第一話 【恩寵】
「すまん、ラディナ。肩貸してくれ」
「……忠告はしっかりとしましたよ?」
「いやほんと、返す言葉もない」
訓練場から退出し、通路を曲がって誰の視線もなくなったのを確認してから呟いた。
その呟きの理由を察したのか、呆れたような目でこちらを見てくる。
実はミスってました! なんてことを言ったら格好がつかないし、何よりラティーフに外に行くのを止められた可能性があった。
だから、あの瞬間だけは無理をしなければならなかった。
「脚、ですね。失礼します」
ラディナは一言断ってから、ズボンの右裾を捲る。
「血も出ていないようですし、少しは歩いていられたので、筋断裂などの心配はなさそうですが……今後の行動に影響が出るかもしれませんので、仕方ありません」
持ち前の知識と観察力で患部の状況を的確に理解し、裾をもとに戻すと、やれやれと言った様子で肩を貸してくれた。
「ほんとごめん」
「葵様は学習してくれると信じての行動です。次はありません」
「ありがとう。気をつける」
そんな締まらない格好で、可能な限り足に負担をかけないようにしつつ、早足で王城を後にする。
たった一週間しか過ごしていないとは言え、なんだか感慨深い気持ちになる。
柔らかな日差しに目をやられつつ、召喚された王城庭園を素通りして、先程下って登った階段を再び下る。
「あ、綾乃様――お怪我をなされたのですか!?」
城門の階段下には制服を着た王女――ソフィアがいて、こちらに視線を向け、ラディナに肩を貸されている状況を理解すると、慌てた様子でこちらに走り寄ってきた。
青色をベースに、白と黄で装飾のされた、タイト気味なトップスに、胸下ほどの丈の上着。
上着の袖は程よく暖かい今の季節に合わせてか七分丈まで折り込まれ、肌の露出は少なめ。
そして上半身と統一した色の膝まである
そう!
ファンタジー系の制服は露出度が高く且つミニスカ説が崩されたのだ!
なんてふざけたことを考えている間も、ソフィアは割と長めな階段を心配そうな表情で駆け上がってくれている。
先程の発言といい、今の行動といい、彼女の至るところから優しさをひしひしと感じる。
きっと、育て親がいい人だったのだろうな、なんて考えながら、慌てるソフィアを落ち着かせようと口を開く。
「ああいや、そんな大したことじゃないですよ王女様。ちょっとポカしただけで……まぁ酷い筋肉痛みたいなものです」
「違いますよソフィア様。“身体強化”を失敗して、脚に少し負荷がかかってしまっているだけです」
「一大事ではないですか! どこですか!? 簡単な治療なら私でもできます!」
「いや、これは俺のミスなんだし、王女様にそんなことまでしてもらうわけには……」
「いえ、させてください! 綾乃様はこれから私たちの失態の尻拭いをさせるのですから、このくらいはさせてください!」
チラッと、肩を貸してくれているラディナに視線を向ける。
その視線の糸を理解したらディナはため息をついて頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて、お願いします」
ソフィアの心情と、その願いを聞いた上で、ラディナの了承もとってから任せることにした。
実際、ここで助けてくれるのを断る理由もないのだし、今後の行動を思えば、むしろ好都合と言える。
ラディナに了承をとった理由は、なんとなく、だ。
裾を捲って脚の患部を見せると、ソフィアはしゃがみ込み、両手を優しく添えるようにして目を瞑った。
すると白とも黄色ともとれる柔らかな光が手のひらから漏れ、患部を包み込んだ。
「綾乃様はこの短期間でもう“身体強化”をお使いできるのですね……羨ましいです」
脚を治療してもらっており、自然と見下ろす形になっているため、王女の表情は見えない。
が、その声音からは、羨ましさのようなものが感じられた。
どう返すのが正しいのか少しだけ迷い、口を開く。
「……王女様は使えないの?」
「はい。私は運動は苦手で……魔術は人並み以上に扱えるので、そちらに重点を置いているのですが……人並み以上とは言え、どうしても父や母、姉には劣ってしまいます」
「そう言えば、現国王って魔導学院の主席卒業生なんだっけ」
「よくご存知ですね。唯一の王位継承者としても、一人の魔術師としても、早く一人前になりたいのですが……はい、できました。もう痛みは引いていると思いますが、いかがでしょう?」
