
「曖昧な気がしますが、参考にします。ありがとうございます」
『では、対価を貰おうか』
「……聞いてないですが」
『言ってないからな。だがワタシもそれほど難しいことを託すつもりはないさ』
「託す?」
初対面の、それも顔すらわからない相手に何を託すのか。
重要なものを託されてもそれをどうこうできる気はしないし、そもそもどうやって託すのだろうか。
そこら辺の壁や床からひょっこりと顔を出して手渡しでもするのだろうか。
『ああ。ある人物に『キミはワタシに囚われず、キミの道を辿るといい』と伝えて欲しい』
「ある人物とは?」
『キミならわかる、としか言えない。そこに根拠なんてないし、そもそもワタシはその人物のことを思い出せない』
「ならなんで、そんな言葉を託そうと思ってるんですか」
素朴な疑問。
口を
それに、初めて女性は思案するような素振りを見せた。
『なんで、か。……わからない。もしかしたらワタシの心残りだったのかもしれない』
「心残り?」
『ああ。だがもう、それでおしまいだ。うん。心がスッキリした気がするよ』
「それはよかったって、言って良いんでしょうか」
『どうだろうね。ワタシの境遇はそもそもいいものなどではないから、長い目で見たら間違いだろうね。でも今のワタシはとても心地いい。うん、そういう意味では良かったかな』
言葉通り、すっきりとしたような声音で語る。
ほんの数分の会話。
いや、会話と呼べるのかどうかさえわからないほどの短いやり取りは、どうやら女性にとっては有意義な時間だったようだ。
『もう一度言う。夢から醒めたければ恐怖を自身に刻みつけろ。それで覚醒できる』
「目覚めた先で襲われたら勝てますかね」
『どうかな。今キミを取り巻く状況は良いものじゃない。これからはもっと悪い方向へ傾いていく』
「予言ですか?」
『確定事項さ。ワタシにわかる範囲で、知れる範囲で、得られた情報を繋ぎ合わせた事実さ。未来視でも予言でもない』
わかっているかのように、起こった
これからのことを当然のように語る。
『これからキミは、ワタシと同じかそれ以上の困難が立ちはだかる。それでもキミは前に進める? 立ち向かっていける?』
いまいち要領を得ない曖昧な言葉。
具体的なものは何もなく、どうすればいいかなんてさっぱりわからない。
それでも、そう問われたのなら答えは決まってる。
「勿論です」
『……なら、これ以上言うことはない。キミならできる。周りを頼って、未来を生きて』
それっきり、言葉は聞こえなくなった。
スピーカーから流れていた音が止まったように、先ほどまで確かに会話していたのが嘘だったかのように途切れる。
女性の言った通り、もう会話は終わったのだ。
結局、正体も何もわからなかった。
でも確かなのは、打開策を貰ったこと。
「今の聞えてた?」
「いえ。急にあるじ様が独り言を呟きだしたのでどうしようかと……」
「そっか」
「それで、どうします?」
「ああ。一つやってみたいことがある」
そう言って、腰に下げた『無銘』を鞘から引き抜く。
「今更なんだけどさ、拳で天井をぶん殴った時、痛みを感じなかったんだ」
「……というと?」
「もしここが幻覚なら、確かに痛みを感じなくてもおかしくないんだと思う。けどさ、痛みを感じない、でも現実かもしれないものって、幻覚以外にもあるでしょ」
「……夢か」
「その通り」
「つまりここは夢の中?」
「そう考えてる」
夢かどうかを判別する方法として、頬を抓ったり、あるいは叩いたりなどの刺激を与えることが挙げられる。
そうすることで痛みを感じ、ここが現実だと再認識する。
現実とは思えない現象を前にした時にありがちな行動だ。
「でもさっき葵は頬を叩いてたよな。頬も赤くなってたし」
「ああ。でもあの時は頬を叩いて刺激を与えることで幻覚から脱出できるんじゃないか、ってことを念頭に置いてたから、痛みは度外視してたんだ」
今思うに、あの時でさえ痛いと思っていなかった。
突如閉じ込められ、やはり精神状態は安定していなかったらしい。
「それで、夢ならどうやって起きるの? 待ってたら時間は過ぎてっちゃうよ?」
「それも考えてる。怖い思いをしたら、目は醒めるものでしょ? なら、怖い思いをしてみればいいんだよ」
「どうやって?」
「こうやって」
抜き身の『無銘』を首筋に当てる。
突然の行動にソウファもアフィも驚きその凶行を止めようとする。
当然だ。
もし同じ状況でラディナがそんなことをやりだしたら、葵だって全力で静止する。
「よくよく考えたら、あの主人公の行動は理にかなってたんだね」
父親が幼かった頃に流行り、今なお根強い人気を誇る漫画原作のアニメ。
そのワンシーンに己の頸を斬り夢から醒めるというものがあった。
その漫画では適役の頸が弱点だったから、それになぞらえたものだとばかり思っていたが、こういう意図もあったのかもしれないと、同じ状況になって思う。
「あ、そうだ。もしこれが夢じゃなった時に備えてこれ渡しとくね」
アルトメナから治癒魔術のスクロールを取り出してアフィに投げる。
慌てて空中で受け取ったアフィは、ソウファを人型にさせ、そのスクロールの準備をさせた。
「意外と怖くないな」
あの主人公と違い、葵には治癒という魔術がある。
致命傷でも治せるまさに異世界万歳な代物。
自身の命を他人に預けられないとは思うが、少なくともこの二人なら、葵が死ぬ状況になったら迷わず助けてくれると信じている。
だから、己の頸を斬り自害するのに迷いはなかった。
何者がこんな状況に陥らせたのかはわからない。
でも一つ言えるのは、俺という特異な存在を夢に閉じ込めるだけで済ませたことだ。
そう決めて、葵は刃を押してる。
「じゃ、またあっちで」
軽い言葉の後で、『無銘』が葵の頸を斬り裂いた。
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