第一章 【召喚】編

第一話 【崩れ去る日常】




 小鳥の囀りとともに、東に設置された大きめの窓から朝日が差し込んでくる。

 温かい陽光は、最近になって暑さすら覚えるようになってきたが、今日は比較的温かい。


 優しい陽の光は、ベッドで寝ている部屋主の顔を照らす。

 前々日の休日に深夜までゲームをしていた影響で昨日は早めに寝た部屋主は、陽の光を受け「……ぅん」と美少女や美少年、あるいはショタやロリなど、一部に多大な需要のある人たちならば可愛いと表現され、しかしどこにでもいるイケメンでもない男子がやったところで需要など欠片もない声を上げながら体を起こす。

 当然、意識してやっているわけではない。


 手を組み、上に伸びをしながら欠伸をする。

 まだ抜け切らぬ眠気と戦いながら、ベッド脇のサイドテーブルからブルーライトカットの三辺黒縁の丸眼鏡を手慣れた様子で掛ける。

 下の縁がないはのは、ゲームをするときに少しでも画面を見やすくするようにと考えた結果で、決してお洒落のためではない。

 決してだ。


 眼鏡を掛けた部屋主は深呼吸を一つして、若干の不安を胸の内に己の部屋を見回す。

 ベッドの足側正面にはそこまで多くない私服が入っているクローゼットがあり、クローゼットの開閉を邪魔しない位置から、壁一面を埋める大きな本棚がある。


 本棚の中身は、ラノベや漫画などがほとんどで、そのジャンルは雑多だ。

 いつの時代でも根強い人気を誇るラブコメや、多くの男子を厨二病へと導くバトルモノ、過去に流行った異世界モノなどが、部屋主の性格を表すかのようにシリーズ、ジャンルごとに分けられ綺麗に陳列されている。


 視線をずらし部屋の中央にはダンベルやマットなど、筋トレや柔軟などの道具が、これまた几帳面に置かれている。


 そのまま視線をスライドさせ、ベッド横に隣接する形にあるL字の机を視認する。

 一辺が長い方にはデュアルモニター、キーボード、マウスなどの周辺機器。

 机の下には、それらが繋がっている自作PCが置かれている。

 片方のモニターには、L字の頂点に陳列されたいくつかのコンシューマーゲームの機器が繋がれている。


 L字のもう一つの辺には、教科書やノート、筆記用具などが置かれている。

 長い辺が遊ぶ用、短い辺が勉強用と、これも几帳面に使い分けているのが見て取れる。


 いつもと変わらない部屋の様子を見て、安堵してホッと一息つく。

 内容は微塵も思い出せないが、少しばかり――いや、かなり起きてほしくない嫌な夢を見た気がした。

 だからこそ、それが夢で、ここが現実だと認識したかったのだ。

 ついでに、なぜか黒歴史の記憶が思い出され、少し心に傷を負う。


(夢の内容はもしや黒歴史に関するなにか? もう振り切ったと思ってたんだけどなぁ)


 自嘲し笑う部屋主の顔は、どこかコンプレックスを突かれたような、影の差した表情になっている。

 すぐに頭を振り、両手で顔をはさみ頬をぐにぐにと捏ねくり回す。

 最後に、頬を叩いて過去の黒歴史を封じ込めるとともに、気合を入れ直す。

 寝ている際に体に掛けていたタオルケットを軽く畳み、ベッドに腰掛けて溜息をつく。


 精神的に辛かった封印したい黒歴史を思い出してしまったことは、思いの外ダメージを与えていたらしいと再認識する。

 自分の心の弱さに辟易していると、トットットと階段を登る足音が聞こえてきた。

 その足音は迷うことなく進み、漫画であればバンッと擬音が付きそうな勢いでドアを開ける。


葵兄あおにぃ! ――あ、起きてたんだね。おはよう!」

「おはよう、あかね


 中学の制服を着た少女――妹の綾乃茜がドアの前に立っている。

 黒寄りの茶色のベリーショートヘアで、目元はキリッとしており、気の強そうな印象を与える。

 実際は、元気でハキハキとはしているものの、そこまで気の強い性格をしているわけではない。

 身長は中学二年の女子平均からすると少し低めの140センチで、体格は剣道をやっているとは思えないくらい小さい。

 だが剣道の腕はかなり立ち、その実力は県でメダルをもらえるほどだ。

 取り柄のない兄とは違い、とても優秀な妹で兄として鼻が高い。


 人並みの家族愛を持ち、妹を誇らしく思っている今しがた起床した部屋主こと綾乃葵あやのあおいは、起きない兄を心配し、起こしにくてくれたのであろう茜に挨拶する。

 茜は葵が起きているのを確認するやいなや、身を翻して部屋から出ていく。


結愛姉ゆめねぇはもう朝ごはん食べてるよ。お母さんは夜勤明けでさっき帰ってきて寝たところだから、起こさないであげてね。私とりょうは朝練あるからもう学校行くかね」

「ん、わかった。気をつけてな」

「はーい!」


 茜の簡単でわかりやすい説明に、起きていることを認知してもらうべく、しっかりと応対をする。

 ドアをしっかりと閉めて階段を降りていく茜の足音を聞きつつ、再び酸素供給の欠伸をし、涙の溜まった目元から涙を拭う。

 寝起きがいいのが自慢だったのだが、やはり一昨日までの徹夜ゲームが響いているらしい。

 睡眠も疲労も、簡単には取れなくなってくると、寄る年波には勝てないな、なんて今年度で17歳になる学生のセリフとは思えないことを考えながら、変わらない茜の様子に、知らぬ間に励まされていたことに気がつく。