会話をしながらも進められていた治療のおかげで、先程までの鈍い痛みが消えた。
治癒の魔術は患部の状況に対してそれぞれ適切な対処が必要で、特に見えない傷や痛みの対処は難しいものだと、読んだ本には書かれていた。
それを簡単な治療とは言え、いとも容易く行えてしまうソフィアの実力は確かなものだと言える。
顔を上げ、傷の具合を伺ってくれるソフィアに対し、感謝の意を述べる。
「凄いね、こんな簡単に治しちゃうなんて」
「い、いえ……治癒は私の得意分野ですのでこのくらいは……」
素直な気持ちをまっすぐ伝えたのだが、ソフィアに顔を逸らされてしまった。
逸らす前に見えた表情は、びっくりしたような感じの表情だったのだが、その真意は理解できなかった。
「それで、綾乃様とラディナはこれからどちらに? ここにいるということは試験に合格されたということでしょうし、すぐに外に行かれるのですか?」
「いや、まず冒険者組合に行って、結愛捜索の特殊依頼を申し込むつもりだよ。冒険者組合なら六カ国全部にあるし、遠方通信機で情報の伝達も早い。何より人手に期待できるからね」
結愛捜索を依頼したとしても、それを請け負う人は殆どいないだろう。
結愛の居場所がわからず、生存しているかどうかも不明、その上、手がかりらしい手がかりはアヌベラが描いた結愛の肖像画のみ。
どう考えても効率が悪すぎるので、普通の依頼なら誰も請け負わない。
だからこその特殊依頼。
依頼を受け、それをこなし、達成した証を提出して依頼完了となるのが基本の流れだが、特殊依頼はその基本の流れに沿わなくても問題がない、文字通り特殊な依頼だ。
依頼主の希望によって依頼内容も報酬も何もかもが様々だが、それは自由度の高さを意味する。
『この依頼を受ける必要はなく、偶然必然問わず、
それに、この依頼を提出する目的は何も結愛を見つけるためだけのものではなく、普通ではありえないような依頼内容に加え、本当に支払われるかもわからない高額な報奨金。
そんなとんでもなく特殊な依頼は、一度目にすれば頭の片隅には残る。
片隅にでも残ればそれが話題に出ることもあるだろうし、話題が膨らめばそれは噂となるかもしれない。
そうなれば、依頼内容と一緒に依頼主の名も広がり、それを見つけた結愛がこちらに来てくれる可能性だってある。
全て希望的観測ではあるが、依頼を提出するメリットはデメリットよりも遥かに大きいので、やっておくことにこしたことはない。
「ついでに、ラティーフから預かってる手紙を、この首都の冒険者組合の組合長をやってるアラインスさんに届けに行くよ」
「それなら、一緒に行きましょう。私が向かうのは四区の学院ですので、三区の中央広場に面する冒険者組合なら通りますし」
「……そうだね。せっかくだし、お言葉に甘えさせてもらうよ。本当は、身体強化で屋根の上伝ってこうと思ったんだけど――」
「――私が許しません」
「……ということだから、お願いするよ」
「勿論です。さ、お乗りになってください。パレードで使われた馬車と乗り心地は変わらないと思いますので」
ソフィアの勧めた馬車は、のパレードで使用していた王族使用の馬車とは違い、かなり質素な見た目になっている。
どこからでも見えるオープン型でもなくなっていて天上には屋根があり、両サイドにつけられた窓と後方ドアの小窓、前方の御者の頭上にある小窓からしか外が覗けないようになっている。
ただし、質素なのは外見だけで、中身はパレードのときに使用したものと遜色ない。
葵、ラディナ、最後にソフィアが乗ると、御者に指示をして馬車を進める。
馬車が動き出してすぐ、気になったことを尋ねるために口を開いた。
「王女様。一つ聞いてもいい?」
「はい。何でしょう」
「馬車を変えてる理由って、やっぱり王女様が身を隠さずに登校すると騒ぎになるから?」
先のパレードで、王女様が人気なのは理解できた。
あの黄色い歓声の中でも、野太い――と言うと誤解を生みそうだが、男性の声は聞こえてきた。
しかも男性だけでなく、召喚者のイケメンズや両師団長に向けて発せられた女性の歓声の中に混じり、ソフィアに向けられた声だって少なからず聞こえた。
そのため、ソフィアが身を隠さずに往来を歩いた日には、登校どころじゃなくなってしまうくらい、人でごった返すだろう。