 そのことに微笑みを浮かべ、よしっと声を出して、ベッドから立ち上がる。 

 そこでようやく、新学年が始まる日だと言うのに部活があるのか、とようやく冴え始めた頭で今更な感想を抱きつつ、制服に着替える。

 昨日の内に準備しておいた新学期に必要なものを入れたカバンを取り、忘れ物がないかの確認をして部屋を出る。


「あっと、忘れてた」


 部屋のドアを開けたところで、早速忘れ物に気が付き、部屋の机に向かう。

 学校に行く、というより家の外に出るのが春休み開始以降初めてなので、習慣がなくなっていただけだ、寝不足が悪いわけじゃないんだぞ、自分に言い聞かせる。


 短い方の机の上に無造作に置かれたリストバンドを手に取り、右手首につける。

 葵のつけたリストバンドは黒ベースに輪の両端部分に赤い線が走っていて、線の間にはチェーンに繋がれた刀の描かれた盾が描かれている。

 5年以上使っているせいか若干廃れているが、まだまだ現役で使える。


「今度こそ完璧だな」


 そう独りごちり階段を降りていくと、ちょうど茜と椋が玄関を出ていくところだった。


 綾乃椋は綾乃家における次男で、末っ子となる。

 二人は一卵性双生児で、男子と女子という違いさえ取っ払えば似ている部分が多くある。

 その一つが、茜とそっくりなキリッとした目元だ。

 ただやはり、男子と女子という違いは明確で、平均より小さい茜に対し、椋は中学2年生で既に170センチの身長がある。

 このまま成長されれば葵の身長など軽々と超えていくだろう。

 ちなみに葵の身長は172センチほどだ。


 坊主頭ということと、背負う荷物の細長い布ケースから推測できるように、椋は野球部で、かなり体を鍛えているので学ランの上からでもわかるがっちりとしたガタイの持ち主だ。


「二人共、行ってらっしゃい」

「行ってきまーす!」

「……行ってきます」


 葵の言葉に、茜ははっきりと手を振って、椋はボソッと葵の方を見ずに答えた。

 野球部よ、それでいいのか、と内心で突っ込みつつ、手を振ってくれている茜に手を振り返す。


 椋とは昔からウマが合わないようで、素っ気ない態度を取られている。

 過去の葵の所業を振り返ればそれも仕方がないというより、茜の態度のほうがむしろおかしいので、仲良くしてくれるといいんだけどなぁ、とどこか他人事のように考える。


 玄関のドアが閉まったところで、階段を降りて玄関にカバンを置き、洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。

 洗面台に備え付けられた鏡で最低限の身なりを整えた後、リビングに入り「おはよー」と挨拶した。

 そこそこの広さを持つリビングには、一つの大きなテーブルがあり、そこには一人の女声が座っていた。

 その女性は葵がリビングに入ってきたのがわかると、振り向き、挨拶を返してくれようとする。


「あ、口の中のもの飲み込んでね」


 葵の言葉を聞き、うんうんと頷いてから口の中のものを咀嚼し、飲み込む。

 手に持っている食べかけのパンがあることから、おそらく咀嚼中のものはパンだろう。

 咀嚼まで扉の前で待つのもなんなので葵も席に座り、目の前に座る美少女を眺める。


 振り返ったときに翻った腰まである黒髪は、サラサラとしたストレートヘアで、この髪質を維持する気苦労は、手入れが面倒で短髪を維持している葵にはわからない。

 今は制服姿だが、その佇まい、姿勢、作法、その他諸々のどこをとっても可憐だ。

 柔らかでありながらどこか悪戯っぽさもある目元は彼女の母親そっくりで、瞳の色は髪と似た澄んだ黒色をしている。

 それでいて集中しているときは柔らかい目元がキリッと変貌するので、与える印象がかなり変わる。

 どちらの場合も彼女の魅力をよく引き立てるので、葵はどちらも好きだ。


 そのまま視線を落として、暇な時間を潰していく。

 平均ほどの双丘に、制服の上からでもわかるくびれたウエスト、膝上まであるスカートから覗く健康的なスラッとした長い脚は、いい塩梅に筋肉のついたモデルよりもアスリートに近いものだ。


 だがそれでも、スタイルと顔面偏差値から考えれば、モデルと言えば信じられるレベルの美人さんだ。


 その上、多才で天才だ。

 完全記憶ではないが、基本的に一度聞いたことは忘れないし、才ある分野においては何をせずともトップレベルの実力を誇る。

 ここまでならまだ普通の天才だが、彼女の場合、その“才のある分野”の幅が広すぎるのだ。

 勉学はもとより、その幅は運動にも適応され、電車で1時間ほどの都内にある子供の才能を伸ばすことを目的とした、偏差値70超えで、試験倍率十倍は当たり前の超人気私立高校から特待生での誘いもあったほどだ。


さらに、彼女は自分に向けられた悪口や悪意を向けてきた人に対してでも、分け隔てなく接する。

 ある意味、おかしいとも取れるその行動は、彼女の生き甲斐そのものとも言えるので、葵はそのことに対して何かを思っても何も言わない。


 有り余るほどの才能に、元々の容姿も相まって、弱点などない完璧な人間のように見える。

 まさに容姿端麗、才色兼備、明眸皓歯、その他褒める関連のありとあらゆる四字熟語を具現化したような人物だ。


 だが葵は、彼女が欠点のない完璧な人間ではないことを知っている。


 例えば、彼女は一度ですべての物事を記憶できるわけではない。

 毎日、空いている時間があれば、起きたこと、聞いたことを反芻し、記憶にとどめている。

 運動も、才能があって平均よりも上には行けるが、トップレベルに達するために陰で努力を絶やさない。


 例えば、彼女は周りの評価とは違い、実はおっちょこちょいで、結構ポカする。

 家にいるときは学校にいるときより気が抜けているのか、しょっちゅうドジをかますし、初めて料理をしたときは、珍しく才能のない分野だったのか、指にこれでもかと切り傷を量産していた。

 今でこそ料理の腕は超されているが、葵のほうが料理の才能はあった。


 例えば、彼女は周りが思っているほど、強い人間ではない。

 悪口を言われれば人並み以上に傷つくし、凹みもする。

 それを一切、友人の前では出さずに溜め込んでしまうのも、欠点だ。


 例えば、彼女の双丘には、パッドが入っていて実際は――


「――なにか失礼なこと考えてない?」

「いえいえそんな滅相もない」


 持ち前の異常な勘の鋭さを発揮して、ジト目とも睨みとも取れる視線が、少し冷えた声とともに送られてくる。

 それを受けて、顔の前で両の手をブンブンと振りながら精一杯の笑みを浮かべて早口で誤魔化す。

 しばらく冷や汗をかく葵を見つめていた彼女は、ふっと柔らかな目元に戻り、視線をそらした。


「ま、いいわ。おはよう、葵」

「うん。おはよう、結愛」


 リビングで食事をとっていたのは、茜の説明にもあったとおり、板垣結愛いたがきゆめ

 葵の義姉にあたり、最愛とも言える女性ひとだ。


 名前から察せるように、結愛と葵に血の繋がりはない。

 そこには昼ドラ展開の如きドロドロな展開が――なんてことはなく、単純に結愛が綾乃家の養子に来ているのだ。

 正確に言えば養子とは少し違うのだが、説明するのも少し面倒な、そこそこ深い事情がある。


「パン焼いといたわ。葵は食べるの遅いんだから早くしないと会議遅れるわよ?」

 

 ポップアップ式のトースターのチンッという音とポップアップする音で、結愛がサッと焼けたパンを皿に移し、葵に声をかける。

 その言葉で、回想が強制シャットアウトされる。


 結愛から皿を受け取り、椅子に座る。

 バターバイフを手に取り、マーガリンを適量とってパンに塗る。


 結愛の言葉の通り、葵は朝昼夕問わず食べるのが遅い。

 亀と競っても負けるレベルだ。


(あれ? 亀って食べる速度も遅いのかな?)


 歩くのが遅いというのは童話「うさぎとかめ」に登場するので有名だが、亀の食事についてはよく知らない。

 今度調べてみようかな。


「葵、また入ってる」

「あ、うん。大丈夫、ありがと」


 自身の言葉で知識欲が疼き、パンにマーガリンを塗っていた手が止まり思考に耽ろうとしていたのを、結愛が声と眼前に手をヒラヒラさせることで遮断する。

 食事中だったのですぐに思考を切り替えられたが、これが暇なときやスマホが使えるときであれば、止まらずに欲を満たすまで調べていたところだ。

 結愛がいなければ、また食事の時間が伸びているところだ。


 昔読んだ漫画に出てきた先天性集中力過剰――いわゆる、過集中とは違うものだと思うが、病院で正式に診てもらったわけじゃないのでなんとも言い難い。

 でもおそらく、そんな大層なものではないだろう。


 手慣れた手付きでパンにマーガリンを塗り、サクッといい音を立てるパンを頬張る。

 スーパーに売っている別段高くない食パンに、同じスーパーで売っているマーガリンを塗っただけの簡単なトースト。

 舌の肥えている人なら足りない! と叫びだすかもだが、庶民舌の葵には十分すぎるくらいに美味しいものだ。

 最愛の人が焼いてくれたからだろうか、と盲目的な思考をしてみる。

 結愛が焼いてくれたトーストを2枚とも食べ、青汁で喉を潤してトースターにパンを2枚入れる。

 その間に、葵お手製のジャム――果物を使っていないから、スプレッドになるのだろうか?

 ともあれ、パンに塗るものを作ろうとして、既にそれが用意されていることに気がついた。


「あれ? これ作ってくれたの?」

「葵、食べるの遅いでしょ? 寝坊したら作ってる時間ないだろうと思ってね」

「そっか。ありがと」

「どういたしまして。もっと感謝してくれてもいいのよ?」

「それはまた今度ね」


 底の深めなお皿の中に、ドロッとした茶色っぽいものが入っている。

 これこそが、葵お手製のスプレッドだ。

 今日は結愛が作ったからか、若干色合いが違う。


 作り方は簡単で、少し深さのあるお皿に蜂蜜をたっぷり入れ、そこにすり胡麻を好きなだけ加える。

 蜂蜜の粘性の高いが、構わずに混ぜれば完成だ。


(蜂蜜と胡麻があれば誰でも簡単にできる割に、かなり美味しいんだよな。結愛はちょっと甘ったるいって言ってたけど……)