それに、現王政は市民の意見をたくさん取り入れる方式を採用していて、その一端でもあるソフィアに直に意見を奏上できるとなればなおさらだ。
「そうですね。それも一因ではあります」
「一因? 他にもなにか理由が?」
葵の言葉に頷いて、ソフィアは胸元からペンダントを取り出してに手を添え、手慣れたように魔力を流し込むと、目をむくような光景が目の前で起こった。
「――ハッ! 王女様が! 王女様がお隠れに!」
「魔力をまとって顔を変えている……ですか?」
「その通りです、ラディナ。正確には、顔の周囲で光の屈折や色を調整して、他人には違う色を見せているのです。その媒体が、このペンダントというわけです」
「……つまるところ、それが周りからは見えない馬車に変えている理由ですか」
「はい。王族が魔導学院に通っていると色々と面倒だということは父から聞かされていましたので、“とある行商人の愛娘で、見聞を広めるために特例として王城で働いている”という設定で、学院に通っているのです。学院長と一部教師には、私の身分をぼかさずにお伝えしていますが」
自身のボケがあっさりスルーされたことにめげず、話を進める。
というか“設定”って、なかなかメタイこと言うじゃないの、と苦笑う。
「なるほどね。でもそっか……魔術か。俺は風しか適正ないから、王女様が羨ましいよ」
「羨ましい、ですか?」
「うん、羨ましい。俺はどっちかって言うと、前衛で鎬を削り合うよりも、後衛で敵の行動を分析したり、仲間の支援するほうが性に合ってるから」
「……? 綾乃様の国で戦いは起こっていないと伺っておりましたが……」
「あぁ、えっと……説明難しいんだけど、俺達の世界には電子ゲームっていう分野のゲームがあるんだ。その中で魔術や魔法が使えて、この世界で言う魔物とかと戦ったり、あるいは凶悪な敵に立ち向かったり……そこはゲームによって様々なんだけど……ここまで大丈夫?」
「はい。話にはついていけてます」
説明が得意な方ではなくて、ましてや科学力はあっても電子ゲームのないこの国の人間にゲームの話が通じるか不安だったが、ソフィアの理解力の高さがその不安の脱ぎ去ってくれた。
とてもありがたい。
「よかった。で、俺と結愛は自由度の高い一つのゲームの中でパーティーを組んでてね。結愛が前衛で俺が後衛って構成なんだ。もともと動体視力とか反射神経とかが結愛よりもだいぶ劣ってたから“思考”することで対抗手段を確立したんだ。後ろから戦闘状況を見て対処方法を考えたり、敵の行動を分析して先読みしたりってのが、割と長い間続けてきたから得意なんだ」
「……その話を聞いて思い出しましたが、二日目のラティーフ相手に訓練をした時に、最後まで綾乃様が戦わなかったと聞きましたが、そういった理由があったのですね」
「うん、そう。まぁ癖とか見抜いてもかすり傷一つつけられなかったんだけどね」
あのときは本気で一発与えてやろうと画策していたから、余計に悔しかった。
尤も、ラティーフは近接戦において人間の中ではナンバー2に位置するらしいので、召喚二日目の若造にどうこうできるような相手でもなかった。
「そうなのですね。ですがそれを言うなら、私も葵様が羨ましいです。私にはなくて、私が欲している才能を持っていらっしゃるのですから……」
先程、身体強化ができるのが羨ましいと言っていたから、きっとそのことだろう。
それぞれ、欲しいものと持っているものが真反対なこのもどかしい状況に、愚痴のような何かを漏らす。
「……そっか。ままならないものだね、人生って」
「ふふっ、面白いことを仰るのですね」
「当たり前のことをさも格好良いかのように言っているだけですので、騙されないようにしてください、ソフィア様」
「話の腰を折ってくるねぇ、ラディナは」
この一週間、何度も交わしたやり取りに、口元が少し緩むのを感じる。
違うとはわかっていても、まるで結愛がいるような、そんな安心感がある。
「ですが綾乃様。後方支援が得意なのであれば、魔術をもう少し学びたいとは思われないのですか?」
「今はいいかな。後方支援ができれば最高だけど、現状は近接のほうが圧倒的に強いわけだし、ラディナが弓で後衛を担当してくれる以上、俺は前衛のほうがいいでしょ。それに、魔術を学んでる時間があるなら、結愛を探す時間に充てたい」
「……すみません。綾乃様の気持ちを考えておりませんでした」