 葵は甘味――特に和菓子が好きなので、それをしょっちゅう食べるからか、甘味に対する味覚が若干おかしくなっているのかもしれない。

 結愛があまり甘いものを摂らないのも、甘ったるいと言った理由になるだろうか。


 まぁそんなわけでパンが焼けるのを待つ間に行う作業の一つがなくなった。

 今が朝でなければ考え事でもしたが、このあとは結愛に半ば無理やり入れられた生徒会の会議がある。

 なので、天井をボーッと眺めつつ、TVのニュースに耳を傾ける。

 今は天気予報をやっているようで、どうやら今日は昼過ぎから安定しない空模様のようだ。

 今日は朝から昼までなので、時間的におそらく雨には打たれないだろうな、なんてことを考える。


「私は先に行くわ。没頭しすぎて、会議に遅れないようにね」

「うん、ありがと」


 結愛は椅子から立ち上がり、自身の使ったお皿やコップなどを片付ける。

 その間に、葵に対する忠告も忘れない。

 くどいと思うかもしれないが、前科が二回ほどあるので仕方がない。


 ちょうど、結愛が立ち上がったところでパンが飛び出た。

 それを皿に移して、スプレッドを塗る。

 粘性が高いため塗るのはなかなか難しいが、パンのときはほぼ毎回作って縫って食べているので手慣れたものだ。


 二枚目にスプレッドを塗っていると、結愛は自身のカバンを持ち、リビングのドアを開けると、振り返る。


「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 結愛が手を振ってリビングを出ていく。

 それを見届けてから、待望のパンに齧り付く。

 葵にとっては程よい甘さに、すり胡麻の食感がいいアクセントを加えていて――


「――ってあ!? 辛い! 何だこれ!?」


 甘さがいきなり辛さに変わった。

 辛いものが大の苦手な葵は、ヒリヒリと痛む舌を牛乳を口に含むことで緩和しようと試みる。

 何もないよりはマシになったので、しばらくこのままにしておくことにして、何が辛いのか考察する。


「……ふふっ」


 その前に、抑えきれなかったという表現が当てはまりそうな笑い声が聞こえた。

 そちらに視線を向けてみれば、扉の影からこっそりとこちらを覗く結愛がいた。


 結愛は右手を口に当て、俯きがちに肩を震わせていた。

 その動作で、全てを察した葵はジト目になる。


「……結愛?」

「ふふふ、ごめんね。さっき、胸のことについて馬鹿にされた気がしたからこれくらいは……ね?」


 舌をペロッと出して、ウインクも同時に行い、若干首に角度をつける。

 所謂、葵たちの親世代が生まれる前に流行した“テヘペロ”をかましてくる。


 結愛の弱点というか、皆には知られてない一面で、言い忘れていたことがあった。

 時々、こうやってからかってくるのだ。

 とっても些細で、大したことにはならず、その上、結愛のコンプレックスを突いた反撃としてはかなり軽いものなので、結局は自業自得で終わってしまうような、からかいだ。


 それはいいとして――


「テヘペロは時代が古すぎる上にあざとすぎると思うんだけど」

「そんなこと言ったら葵だって、好みのものは基本十年代のじゃない。そっちも大概古いわよ?」

「……まぁ、そうだけどさ」


 反論のための言葉は、あっさりと正論で返された。

 結愛の得にしかならないと知っていながら、口を尖らせて拗ねたふりをしてみる。


「それ、あざといってわかってる?」

「結愛こそ。あざといは選ばれた人間だけの特権なので、俺みたいなのには適応されないって知ってる?」


 結愛は葵の反応に満足したのか、まだ少し笑いながら「辛いのは最初の一口だけで、二塗目からは大丈夫だと思うわよー」とフォローを入れながら、手をヒラヒラさせてリビングから出ていった。

 まぁ自業自得ではあるし、最初の頃こそ疑問が先行していたが、ここ数年はこんなやり取りが頻発しているのでもう慣れたものだ。

 本来なら今回のも事前に察せていただろうが、そこは春休み明けで気が緩んでいたということにしておこう。


「最近は特に物騒だから気をつけてねー!」

「ありがとー」


 玄関で靴を履いているであろう結愛に、大きめな声で忠告する。

 それに感謝の言葉を告げて、結愛は学校へと向かった。


 現在進行系でやっているニュースでも、デモが過激になっているだとか、つい先日に巷を騒がせた犯罪者集団の潜伏場所が判明し警察が対処に向かったとか、行方不明者が年々増加傾向にある、などの物騒なニュースだ。

つい最近では海外の高校で、修学旅行だかに向かったバスが集団失踪事件もあったりだとか、兎にも角にも物騒になっている世の中にアナウンサーが注意を呼びかけている。


 登校中の結愛に関係するものと言えば、事故とか、あるいは暴君に絡まれるだとかだろうが、そこいらのチンピラ程度であれば、結愛を負かすことはできないのであまり気にするものでもないかもしれない。

 結局、どれだけ注意しようと、そういった事件や事故に巻き込まれることはあるのを知っているので、どうしてもその注意喚起の意味の薄さに目が行ってしまう。


 ニュースがスポーツの報道に変わったところでテレビを消す。

 情報を多く取り入れると集中してしまう可能性が増すので、身の回りに関係ある最低限必要なニュース情報だけ取り入れた。

 そのまま何も考えないようにしつつ、パンをパクパクと食べ、皿を片付ける。


 会議の時間まであと三十分強あり、家から学校まではだいたい二十分弱だ。

 今日は余裕だね、と集中しすぎなかった自分を褒めつつ、母宛にいってきますと手紙を残した。

 ちなみに、父は仕事で現在海外に行っているので、家にはいない。

 帰国は予定だと今日の夕方だ。


 リビングを出て、「いってきまーす」と誰にいったわけでもない挨拶をし玄関を出る。

 春休み中、道場に行く以外に家を出なかった葵は、約二日ぶりに外で浴びた太陽の眩しさに手を翳して慣らす。

 そのまま真っ直ぐ門を出るのではなく、右の小さな庭に足を向ける。

 そこには和室の隣に備えられた縁側と、ミニトマトやイチゴなどが植えられた小さな家庭菜園、そして石の積まれた雑な墓がある。

 家庭菜園をチラッと眺め、実っているのを確認してスルー。

 そのまま歩いて、行き止まりにある石の墓の前で立ち止まって片膝をつく。

 そして手を合わせ、少し黙祷する。


 しばらく黙祷を続けていたが、おもむろに閉じていた瞼を開け、柔らかな笑みを浮かべると、石積みに向かって「いってきます」と呟く。

 知らない人が見ればただの奇行だが、葵にとっては大切なことだ。


 家の小さな門扉を抜け、学校へ向かう。


「おや葵くん、おはよう」

「おはようございます。摩利おばさん」

「今日から学校かい? 朝早くから大変だねぇ」

「今日は生徒会の用事があるので、少し早めに行こうかな、と」

「葵くん生徒会に入ってるのかい? 昔は誰にでも人見知りする子だったのに、成長したものだねぇ」

「やめてくださいよ、昔のことは」


 門扉をくぐったところで、ちょうど掃除をしていたらしき正面の家のおばさんが話しかけてきた。

 葵のことを幼少期から知る人物の中で、話好きな気のいいおばさんだ。


 サラリと幼少期のことを掘り起こされ、苦笑いしながら応対する。

 おばさんは笑い、「それじゃ、生徒会頑張ってね」と言って、手を振った。

 それに会釈して答え、通学路へ足を伸ばす。






 数分後、照りつける太陽の暑さに辟易する。


「まだ四月の中旬だぞ……。それなのにこの暑さはおかしいってホント」


 暑さは全ての物事に対するやる気が悉く失われるから嫌いだ。

 ついでに春はスギ花粉が猛威を振るうからもっと嫌いだ。


 クーラーの効いた部屋は快適で、やる気は失われないが、クーラーは電気代が嵩む。

 綾乃家は貧乏ではないし、両親が共働きしなくとも四人の子供を大学に通わせるなんてわけないくらいに給料を稼いでいるので、クーラー代程度を気にするのは、単に葵が生来の貧乏性なだけだ。


「団扇か扇子でも持ってくればよかったな……。あちぃ」


 ネガティブなことを口にすればそうなってしまう気がして普段から言わないように気をつけているが、その気遣いも暑さの前には意味をなさなかった。

 黒色の学ランのせいで暑さが増している気がするし、宿題の詰まったリュックが異様に重く感じる。

 日陰にいても汗が絶え間なく流れ、頬を伝うそれを拭うのすらもが億劫だ。

 あれもこれもどれもそれも暑さのせいだ、と太陽さんを恨めしげに睨もうとして、眩しいのでやめる。

 暑さ耐性もそうだが、眩しさ耐性も皆無なのだ。

 葵がオタクだということを抜きにしても、体質的に太陽さんは天敵だ。


 天敵への愚痴をこぼしながら歩いていると、いつも通っている傾度七度とは思えないそこそこ長い坂に出る分岐路へと辿り着いた。

 いつもならそこを登るのだが、今日は時間もあるし、この暑さの中わざわざ直射日光てんてきに晒される場所に行きたくないので、ほんの少しだけ遠回りして住宅街の影がさしている道を選ぶ。