「あぁ、気にしなくていいって。むしろそうやって意識されるほうが変に意識しちゃって嫌だから、今後は気にしない方向で、ね?」
「関大はご配慮、痛み入ります。もし葵様がもっと魔術を学びたいと思われたなら、私が学院長にお話致しますので、お気軽にお声がけください。綾乃様の魔術の扱い方は新たな発見などがあって、大変面白く良い刺激になりますので」
「わかりました。その時はお願いします」
パレードのときとは違い、早めの速度で窓の外を流れる背景。
後部座席で揺られながら、目的地に到着するまでの間、ソフィアと時折ラディナの毒づきを交えながら会話を続けた。
「――じゃあ王女様も俺と同じで、まだ“恩寵”がなにかわかってないんだ」
「はい。召喚者の皆さまも、続々と“恩寵”を自覚させていらっしゃる中、大変申し訳無いのですが……」
「申し訳ないなんて、そんなことないよ。“恩寵”は人生の最後まで見出だせない人のほうが多いって統計で出てたし。それに“恩寵”がない人は“恩寵”持ちに勝てないなんてことはない。ついさっき証明してきた」
自分の至らなさを心底悔やむように俯くソフィアに、自分を指差しながら精一杯励ますように、実際起こり得た事実を伝える。
“恩寵”持ちの中村隼人に“恩寵”なしの俺が勝利できたように、難易度は高いが勝てないわけではない。
「“恩寵”があれば色々な場面で楽になるのは間違いないとは思うよ? ラディナが“観察眼”で人の表情から心情を察することができるように、ね」
ラディナの“恩寵”で人の心情を察せたら、交渉なんかではかなり優位に事を進められる場合もあるだろうし、隼人の“恩寵”があれば近接戦において敵を翻弄することだってできる。
「でも『楽』はなくても問題ない。だから王女様が気にする必要なはないよ。自分にできることを一つずつ、地道にやっていければ、それは何にも代え難い力になるから。王女様はまだ若いから、それをする時間は沢山あるでしょ?」
「若いからって……綾乃様と私は一つしか変わらないですよ? ――でもそうですね。私は私にできることを一つずつ、地道にやっていきます」
まるで後悔を抱いている老人が、若人に自分の失敗談を語るときのような言い回しに、クスリと微笑みながら、迷い立ち止まっていた人が、道標を見つけ歩き出したように、晴れやかな表情をみせた。
この一週間、何度か会話した程度の間柄では当然とも言える、ソフィアの柔らかな笑み。
自分の言葉で、行動で人を動かすということは、何かを成し遂げたときと同等以上の、達成感に似た何かを得られる。
それを抜きにしても、ソフィアの笑顔は人を惹き付け、惹きつけた人を持ち前の魅力で虜にする。
勿論、悪い意味ではなく、いい意味で、だ。
当人にそんなつもりは全く無いだろうけれど。
「もうしばらくすると、組合が見えてくると思いますよ」
「……あのでっかいのがそうか。パレードのときにも見たけど、やっぱり
窓の先に見えたのは、直径100メートルに及ぶ中央広場。
パレードとエキシビションマッチが催された場所だ。
異質と称したのは商業施設の多い第四区画の一角にあるひと際目を引く建物。
そこだけ時代が飛躍したかのような、周囲の建物とのミスマッチ感が迸るガラスが多用された建物。
無論、大通り沿いの建物にガラスがないわけではないし、この世界の科学技術は見知った異世界ファンタジーとは違ってかなり発展していて、ある国では食料の完全自動生産がすでに確立されているくらいには発展している。
だがそれでも、ほぼ全面ガラス張りの建物は、何度見直してもやはり異質だ。
「あのガラスって、全部対魔対物の強化ガラスなんだよね」
「その通りです。中級でも数発、上級でも一発は耐えれる超強化ガラスです」
「魔導学院も同じの使ってるって読んだけど、規模は組合より大きいよね?」
「はい、ガラスだけでなく、建材は基本的に魔術に耐性のついているものを使用していますので、王城と同じレベルの防御力を誇ります」
「さすが、三本指に数えられる学校なだけあるね」
「……え、ええ」
「……あの、さっきから気になってたんだけど、何回か目を逸らしてるのってなんか理由ある? 結構気になるんだけど……」
この馬車に乗せてもらってから、片手に数えられる程度だが逸らされてきたので、ずっと気になっていたが黙っていたことを、もう降車するとのことで思い切って聞いてみた。
その言葉に対して、ソフィアはすみません、と身を縮こまらせて、理由を述べた。