 時折影は途切れるが、それでもずっと太陽に晒されるよりはマシだ。


 道中、階段を登り、三十分に一本程の頻度でしか来ない田舎丸出しの路線の踏切を渡り、再度住宅街に入る。

 なるべく日陰のある場所を選り好んで歩いていると、前から両手にコンビニの袋をぶら下げた腰を九十度とはいかないが、かなり曲げた老婆がヨボヨボと歩いてきていた。


 こんな朝っぱらからコンビニですか、なんて思いながら――


「手伝いますよ、お婆さん」

「おや、悪いねぇお兄さん。この歳になるともうこれくらいの荷物が重くって仕方がないよ」


 ホッホッ、と笑いながら葵に袋を渡す老婆に、無理だと知っていながらも「計画的に買えばいいのにね」と踵を返し、学校に向かう方向とは逆の方向に歩みを進める。


 この老婆は、葵が通う武術道場の師範の奥さんで、こうして助けるのは三度目になる。


 一度目は小学校入学してすぐの頃、結愛と買い物に行った帰りにお婆さんに出会い、同じように荷物を持ってあげたのだ。

 あの頃は鍛えてもいなかったし、父の筋肉質な体を受け継げずかなりヒョロヒョロだったこともあり、かなり重かったのが印象に残っている。


 二度目は中学に入り、道場にも入門したあとからだ。

 その時も荷物を持ってあげた。

 この頃には、背中が曲がってきていたと記憶している。


 三度目は中学三年のとき。

 道に迷っていたので、助けてあげた。

 小学、中学の二回は問題なかったのだが、認知症になったのか、あるいは悪化したのか、中学三年のときは家までの道を忘れていたのだ。

 過去に助けて、家まで送っていなければ、警察に行くしかなかっただろう。

 ちなみに、二度目のときは葵のことを覚えていてくれたのだが、三度目のときは忘れられていた。

 ほぼ他人の仲とは言え、知っている人に忘れられるのは、少しだけ悲しかった。


 お婆さんの家はここから歩いて十分とかからない場所にあるのだが、如何せん老婆の歩く速度が遅すぎる。

 そのせいで、二十分ほどの時間を掛けて、家に着いた。


 家のチャイムを鳴らすなり、中からドタバタと音を立てて勢いよく若い女性がでてきた。

 その女性は葵に目もくれず老婆に歩み寄り、掴みかからんばかりの勢いで尋問を始めた。

 三度目のときに一度見ている光景だが、その剣幕の凄まじさにやはり二度で慣れることはないらしい。

 申し訳程度に仲裁していると、今度は優しい雰囲気の眼鏡を掛けた青年が現れた。


「おはよう、葵君。また真子婆まこばあちゃん助けてもらったみたいで済まないね」

「おはようございます、祐介さん。知り合いが困っていたら、助けるのは当たり前ですよ」

「君は、本当によくできた人だね」

「そんなことはないですよ。自分、人見知りで若干人間不信ですから、見ず知らずに人であれば多分見なかったことにしてますよ」


 感心したように葵を褒める青年――八武崎祐介やぶさきゆうすけは、葵の卑下するような物言いに少し寂しさを孕んだ優しい笑みを浮かべる。

 まるで、「そんなことはないでしょう? 知ってるよ?」とでも言われているようだ。


 祐介さんは葵と結愛の通う道場の先輩で、師範の孫だ。

 ちなみに、老婆もとい真子さんに物凄い剣幕で説教している女性は、祐介さんの妻の八武崎千花やぶさきちかさん。

 道場には通っていないが、時折差し入れでおにぎりをくれたりする。

 ちなみに、そのおにぎりはめっちゃ美味しい。


「制服着てるし今日は学校でしょ? 時間、大丈夫? お礼に送ってくよ」


 葵から袋を受け取った祐介は、玄関にその袋を持っていきながら尋ねてきた。

 正直、今から送ってもらったところで、通勤時間真っ只中のこの時間の道路はいくら都会に近い田舎とは言えかなり混む。


「いえ、大丈夫です。学校には十分間に合う時間ですので、歩いていきますよ」

「そっか。じゃあ気をつけていくんだよ」

「はい。お邪魔しました」


 そう言って葵は玄関先から踵を返す。

 学校には間に合えど生徒会の会議には間に合わないので、もういっそギリギリを狙って結愛の追求を逃れてやろうか、と考えていると、学ランの裾を引かれた。

 振り返ると、真子が震える腕を一生懸命上げて、葵の方に握り拳を差し出していた。


「お兄さん、助かったよ。これ、御守り。よかったら持っていってな」

「あ、えと……ありがとうございます」


 御守りと言った五百円玉程度の大きさの魔法陣に似た精巧な模様の描かれたコインを受け取り、同時に祐介に視線を送る。

 三度目に助けたときに、これと同じ御守りを貰っているのだ。

 なので、もう一度貰ってもいいのか、という視線だ。


「貰っちゃって大丈夫だよ。真子婆ちゃんが趣味で作ってたものだし、御守りの効果があるかはわからないけどね」


 隣を見れば、千花が頷いている。

 ならいいのか、とコインを胸ポケットへと入れ、膝を曲げて真子さんに目線を合わせる。


「ありがとうございます。大事にしますね」

「うんうん。そうしておくれ」


 朗らかな笑みを浮かべる真子。

 ではまた、と改めて学校へ向かう。

 千花の感謝の声を聞き、会釈だけして敷地をでた。






 * * * * * * * * * *






 会議は始業のチャイムが鳴る一時間前の集合だ。

 おばあさんの家から学校に向かい、会議には間に合わないことはもうわかりきっているので道中にあった公園で仮眠をとった。

 そのお陰で危うく寝坊しそうになったが始業までには間に合い、始業チャイムの十五分ほど前に学校に到着した。


 道中、公園で仮眠して時間を潰した理由は言わずもがな。

 会議に遅れるなと釘を差されたのにも関わらず遅れたことの説明が面倒だというのが理由だ。

 結愛にならお婆さんを助けたと言うだけで済むが、他の人がいると葵の立場的に色々と厄介なのだ。

 友人の大切さは知っているが、それで時間が失われるのは嫌なので学校での友好関係は作りたくない。


 そこにはトラウマの影響もあるし、葵の生来の性格にも由来する。

 ともあれ、説明が嫌なので敢えて時間を遅らせて、口を挟まれる前に教室に入ってしまおうという算段だ。

 連絡無しで休むなんて、社会人だったら失格もんだな、と言い訳する自分を卑下する。

 葵と同じクラスで、同じく生徒会の書紀をやってる小野さんには後で謝罪しておこう、と心の内で決める。


 新学期の始業式ということもあって、少しばかり装飾された校門が葵たち学生を迎え入れた。

 校門をくぐり、左手の校舎にある昇降口に行き、一旦一年生のときに使っていた下駄箱に靴を入れ上履きに履き替える。

 今日は始業式を行い、その後クラス発表があり、下駄箱の移動やらなんやらをして午前で終わるのが今日の日程だ。

 春休み前と変わらない廊下を歩き、東階段を使って四階まで上がり、一年F組の教室の後方ドアを開ける。


 新学期初日だからか、気合の入ったクラスメイトはほとんどが出席していた。

 葵は遅めの登校だったようで、教室に入るなり視線が集中した。

 そこには色々な感情が絡んでいるが、葵は悉くを無視して窓から二列目の最後方の自席に座る。

 有象無象の視線に一々構っていると時間を取られるし、時間を有効活用したいという理由で友達を作っていないのだから、反応する必要もない。


 そもそも、他人と関わるのは生来の性格と、トラウマ的に遠ざけたいのだ。

 だから、決して友だちができなくてボッチしてるんじゃないぞ、と誰にいうでもなく内心でツンデレる。


 言っておいて誰が得するんだこんなキャラ、とツッコミを入れながら、カバンから宿題などの荷物を取り出す。

 準備を整えているころにはクラスメイトからの注目はなくなっていた。

 