「……大変言いづらいのですが、その……綾乃様の見た目が私の好みで……まっすぐ目を見られると照れてしまうといいますか……」
頬を赤く染めながら、照れた表情で答えたソフィアの言葉に、まるで予想外だったので目が点になってしまう。
人生で初めて言われた『見た目が好み』という一文が、頭の中で何度も何度も、山びこのように反芻される。
しばらく停滞した時間が流れ、ようやくソフィアの言葉を理解した脳は活動を再開し、ひとまずソフィアの言葉に返事をしようと口を開かせた。
「――あー、えっとその……初めて言われたからなんて返せばいいのかわからないんだけど……ありがとう? でもその俺たちほら、別の世界の人間だし、それに俺は一般人で王女様は王女様じゃない? だからその――」
「わかっています。立場も目的も、過ごしてきた世界も違うのですから、この感情はこれっきり。それに、綾乃様には結愛様がいらっしゃるのですから、私ごときには無縁な話です。なので、この感情は私の中に封印しておきますので、葵様は気になさらないでください」
「いやその、一つだけ言わせてもらいたいんだけど、俺は結愛のことを家族として好きなだけで、異性としては見てないよ?」
悲哀の表情になりながら、自分の言い聞かせるように言うソフィアに、ふと我に返って言葉の一部を否定する。
その返答に、ソフィアとラディナは何を言っているのかわからないとでも言わんばかりに、頭上にクエスチョンマークを浮かべているのが見て取れるような表情になっていた。
「二人して息ピッタリだね、何その表情」
「……いえ、恋心の自覚がない人間がいるのは存じていましたが、実際目の当たりにすると思いの外びっくりしてしまうのだな、と」
「はい。私もラディナと同じ考えです」
「いや、恋心とかそんなのじゃないよ? ほんと」
葵の返事にやはり疑問符を浮かべる二人。
あいも変わらず息ピッタリな姿に、なんだか可笑しな気持ちになる。
「綾乃様。組合に到着いたしました」
「あ、ありがとうございます、御者さん」
ゆっくりと馬車が停止し、御者の女性が声をかけてくれる。
それに感謝を述べて、まだ結愛に対する気持ちのことで色々言いたいこともあったが、それはまた後でもゆっくり話せるだろう、と馬車を降りる。
「王女様、馬車に乗せていただき、ありがとうございました」
「いえ。私にできることであれば何でも致しますので、お気軽にお声がけください」
「ありがとうございます。頼りにしてます」
丁寧に馬車から降りて、同じ地面に立って挨拶をしてくれるソフィアの細かな気遣いに尊敬の念を覚えつつ、謙遜なしの強欲な返事をする。
返事を聞いて、馬車に戻ろうとしたソフィアは、思い出したように声を上げ振り返る。
「一つ、先程の会話で疑問に思ったことで、思い出したことがあるのですが」
「なんでしょうか?」
「綾乃様は――あの看板の文字が読めますか?」
「読めますよ。ええっと……食事処アルアルですね」
「表記されている文字は、綾乃様たち召喚者の元の世界――元の国の言葉ですか?」
「いえ、この世界の文字ですね。一週間経ちましたが、まだ慣れません」
「やはりそうですか……綾乃様以外の方は、この世界の文字は全て、元の国の言葉で表記されているようです。なので可能性の話ですが、綾乃様の“恩寵”は言語系のものなのかもしれません」
「……なるほど言語系。普通なら嬉しいかもしれないけど、今の話を聞く限り外れにしか聞こえないなぁ……」
「あくまで可能性ですので、まだ他の“恩寵”の可能性も残っていますので、どうか気を落とされないように……」
「ええ、ありがとうございます。その可能性を教えていただいただけでもありがたいです」
ソフィアの貴重な情報提供に感謝する。
律儀に申し訳無さそうな表情になって、ソフィアは馬車に戻っていく。
その馬車が角を曲がり、姿が見えなくなるまで見送った後、顔を上げ、改めて組合を見上げる。
ガラス張りの三階建ての建物で、周りの建物と比較すると明らかに浮いている。
しかし、最先端とも言える技術の結晶であるこの建物――ひいてはこの建物で仕事をしている人たちが、もしかしたら結愛を見つけてくれるかもしれない。
だから、気を引き締め、その扉を開いた。
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