 目立つのが苦手な葵はホット一息付き、HR開始まではまだ時間があるので、寝不足だし少し寝てようかと机に突っ伏そうとする。

 だがその前に、にわかにクラスメイトが騒がしくなった。

 普段はそんなものは雑音と思いスルー待ったなしだが、なんとなくこちらに視線が向いている気がする。

 葵は“気”なんて感じ取れないが、一年も同じような視線に晒されていればなんとなくわかるのだ。

 視線だけを上げてみると、再び葵に視線が集まっている。


 ――いや、俺というよりは、俺の後ろのような……


 そこまで考えたところで、右肩をポンポンと叩かれた。

 この学校において、葵にボディタッチしてくる存在など一人しかいない。

 やだなぁ、わざわざ到着を遅らせた意味ないなぁ、とボヤきつつ、振り向く。


 すると頬に指が刺さり、かたいツメ部分がじんわりと柔らかな痛みで刺激してくる。

 振り向いた人の頬に指を立てる、古典的ないたずら――からかいの一種だ。


「おはようございます。結愛生徒会長」

「おはよう葵。挨拶するとはいい心掛けね。それはともかくとして早速、会議に遅れるどころか無断欠席した理由を聞こうかしら?」


 振り向いた葵の後ろでは、誰かがコソコソと話しているのが聞こえる。

 ゲーム脳ならぬゲーム耳で聞き分ける能力が高いだけの葵の耳は、会話の内容までは聞き取れない。

 それよりも、笑っているのに笑っていないのがわかる笑みを浮かべる結愛の質問に答えなければならない。


 苦手な作り笑いで申し訳無さそうな刺激を与えない笑みを浮かべ、周囲の人間に関係が悟られないように言葉遣いも他人行儀なものに変えて話す。

 結愛は既に呼び捨てだが、生徒に対しては名字か名前を呼び捨てることが多いので、葵が気をつけていれば問題ない。

 あとは上手い言い訳だ。


「……えーっとですね。その、ちょっと野暮用ができまして」

「野暮用、ね。具体的に何をしていたのか教えてもらえる?」

「……言わなきゃだめですかね?」

「当然でしょう? 葵は学校を休むときに連絡しないのかしら?」


 下手くそな自分の言い訳に対する焦りと、確実に追い込まれているという焦りで、本日二度目の冷や汗が頬を伝う。

 たちの悪いことに、結愛は持ち前の察しの良さで大方の事情を察しているのだろうが、それをわかった上で“葵をからかう”という目的のために、敢えて大きめの声で葵を追い詰めている。


 会議に遅れたことに対する罰はもうすでにどこかへ消え去り、目的がすり替わっている。

 その上、揚げ足取りや粗探しをして相手を煽る程度の葵の話術では、結愛には種が割れているし、そもそも結愛は対葵煽り耐性がカンストしているので意味がない。

 厄介だ……と思いつつ、どうにかしてこの場を切り抜けようと思考する。


 そこでふと、結愛の襟元からキラリと光るチェーンが見えた。

 見覚えのあったそれに、思わず誤魔化すことも忘れて尋ねる。


「まだ持ってたんだね、それ」


 葵が自分の首を指して示したそれに、結愛は自分の首元からそれを取り出し、割れ物を扱うような丁寧な所作で両手に出すと少し照れた表情で笑う。


「それは……ね。大事なものだから」

「……そっか。でも気をつけなよ? 授業に必要ないものは見つかったら没収されるよ?」

「この程度で勉強の阻害になるはずないでしょう? ……でもそうね。これも変えていけるかしら」

「おっ、また生徒会長の仕事?」

「伝統を重視するのも大事だけれど、無為な束縛や思考停止した固定観念は、むしろ勉学の邪魔になると思っているわ」

「この学校の人なら誰でも知ってるよ、それ」


 ペンダントの件が終わってから思考力を取り戻した葵は、意図せず話題が逸れたことに安堵しつつ、もう少し引き延ばそうと話題を振り、結愛も乗ってきてくれた。

 ありがたい、と更に便乗し、結愛を調子づかせる発言で場を引き伸ばす。


「流石、たった一年で色々変えまくった優等生で生徒から大人気の生徒会長は言うことが違いますね」

「おだてても何も出ないわよ?」


 と、そのタイミングで鐘がなった。

 キーンコーンカーンコーンという、どこの学校でも流れる定番の音楽だ。

 同じタイミングで教室の前の扉がスライドし、担任の加藤龍之介かとうりゅうのすけが入ってくる。


「おーうみんな終業式ぶりだなー。チャイムなったぞー。そろそろ準備しろー」

「まだ十分ありますよー龍先生ー」

「おうおう、口答えするとはいい度胸だぁ! 部活のメニュー増やしちゃる!」

「えぇー! ご勘弁をーー!」


 クラスメイトの一人と楽しそうに会話している通称龍先生は、始業式前からギアが入っているようだ。

 彼の持ち味はクラスメイトとの距離の近さで、担任のFクラスだけでなく、学年、性別問わずに好かれている。

 今も、あの少ないやり取りで周囲にいたグループを笑いの渦に巻き込んでいる。


 春休み中は一度も合わなかったので知らなかったが、体格が更にガッチリしているように見える。

 空手部顧問だったはずなので、会話の内容からもしや空手部は春休み中筋トレ尽くしだったのだろうか。


 とにかく、時間まで追求を逃れ、この場での詳しい説明をせずに済んだことに、作戦通りだぜ、とほくそ笑む葵に対し、結愛は残念そうな表情で呟いた。


「鳴ってしまったわね。むぅ、仕方ない。じゃあ葵。夕ご飯にビーフシチュー作ってくれたら、今回の件は不問とするわ」

「覚えてた……いやまぁ、結愛を思い通りに動かせてる時点で気がつくべきだったけども……。いやそれよりも、その条件って会議に遅れた罰じゃないよね? 結愛が食べたいだけじゃ――」

「人に悪いと思っているのなら誠意を示すべきよ。私はこれで許すので、他の会員にはしっかりと謝罪して、許しを得ること!」

「いやでも一昨日もビーフシチューだった――」

「特に! 今日は会議が順調に進んだお陰で、日菜ちゃんは書き取り大変だったんだから、ちゃんと誠意を見せること。わかったら返事」

「それはわかってます。不義理な真似はしたくないですから」


 日菜ちゃんというのは、生徒会書記の二人のうちの一人で、葵と同じクラスの小野日菜子おのひなこという少女だ。

 結愛を美人系の美少女とするなら、日菜子はかわいい系の美少女。

 葵的には結愛に劣るので、生徒会メンバーという観点でしか見たことはないが、彼女の性格や仕事への取り組みなどはとても一生懸命で、見ていて感心するものはある。

 生徒会で見てる状態がデフォルトならば、他人から好かれる要素はかなり豊富だろうと思う。


「どの口が不義理を……まぁ、いいわ。それじゃ連絡。今日の放課後の会議はないわ」

「わかった」


 指を立て、顔の前でくるくるさせながら報告する結愛は、葵の返事を聞いて満足したのか、後方の扉の方へ踵を返す。

 去っていく結愛の背中をボーッと眺め、始業式等が終わったあとのビーフシチューの材料をどうしようか考える。

 見ているようで見ていないその背中がドアの影に隠れ、ようやく一安心だ、と一息ついた。




 ――瞬間




 ポゥ、と床が光りだした。


 否。

 光りだした瞬間は、集中していたため気がつけなかった。

 周りのクラスメイトが騒ぎ出し、後ずさった生徒の一人が葵の机にぶつかり、半強制的に意識が戻ったときに見たのがそれだ。


 そこには、異世界召喚モノでよくある展開。

 光り輝く魔法陣が、刻々と光を増している。

 そんな、現実では起こり得ないと思っていた、ファンタジー要素満載のそれ。


 床に突如として現れた光るそれを魔法陣だと認識した瞬間、葵は後方ドアへと駆けていた。

 異世界召喚に憧れを抱いたことがないわけではない。

 過去に一大ブームを築き、良くも悪くもアニメ業界を盛り上げた異世界モノのブーム。

 その時代のアニメも漫画もラノベも、葵は大好きで、よく読んでいた。

 だから、憧れはあった。


 でも現実でそれが起こっても、高揚はすれど嬉しさはない。

 ラノベでは主人公は異世界へ行くと強くなれるし、例えそうでなくとも、何か特別なものに恵まれる。

 人を動かす才能や、人を服従させるなにか、あるいは死んでやり直せる力などなど。


 でも俺は知っている。

 自分自身がどうしようのないほどのモブだということを。

 一般的な高校生とも、普通の高校生ともかけ離れていることは自覚している。


 成績はオールAで、一年時の中間と期末テストで常に学年一桁を張り続けた自分が、普通であるはずがない。

 しかし、俺はモブだ。

 主人公に足る器じゃないのは小学二年と、小学五年のときに、嫌というほど思い知らされた。


 器で言えば、結愛や小野さん、小野さんの幼馴染という二宮翔にのみやかけるのほうが圧倒的に主人公らしい。

 彼は成績優秀で運動神経も抜群、葵と違いイケメンで男女問わず優しいと聞く。

 だから、俺は主人公でもなんでもない。ただのすごめのモブ、精々が脇役なのだから、わざわざ命を懸けてまで異世界に赴き、あるかどうかもわからない覚醒を望めるほど、楽観視できない。




 それに、ここで異世界に行ってしまえば、結愛との誓いが果たせなくなる。

 それだけは、絶対に、何としても、避けなければならない。




 だから、駆けた。

 必死に、ここ数日サボっていてなまった体を叩き起こし、後方のドアへと駆けた。

 このまま魔法陣が加速したりしなければ、ギリギリ魔法陣の光が教室を埋め尽くす前にドアを出られるはずだ。

 このまま行ければ――




「――葵ッ!!!」




 そう易易と、運命からは逃れられない。

 どうしても、避けられないことがあることは、なんとなくわかっていた。




 でも、なんで、どうして――




「来ちゃだめだッッ!!」


 前方のドアが勢いよく開き、驚愕と悲壮に満ちた表情の結愛が、葵の名を呼んだ。

 その姿を見た途端、無意識に、反射的に、目指す方向を変えた。

 足への負担など考えず、強引に爪先の向きを変え、目標を後方ドアから前方ドア――葵を救おうと教室に足を踏み入れる結愛の元へと全力で。


 この魔方陣が、異世界への召喚だと決まったわけではない。

 可能性は限りなくゼロに等しいが、手の込んだ大掛かりなドッキリということもある。


 だがこんな物理的にありえない、ファンタジーなことを、大人数の人間をターゲットとしている以上、こちらに何らかの影響ひがいは齎すはずだ。

 刻一刻と光を増していく魔法陣。

 あと数秒もすればおそらくその真意がわかるだろう。


 現実か、ドッキリか。

 ただそれを、呆然と待ち受けられるほど、大人しい性格ではない。

 可能性があるのなら、出来得る限りの全力を尽くして抗う。

 



 ――そう決めたのだから




 心配で揺らぐ瞳。

 ドアの淵に手をかけて、反対の手を伸ばす結愛。

 危険だとわかっているこの教室に足を踏み入れ、葵の手を引っ張ってでもこの教室から逃れさせようとしているのがわかる。


 心配してくれてるのはいくら鈍感な俺でもわかる。

 とても嬉しい。

 大切な人から受け取る感情は、どれも温かくて、とても嬉しい。


 だけど。

 それでも。

 結愛には、幸せになってほしい。

 自分勝手なのはわかってるけれど。

 今まで不幸な目に遭ってきた分、報われてほしい。

 心の底から、そう思う。


 そこに俺がいられないのは残念だけど、結愛が無事ならそれでいい。

 俺を絶望の淵から救ってくれた結愛が幸せでいられるのなら、どんな犠牲も厭わない。



 ――この身を、捨て石にしようとも




 慌てふためくクラスメイトの上を跳ぶ――

 魔法陣が光を増す。




 机を踏み場に、なるべく一直線で、結愛の元へ――

 魔法陣が光の粒子を宙に漂わせる。




 突き飛ばせば痛いだろう。

 この勢いをそのまま結愛へと向ければ、痛いのは想像に難くない。




 それでも、結愛をこの危険域から出すためには、これしかない。

 緊急事態のときに、人を突き飛ばすのはよくないことだ。

 まして、男子が女子を押せば、倒れる可能性は高いし、怪我をしてその後の行動に支障が出るかもしれない。

 だから、突き飛ばすのは最終手段。




 ――そして今は、その最終手段を取るべき場面だ




 守りたいのだ――

 救いたいのだ――




 だから――!

 なんとしてでも――――!!!






 魔法陣の光が、網膜を焼くほどの眩い光を放ち、教室全体を包み込んだ。










  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます