第一章 【召喚】編

第一話 【崩れ去る日常】




 小鳥の囀りとともに、東に設置された大きめの窓から朝日が差し込んでくる。

 温かい陽光は、最近になって暑さすら覚えるようになってきたが、今日は比較的温かい。


 優しい陽の光は、ベッドで寝ている部屋主の顔を照らす。

 前々日の休日に深夜までゲームをしていた影響で昨日は早めに寝た部屋主は、陽の光を受け「……ぅん」と美少女や美少年、あるいはショタやロリなど、一部に多大な需要のある人たちならば可愛いと表現され、しかしどこにでもいるイケメンでもない男子がやったところで需要など欠片もない声を上げながら体を起こす。

 当然、意識してやっているわけではない。


 手を組み、上に伸びをしながら欠伸をする。

 まだ抜け切らぬ眠気と戦いながら、ベッド脇のサイドテーブルからブルーライトカットの三辺黒縁の丸眼鏡を手慣れた様子で掛ける。

 下の縁がないはのは、ゲームをするときに少しでも画面を見やすくするようにと考えた結果で、決してお洒落のためではない。

 決してだ。


 眼鏡を掛けた部屋主は深呼吸を一つして、若干の不安を胸の内に己の部屋を見回す。

 ベッドの足側正面にはそこまで多くない私服が入っているクローゼットがあり、クローゼットの開閉を邪魔しない位置から、壁一面を埋める大きな本棚がある。


 本棚の中身は、ラノベや漫画などがほとんどで、そのジャンルは雑多だ。

 いつの時代でも根強い人気を誇るラブコメや、多くの男子を厨二病へと導くバトルモノ、過去に流行った異世界モノなどが、部屋主の性格を表すかのようにシリーズ、ジャンルごとに分けられ綺麗に陳列されている。


 視線をずらし部屋の中央にはダンベルやマットなど、筋トレや柔軟などの道具が、これまた几帳面に置かれている。


 そのまま視線をスライドさせ、ベッド横に隣接する形にあるL字の机を視認する。

 一辺が長い方にはデュアルモニター、キーボード、マウスなどの周辺機器。

 机の下には、それらが繋がっている自作PCが置かれている。

 片方のモニターには、L字の頂点に陳列されたいくつかのコンシューマーゲームの機器が繋がれている。


 L字のもう一つの辺には、教科書やノート、筆記用具などが置かれている。

 長い辺が遊ぶ用、短い辺が勉強用と、これも几帳面に使い分けているのが見て取れる。


 いつもと変わらない部屋の様子を見て、安堵してホッと一息つく。

 内容は微塵も思い出せないが、少しばかり――いや、かなり起きてほしくない嫌な夢を見た気がした。

 だからこそ、それが夢で、ここが現実だと認識したかったのだ。

 ついでに、なぜか黒歴史の記憶が思い出され、少し心に傷を負う。


(夢の内容はもしや黒歴史に関するなにか? もう振り切ったと思ってたんだけどなぁ)


 自嘲し笑う部屋主の顔は、どこかコンプレックスを突かれたような、影の差した表情になっている。

 すぐに頭を振り、両手で顔をはさみ頬をぐにぐにと捏ねくり回す。

 最後に、頬を叩いて過去の黒歴史を封じ込めるとともに、気合を入れ直す。

 寝ている際に体に掛けていたタオルケットを軽く畳み、ベッドに腰掛けて溜息をつく。


 精神的に辛かった封印したい黒歴史を思い出してしまったことは、思いの外ダメージを与えていたらしいと再認識する。

 自分の心の弱さに辟易していると、トットットと階段を登る足音が聞こえてきた。

 その足音は迷うことなく進み、漫画であればバンッと擬音が付きそうな勢いでドアを開ける。


葵兄あおにぃ! ――あ、起きてたんだね。おはよう!」

「おはよう、あかね


 中学の制服を着た少女――妹の綾乃茜がドアの前に立っている。

 黒寄りの茶色のベリーショートヘアで、目元はキリッとしており、気の強そうな印象を与える。

 実際は、元気でハキハキとはしているものの、そこまで気の強い性格をしているわけではない。

 身長は中学二年の女子平均からすると少し低めの140センチで、体格は剣道をやっているとは思えないくらい小さい。

 だが剣道の腕はかなり立ち、その実力は県でメダルをもらえるほどだ。

 取り柄のない兄とは違い、とても優秀な妹で兄として鼻が高い。


 人並みの家族愛を持ち、妹を誇らしく思っている今しがた起床した部屋主こと綾乃葵あやのあおいは、起きない兄を心配し、起こしにくてくれたのであろう茜に挨拶する。

 茜は葵が起きているのを確認するやいなや、身を翻して部屋から出ていく。


結愛姉ゆめねぇはもう朝ごはん食べてるよ。お母さんは夜勤明けでさっき帰ってきて寝たところだから、起こさないであげてね。私とりょうは朝練あるからもう学校行くかね」

「ん、わかった。気をつけてな」

「はーい!」


 茜の簡単でわかりやすい説明に、起きていることを認知してもらうべく、しっかりと応対をする。

 ドアをしっかりと閉めて階段を降りていく茜の足音を聞きつつ、再び酸素供給の欠伸をし、涙の溜まった目元から涙を拭う。

 寝起きがいいのが自慢だったのだが、やはり一昨日までの徹夜ゲームが響いているらしい。

 睡眠も疲労も、簡単には取れなくなってくると、寄る年波には勝てないな、なんて今年度で17歳になる学生のセリフとは思えないことを考えながら、変わらない茜の様子に、知らぬ間に励まされていたことに気がつく。


 そのことに微笑みを浮かべ、よしっと声を出して、ベッドから立ち上がる。 

 そこでようやく、新学年が始まる日だと言うのに部活があるのか、とようやく冴え始めた頭で今更な感想を抱きつつ、制服に着替える。

 昨日の内に準備しておいた新学期に必要なものを入れたカバンを取り、忘れ物がないかの確認をして部屋を出る。


「あっと、忘れてた」


 部屋のドアを開けたところで、早速忘れ物に気が付き、部屋の机に向かう。

 学校に行く、というより家の外に出るのが春休み開始以降初めてなので、習慣がなくなっていただけだ、寝不足が悪いわけじゃないんだぞ、自分に言い聞かせる。


 短い方の机の上に無造作に置かれたリストバンドを手に取り、右手首につける。

 葵のつけたリストバンドは黒ベースに輪の両端部分に赤い線が走っていて、線の間にはチェーンに繋がれた刀の描かれた盾が描かれている。

 5年以上使っているせいか若干廃れているが、まだまだ現役で使える。


「今度こそ完璧だな」


 そう独りごちり階段を降りていくと、ちょうど茜と椋が玄関を出ていくところだった。


 綾乃椋は綾乃家における次男で、末っ子となる。

 二人は一卵性双生児で、男子と女子という違いさえ取っ払えば似ている部分が多くある。

 その一つが、茜とそっくりなキリッとした目元だ。

 ただやはり、男子と女子という違いは明確で、平均より小さい茜に対し、椋は中学2年生で既に170センチの身長がある。

 このまま成長されれば葵の身長など軽々と超えていくだろう。

 ちなみに葵の身長は172センチほどだ。


 坊主頭ということと、背負う荷物の細長い布ケースから推測できるように、椋は野球部で、かなり体を鍛えているので学ランの上からでもわかるがっちりとしたガタイの持ち主だ。


「二人共、行ってらっしゃい」

「行ってきまーす!」

「……行ってきます」


 葵の言葉に、茜ははっきりと手を振って、椋はボソッと葵の方を見ずに答えた。

 野球部よ、それでいいのか、と内心で突っ込みつつ、手を振ってくれている茜に手を振り返す。


 椋とは昔からウマが合わないようで、素っ気ない態度を取られている。

 過去の葵の所業を振り返ればそれも仕方がないというより、茜の態度のほうがむしろおかしいので、仲良くしてくれるといいんだけどなぁ、とどこか他人事のように考える。


 玄関のドアが閉まったところで、階段を降りて玄関にカバンを置き、洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨く。

 洗面台に備え付けられた鏡で最低限の身なりを整えた後、リビングに入り「おはよー」と挨拶した。

 そこそこの広さを持つリビングには、一つの大きなテーブルがあり、そこには一人の女声が座っていた。

 その女性は葵がリビングに入ってきたのがわかると、振り向き、挨拶を返してくれようとする。


「あ、口の中のもの飲み込んでね」


 葵の言葉を聞き、うんうんと頷いてから口の中のものを咀嚼し、飲み込む。

 手に持っている食べかけのパンがあることから、おそらく咀嚼中のものはパンだろう。

 咀嚼まで扉の前で待つのもなんなので葵も席に座り、目の前に座る美少女を眺める。


 振り返ったときに翻った腰まである黒髪は、サラサラとしたストレートヘアで、この髪質を維持する気苦労は、手入れが面倒で短髪を維持している葵にはわからない。

 今は制服姿だが、その佇まい、姿勢、作法、その他諸々のどこをとっても可憐だ。

 柔らかでありながらどこか悪戯っぽさもある目元は彼女の母親そっくりで、瞳の色は髪と似た澄んだ黒色をしている。

 それでいて集中しているときは柔らかい目元がキリッと変貌するので、与える印象がかなり変わる。

 どちらの場合も彼女の魅力をよく引き立てるので、葵はどちらも好きだ。


 そのまま視線を落として、暇な時間を潰していく。

 平均ほどの双丘に、制服の上からでもわかるくびれたウエスト、膝上まであるスカートから覗く健康的なスラッとした長い脚は、いい塩梅に筋肉のついたモデルよりもアスリートに近いものだ。


 だがそれでも、スタイルと顔面偏差値から考えれば、モデルと言えば信じられるレベルの美人さんだ。


 その上、多才で天才だ。

 完全記憶ではないが、基本的に一度聞いたことは忘れないし、才ある分野においては何をせずともトップレベルの実力を誇る。

 ここまでならまだ普通の天才だが、彼女の場合、その“才のある分野”の幅が広すぎるのだ。

 勉学はもとより、その幅は運動にも適応され、電車で1時間ほどの都内にある子供の才能を伸ばすことを目的とした、偏差値70超えで、試験倍率十倍は当たり前の超人気私立高校から特待生での誘いもあったほどだ。


さらに、彼女は自分に向けられた悪口や悪意を向けてきた人に対してでも、分け隔てなく接する。

 ある意味、おかしいとも取れるその行動は、彼女の生き甲斐そのものとも言えるので、葵はそのことに対して何かを思っても何も言わない。


 有り余るほどの才能に、元々の容姿も相まって、弱点などない完璧な人間のように見える。

 まさに容姿端麗、才色兼備、明眸皓歯、その他褒める関連のありとあらゆる四字熟語を具現化したような人物だ。


 だが葵は、彼女が欠点のない完璧な人間ではないことを知っている。


 例えば、彼女は一度ですべての物事を記憶できるわけではない。

 毎日、空いている時間があれば、起きたこと、聞いたことを反芻し、記憶にとどめている。

 運動も、才能があって平均よりも上には行けるが、トップレベルに達するために陰で努力を絶やさない。


 例えば、彼女は周りの評価とは違い、実はおっちょこちょいで、結構ポカする。

 家にいるときは学校にいるときより気が抜けているのか、しょっちゅうドジをかますし、初めて料理をしたときは、珍しく才能のない分野だったのか、指にこれでもかと切り傷を量産していた。

 今でこそ料理の腕は超されているが、葵のほうが料理の才能はあった。


 例えば、彼女は周りが思っているほど、強い人間ではない。

 悪口を言われれば人並み以上に傷つくし、凹みもする。

 それを一切、友人の前では出さずに溜め込んでしまうのも、欠点だ。


 例えば、彼女の双丘には、パッドが入っていて実際は――


「――なにか失礼なこと考えてない?」

「いえいえそんな滅相もない」


 持ち前の異常な勘の鋭さを発揮して、ジト目とも睨みとも取れる視線が、少し冷えた声とともに送られてくる。

 それを受けて、顔の前で両の手をブンブンと振りながら精一杯の笑みを浮かべて早口で誤魔化す。

 しばらく冷や汗をかく葵を見つめていた彼女は、ふっと柔らかな目元に戻り、視線をそらした。


「ま、いいわ。おはよう、葵」

「うん。おはよう、結愛」


 リビングで食事をとっていたのは、茜の説明にもあったとおり、板垣結愛いたがきゆめ

 葵の義姉にあたり、最愛とも言える女性ひとだ。


 名前から察せるように、結愛と葵に血の繋がりはない。

 そこには昼ドラ展開の如きドロドロな展開が――なんてことはなく、単純に結愛が綾乃家の養子に来ているのだ。

 正確に言えば養子とは少し違うのだが、説明するのも少し面倒な、そこそこ深い事情がある。


「パン焼いといたわ。葵は食べるの遅いんだから早くしないと会議遅れるわよ?」

 

 ポップアップ式のトースターのチンッという音とポップアップする音で、結愛がサッと焼けたパンを皿に移し、葵に声をかける。

 その言葉で、回想が強制シャットアウトされる。


 結愛から皿を受け取り、椅子に座る。

 バターバイフを手に取り、マーガリンを適量とってパンに塗る。


 結愛の言葉の通り、葵は朝昼夕問わず食べるのが遅い。

 亀と競っても負けるレベルだ。


(あれ? 亀って食べる速度も遅いのかな?)


 歩くのが遅いというのは童話「うさぎとかめ」に登場するので有名だが、亀の食事についてはよく知らない。

 今度調べてみようかな。


「葵、また入ってる」

「あ、うん。大丈夫、ありがと」


 自身の言葉で知識欲が疼き、パンにマーガリンを塗っていた手が止まり思考に耽ろうとしていたのを、結愛が声と眼前に手をヒラヒラさせることで遮断する。

 食事中だったのですぐに思考を切り替えられたが、これが暇なときやスマホが使えるときであれば、止まらずに欲を満たすまで調べていたところだ。

 結愛がいなければ、また食事の時間が伸びているところだ。


 昔読んだ漫画に出てきた先天性集中力過剰――いわゆる、過集中とは違うものだと思うが、病院で正式に診てもらったわけじゃないのでなんとも言い難い。

 でもおそらく、そんな大層なものではないだろう。


 手慣れた手付きでパンにマーガリンを塗り、サクッといい音を立てるパンを頬張る。

 スーパーに売っている別段高くない食パンに、同じスーパーで売っているマーガリンを塗っただけの簡単なトースト。

 舌の肥えている人なら足りない! と叫びだすかもだが、庶民舌の葵には十分すぎるくらいに美味しいものだ。

 最愛の人が焼いてくれたからだろうか、と盲目的な思考をしてみる。

 結愛が焼いてくれたトーストを二枚とも食べ、青汁で喉を潤してトースターにパンを2枚入れる。

 その間に、葵お手製のジャム――果物を使っていないから、スプレッドになるのだろうか?

 ともあれ、パンに塗るものを作ろうとして、既にそれが用意されていることに気がついた。


「あれ? これ作ってくれたの?」

「葵、食べるの遅いでしょ? 寝坊したら作ってる時間ないだろうと思ってね」

「そっか。ありがと」

「どういたしまして。もっと感謝してくれてもいいのよ?」

「それはまた今度ね」


 底の深めなお皿の中に、ドロッとした茶色っぽいものが入っている。

 これこそが、葵お手製のスプレッドだ。

 今日は結愛が作ったからか、若干色合いが違う。


 作り方は簡単で、少し深さのあるお皿に蜂蜜をたっぷり入れ、そこにすり胡麻を好きなだけ加える。

 蜂蜜の粘性の高いが、構わずに混ぜれば完成だ。


(蜂蜜と胡麻があれば誰でも簡単にできる割に、かなり美味しいんだよな。結愛はちょっと甘ったるいって言ってたけど……)


 葵は甘味――特に和菓子が好きなので、それをしょっちゅう食べるからか、甘味に対する味覚が若干おかしくなっているのかもしれない。

 結愛があまり甘いものを摂らないのも、甘ったるいと言った理由になるだろうか。


 まぁそんなわけでパンが焼けるのを待つ間に行う作業の一つがなくなった。

 今が朝でなければ考え事でもしたが、このあとは結愛に半ば無理やり入れられた生徒会の会議がある。

 なので、天井をボーッと眺めつつ、TVのニュースに耳を傾ける。

 今は天気予報をやっているようで、どうやら今日は昼過ぎから安定しない空模様のようだ。

 今日は朝から昼までなので、時間的におそらく雨には打たれないだろうな、なんてことを考える。


「私は先に行くわ。没頭しすぎて、会議に遅れないようにね」

「七時からだったよね?」

「そうよ」

「うん、大丈夫。ありがと」


 結愛は椅子から立ち上がり、自身の使ったお皿やコップなどを片付ける。

 その間に、葵に対する忠告も忘れない。

 くどいと思うかもしれないが、前科が二回ほどあるので仕方がない。


 ちょうど、結愛が立ち上がったところでパンが飛び出た。

 それを皿に移して、スプレッドを塗る。

 粘性が高いため塗るのはなかなか難しいが、パンのときはほぼ毎回作って縫って食べているので手慣れたものだ。


 二枚目にスプレッドを塗っていると、結愛は自身のカバンを持ち、リビングのドアを開けると、振り返る。


「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


 結愛が手を振ってリビングを出ていく。

 それを見届けてから、待望のパンに齧り付く。

 葵にとっては程よい甘さに、すり胡麻の食感がいいアクセントを加えていて――


「――ってあ!? 辛い! 何だこれ!?」


 甘さがいきなり辛さに変わった。

 辛いものが大の苦手な葵は、ヒリヒリと痛む舌を牛乳を口に含むことで緩和しようと試みる。

 何もないよりはマシになったので、しばらくこのままにしておくことにして、何が辛いのか考察する。


「……ふふっ」


 その前に、抑えきれなかったという表現が当てはまりそうな笑い声が聞こえた。

 そちらに視線を向けてみれば、扉の影からこっそりとこちらを覗く結愛がいた。


 結愛は右手を口に当て、俯きがちに肩を震わせていた。

 その動作で、全てを察した葵はジト目になる。


「……結愛?」

「ふふふ、ごめんね。さっき、胸のことについて馬鹿にされた気がしたからこれくらいは……ね?」


 舌をペロッと出して、ウインクも同時に行い、若干首に角度をつける。

 所謂、葵たちの親世代が生まれる前に流行した“テヘペロ”をかましてくる。


 結愛の弱点というか、皆には知られてない一面で、言い忘れていたことがあった。

 時々、こうやってからかってくるのだ。

 とっても些細で、大したことにはならず、その上、結愛のコンプレックスを突いた反撃としてはかなり軽いものなので、結局は自業自得で終わってしまうような、からかいだ。


 それはいいとして――


「テヘペロは時代が古すぎる上にあざとすぎると思うんだけど」

「そんなこと言ったら葵だって、好みのものは基本十年代のじゃない。そっちも大概古いわよ?」

「……まぁ、そうだけどさ」


 反論のための言葉は、あっさりと正論で返された。

 結愛の得にしかならないと知っていながら、口を尖らせて拗ねたふりをしてみる。


「それ、あざといってわかってる?」

「結愛こそ。あざといは選ばれた人間だけの特権なので、俺みたいなのには適応されないって知ってる?」


 結愛は葵の反応に満足したのか、まだ少し笑いながら「辛いのは最初の一口だけで、二塗目からは大丈夫だと思うわよー」とフォローを入れながら、手をヒラヒラさせてリビングから出ていった。

 まぁ自業自得ではあるし、最初の頃こそ疑問が先行していたが、ここ数年はこんなやり取りが頻発しているのでもう慣れたものだ。

 本来なら今回のも事前に察せていただろうが、そこは春休み明けで気が緩んでいたということにしておこう。


「最近は特に物騒だから気をつけてねー!」

「ありがとー」


 玄関で靴を履いているであろう結愛に、大きめな声で忠告する。

 それに感謝の言葉を告げて、結愛は学校へと向かった。


 現在進行系でやっているニュースでも、デモが過激になっているだとか、つい先日に巷を騒がせた犯罪者集団の潜伏場所が判明し警察が対処に向かったとか、行方不明者が年々増加傾向にある、などの物騒なニュースだ。

つい最近では海外の高校で、修学旅行だかに向かったバスが集団失踪事件もあったりだとか、兎にも角にも物騒になっている世の中にアナウンサーが注意を呼びかけている。


 登校中の結愛に関係するものと言えば、事故とか、あるいは暴君に絡まれるだとかだろうが、そこいらのチンピラ程度であれば、結愛を負かすことはできないのであまり気にするものでもないかもしれない。

 結局、どれだけ注意しようと、そういった事件や事故に巻き込まれることはあるのを知っているので、どうしてもその注意喚起の意味の薄さに目が行ってしまう。


 ニュースがスポーツの報道に変わったところでテレビを消す。

 情報を多く取り入れると集中してしまう可能性が増すので、身の回りに関係ある最低限必要なニュース情報だけ取り入れた。

 そのまま何も考えないようにしつつ、パンをパクパクと食べ、皿を片付ける。


 会議の時間まであと三十分強あり、家から学校まではだいたい二十分弱だ。

 今日は余裕だね、と集中しすぎなかった自分を褒めつつ、母宛にいってきますと手紙を残した。

 ちなみに、父は仕事で現在海外に行っているので、家にはいない。

 帰国は予定だと今日の夕方だ。


 リビングを出て、「いってきまーす」と誰にいったわけでもない挨拶をし玄関を出る。

 春休み中、道場に行く以外に家を出なかった葵は、約二日ぶりに外で浴びた太陽の眩しさに手を翳して慣らす。

 そのまま真っ直ぐ門を出るのではなく、右の小さな庭に足を向ける。

 そこには和室の隣に備えられた縁側と、ミニトマトやイチゴなどが植えられた小さな家庭菜園、そして石の積まれた雑な墓がある。

 家庭菜園をチラッと眺め、実っているのを確認してスルー。

 そのまま歩いて、行き止まりにある石の墓の前で立ち止まって片膝をつく。

 そして手を合わせ、少し黙祷する。


 しばらく黙祷を続けていたが、おもむろに閉じていた瞼を開け、柔らかな笑みを浮かべると、石積みに向かって「いってきます」と呟く。

 知らない人が見ればただの奇行だが、葵にとっては大切なことだ。


 家の小さな門扉を抜け、学校へ向かう。


「お、葵くんじゃない。おはよう。久しぶりね」

「おはようございます。摩利さん」


 門扉をくぐったところで、ちょうど掃除をしていたらしき正面の家の摩利が話しかけてきた。

 葵のことを幼少期から知る人物の中で、話好きな気のいいおばさん――もといお姉さんだ。


「今日から学校かい? 朝早くから大変だねぇ」

「生徒会の用事があるので、少し早めに行こうかな、と」

「葵くん、生徒会に入ってるのかい? 昔は誰にでも人見知りする子だったのに、成長したものだねぇ」

「やめてくださいよ、昔のことは」


 サラリと幼少期のことを掘り起こされ、苦笑いしながら応対する。

 おばさんは快活に笑い、「生徒会頑張ってね」と言って、手を振って葵を見送った。

 それに会釈して答え、一年通って慣れた通学路を歩き出した。






 * * * * * * * * * *






 新年度の初日しぎょうしきと言うこともあり、校門はそこそこの装飾のされていて、同じ制服に身を包み、同じカバンを背にしている多数の賑やかな生徒たちがいる。

 時計の長針が示す数字が十一を少し過ぎた頃、葵はようやく、その校門をくぐった。

 本来ならば、会議が始まる時刻である七時の十分前には学校に辿り着きたかったのだが、生憎と途中で急用が出来てしまったために、ここまで遅れてしまった。


 尤も、葵は既に会議への参加を諦めている。

 理由は単純明快。

 短針が八を指そうとしているのだから。


 会議から一時間が経過し、朝のホームルームまであと十数分である現状、既に解散しているであろう生徒会室へ行く必要はない。

 今日の放課後か、あるいは今後開かれる会議で一言、今日欠席したことをすみませんでしたと誤ることしかできない。

 葵の立場上、結愛以外の人間に会議を欠席した理由を学校で話すのは得策ではないのだから。


 尤も、今日の欠席を恥じるつもりはない。

 結愛なら見逃すはずのない状況を目の前にして、葵もそれから背くことができなかっただけの話なのだから。

 理由が立派であれば欠席や遅刻が許されると言うわけではないが、少なくとも自分に嘘を吐くと言う行為はしなくて済む。


 自分に言い聞かせるようにしてそう言い訳し、下駄箱で靴を履き替えて教室へと向かう。

 新入生たちの慣れない初登校の所為か、いつも以上に賑やかな廊下を歩いて階段を上る。

 一年間お世話になった一年生の教室ではなく一つ下の階にある二年生の教室へと入り、約一か月ぶりのクラスメイトと顔を合わせた。

 と言っても、これと言って会話はない。


 元々、葵には友達と呼べる人間はいないし、仲のいい人間もいない。

 今も、空いた扉と言う現象に対して視線をチラリと貰っただけで、入ってきた人間が葵だとわかるとすぐに視線は外れた。

 たまに業務連絡や授業内容などで話はする程度の間柄の人間が三十人ほどいるだけの教室で、わざわざ話す必要もないだろう。


 そう割り切ってはいるが、やはり久しぶりに向けられるクラスメイトからの視線は、どんなにチラ見であってもやはり気になる。

 そこには色々な感情が含まれているのを知っているし、何ならその原因のほとんどは、交流を持たず、流されてきた噂をそのままにしてきた葵にある。

 だから、そうやって向けられる様々な視線とも付き合っていくことは必要だ。

 それこそが、葵の選んだ道なのだから。


 ――だから決して、友達ができなくてボッチしてるわけじゃないんだぞ


 そうやって内心でツンデレしてみたが、そんなことを呟いたところで誰も得なんてしないし、そもそも心の中で呟いているのだから誰にも聞こえない。

 意味のないことを考えるのも悪い癖だよな、なんて思いつつ、カバンから宿題などを取り出してホームルームへの準備を進める。

 と言っても、カバンから中身を数点取り出すだけの簡単なものなので、一分足らずで終わってしまった。

 友達もいないクラスでわざわざ誰かと話す必要もないし、そもそも話す話題もないので、ホームルームが始まるまでの時間を睡眠に当てようと机に突っ伏そうとした。


 そんな折、クラス内がにわかに騒がしくなった。

 今までも久しぶりに会うクラスメイトとの会話でガヤガヤと騒がしかったが、それとは似て異なる騒がしさだ。

 同時に、今までも沢山向けられてきた視線を多く浴びている。

 チラチラと、興味はあるが決してガン見することはしない、そんな視線だ。


 教室に入った時は一瞬チラ見されただけだったが、今の一分足らずで何か注目を浴びるようなことをしただろうかと思考を巡らせていると、右肩をトントンと優しく叩かれた。

 この学校――家の外において、葵にわざわざボディタッチをしてくる人間など一人しかない。

 わざわざ時間ギリギリに来た意味ないなぁと内心でぼやきつつ、しかし無視するのも後々面倒なことになるのがわかっているので、素直に振り向く。


 すると振り向いた葵の頬に指が刺さり、爪の硬い部分が柔らかな痛みを演出する。

 肩を叩き、その方向へ振り向いた人の頬に指を立てる古典的な悪戯いたずら――からかいの一種だ。


 学習しない自分に少し辟易しつつ、その柔らかな指を退かし、背後で葵に悪戯を仕掛けた人物へと視線を向ける。


「おはようございます。

「おはよう、。挨拶するのは良い心掛けだけれど、その前に言うことがあるんじゃないかしら?」


 振り返った葵の背後で、クラスメイト達がコソコソと噂話をしているのがわかる。

 内容までは聞き取れないが、葵の身に起きていることに対しての話だと言うのはなんとなくわかる。

 そういうやっかみの視線があるから、学校ではなるべく親しい間柄だと言うのを悟られないようにと結愛なまえ呼びを控えていると言うのに、結愛は全くそんなことを気にしていない。

 心労を溜めて過ぎて、近い将来ハゲになってしまうかもしれない。

 だが今はそんなことよりも、大変にこやかな笑みを浮かべている生徒会長ゆめへの対処が先決だ。


「えーっとですね……その、来る途中で野暮用ができまして……」

「野暮用、ね」

「あ、そうだ。その時に、またこれ貰ったんで渡しておきます」


 そう言って、葵は胸ポケットから一枚のコインを取り出す。

 五百円玉ほどの大きさで、表と裏のどちらにも何やら細かな文字と図形が描かれている。

 かつて、同じ人から同じコインものを貰ったことがあるから、事情を口で説明しなくとも結愛ならこれで分かってくれるだろうと期待を込めてそれを差し出した。


「……なるほどね。事情はわかったわ。でも、それとこれとは話は別よ。せめて連絡くらいはしなさい。心配になるわ」

「でも学校でのスマホの使用は禁止されてる――」

「それは学業に関係のないところでの使用でしょ? 生徒会の業務に必要な連絡くらいは問題ないわ」

「……確かに」

「でしょう? なら連絡せずに欠席したことについて、何か言うことがあるんじゃないかしら?」

「それはもう……はい。すみませんでした」


 否定のしようもないくらいに論破され、項垂うなだれながらも素直に謝罪する。

 葵が反省していると長年の付き合いでわかったのか、その様子を見てうん、と一つ頷き、結愛は葵の頭をポンポンと叩くようにして撫でる。


「ちゃんと日菜ちゃんには謝っておきなよ? 葵がいなかった分、一人で書記の仕事をこなしたんだから」

「うん。ちゃんと、後で謝っておくよ」

「よし。じゃ、私は行くわね。あ、今日の放課後はないから」

「わかった。あ、コインこれは?」


 差し出したコインを受け取ってもらってなかった、と葵は再度それを見せて問いかける。

 葵の差し出したそれに対し、結愛は胸ポケットから同じものを取り出して見せた。


「私は持ってるから、それは葵が持ってなよ。御守りも、一つあれば十分でしょ?」

「あ、まだ持ってたんだ」

「当たり前じゃない。葵が渡してくれたものだもの」


 懐かしむように、先ほど葵に向けた笑ってない笑みとは違う、聖女のような優しく柔らかな笑みで、手に持つコインをぎゅっと握る。

 正確なことを言うと、あれは葵と結愛が受け取ったものなので、結愛の言葉は正しいとは言えないが、譲ったのは葵なのであながちち間違いとも言えない。


 なんとなく気恥ずかしさを覚え、結愛の顔から視線を逸らそうとして、首元に光るものを捉えた。

 それが何かわかった葵は驚き、思わずそれを言葉にした。


「――まだ持ってたんだね、それ」


 葵が自分の首を指して示しされ、自身の首元へ手をやり葵の指し示したものを理解したのか、結愛はコインと同じか、それ以上に懐かしむような表情になる。

 そして首元にあった手を胸元に持っていき、見るもの全てを惚れされる、慈しむような優しい笑みを浮かべた。


「……うん。私にとって、一番大切なものだから――」

「……そっか」


 そんな表情で言われたら、葵はもう何も言えない。

 それほどまでに大切にされているとわかったのだから、茶化すことも、弄ることも、自分と結愛をおとしめることにしかならないのだから。


「わかってるとは思うけど、気を付けてね。それは携帯と違って確実に学業に関係のないものだから」

「スマホとは違って、このペンダントが学業に悪影響を及ぼすとは思えないわ。……でもそうね。これも変えられるかしら」

「またいつもの?」

「ええ。無為な束縛や思考停止した固定観念は学業の妨げになるわ」

「伝統を重んじることと勘違いしてはいけない、だったよね」

「うん、そうよ」


 結愛の言っていることは、国が敷く法律のように、学校が守るべきだと定める校則ほうりつを変えると言うことだ。

 国の法律を変えるほど難しくはないとはいえ、学生ならば守るべき事柄がそこに書かれているからこそ校則なのだ。

 それを変えようなどという、言ってしまえば無理難題なそれは、結愛ならできるだろうと言う確信がある。


「流石、生徒会長になってから色々変えまくった優等生の人気者は違うね」

おだてても何も出ないわよ?」


 純粋に褒めたのだが、結愛はそれを嫌味と受け取った。

 日頃の行動や言葉から考えればそれも仕方のないことだと割り切れてしまうので、それ以上は何も言わないでおく。


 二人の会話も終わりになろうとしたとき、学生なら聞き慣れたであろうチャイムが鳴った。

 ホームルームが始まる前の、予鈴の鐘だ。

 そのタイミングで教室の前方のドアがスライドし、このクラスの担任である加藤龍之介かとうりゅうのすけが入ってくる。


「おーうみんな終業式ぶりだなー。チャイムなったぞー。そろそろ準備しろー」

「まだ十分ありますよー、龍先生ー」

「おうおう、口答えするとはいい度胸だぁ! 筋トレのメニュー増やしちゃる!」

「えぇー! ご勘弁をーー!」


 クラスメイトと楽しそうに会話している通称りゅー先生は、始業式前からギアが入っているようだ。

 彼の持ち味はクラスメイトとの距離の近さで、担任のFクラスだけでなく、学年、性別問わずに好かれている。

 今も、あの少ないやり取りで周囲にいたグループを笑いの渦に巻き込んでいる。


 春休み中は一度も会わなかったが、体格が更にガッチリしているように見える。

 空手部顧問だったはずなので、会話の内容からもしや空手部は春休み中筋トレ尽くしだったのだろうか。


「じゃ、チャイムも鳴ったし、今度こそ行くわ。無断欠席の罰として、今日の夕飯はビーフシチューを所望します」

「……それ、罰じゃなくてただ単に結愛が食べたいだけじゃ?」

「悪いことをしてしまったら誠意を示すべきよ。私はビーフシチューで許すから、他の人にはちゃんと誠意を見せて謝ること」

「それはまぁわかったけどさ……一昨日もビーフシチューだったけどいいの?」

「私は葵の作るビーフシチューが好きなのでいいのです」


 ふふん、と誇らしげに言っているが、内容が好きなものを暴露しただけなので表情との釣り合いが取れていない。

 尤も、ビーフシチューを作るだけで許してもらえるのなら安いものだ。


「わかった。じゃあ今日の夜はそれでいいよ」

「やった! あ、あともう一つ」

「まだ何かあったのか」


 もうこの際、何でも聞いてやるぜ、と半ば投げやりになっている葵へ、結愛は先ほどまでのおちゃらけた雰囲気を潜めさせ、真剣な表情で言う。


「さっきも言ったけど、日菜ちゃんにはちゃんと謝っておくんだよ?」

「うん。それはちゃんとやるよ。不義理な真似はしたくないからね」


 葵の返事によろしいと頷いて、結愛は今度こそ教室の後方の扉へと踵を返した。

 去っていく結愛の背中をボーッと眺め、今日の夜の献立を頭の中で立てていきく。

 結愛の背中が完全に見えなくなったところでようやく視線を逸らし、まだホームルームまで時間があるので本格的にどうするかな、と思案する。




 ――瞬間




 ポゥ、と床が光りだした。


 否。

 光りだした瞬間は、集中していたため気がつけなかった。

 周りのクラスメイトが騒ぎ出し、後ずさった生徒の一人が葵の机にぶつかり、半強制的に意識が戻ったときに見たのがそれだ。


 そこには、異世界召喚モノでよくある展開。

 光り輝く魔法陣が、刻々と光を増している。

 そんな、現実では起こり得ないと思っていた、ファンタジー要素満載のそれ。


 床に突如として現れた光るそれを魔法陣だと認識した瞬間、葵は後方ドアへと駆けていた。


 異世界召喚に憧れを抱いたことがないわけではない。

 過去に一大ブームを築き、良くも悪くもアニメ業界を盛り上げた異世界モノ。

 その時代のアニメも漫画もラノベも、葵は大好きでよく読んでいた。

 だから、憧れがないと言えば嘘になる。


 でも現実でそれが起こっても、高揚はすれど嬉しさはない。

 ラノベでは主人公は異世界へ行くと強くなれるし、例えそうでなくとも、何か特別なものに恵まれる。

 人を動かす才能や、人を超越した絶対的な力、あるいは死んでやり直せる力など、その内容は様々だ。


 でも俺は知っている。

 自分自身がどうしようのないほどのモブだということを。

 一般的な高校生とも、普通の高校生ともかけ離れていることは自覚している。


 成績はオールAで、一年時の中間と期末テストで常に学年一桁を張り続けた自分が、普通であるはずがない。

 しかし、俺はモブだ。

 主人公に足る器じゃないという現実は、小二と小五のときに嫌というほど思い知らされた。


 器で言えば、結愛や小野さん、小野さんの幼馴染という二宮翔にのみやかけるのほうが圧倒的に主人公らしい。

 彼は成績優秀で運動神経も抜群、葵と違いイケメンで男女問わず優しいと聞く。

 だから、俺は主人公でもなんでもない。

 主人公の傍でたまに名前が挙がるくらいのモブ。

 精々が脇役なのだから、わざわざ命を懸けてまで異世界に赴き、あるかどうかもわからない覚醒を望めるほど、楽観視できない。


 それに、ここで異世界に行ってしまえば、結愛との誓いが果たせなくなる。

 それだけは、絶対に、何としても、避けなければならない。




 だから、駆けた。

 必死に、この春休みでボケた体を叩き起こし、後方のドアへと駆けた。

 このまま魔法陣が加速したりしなければ、ギリギリ魔法陣の光が教室を埋め尽くす前にドアを出られるはずだ。

 このまま行ければ――


「――葵ッ!!!」


 前方のドアが勢いよく開き、驚愕と悲壮に満ちた表情の結愛が、葵の名を呼んだ。


 そう易易と、運命からは逃れられない。

 どうしても、避けられないことがあることは、なんとなくわかっていた。

 結愛しゅじんこうですら変えれなかった運命があったのだから。


「来ちゃだめだッッ!!」


 その姿を見た途端、無意識に、反射的に、目指す方向を変えた。

 足への負担など考えず、強引に爪先の向きを変え、目標を後方ドアから前方ドア――葵を救おうと教室に足を踏み入れる結愛の元へと全力で。


 この魔方陣が、異世界への召喚だと決まったわけではない。

 可能性は限りなくゼロに等しいが、手の込んだ大掛かりなドッキリということもある。


 だがこんな物理的にありえない、ファンタジーなことを、大人数の人間をターゲットとしている以上、こちらに何らかの影響ひがいもたらすはずだ。

 刻一刻と光を増していく魔法陣。

 あと数秒もすればおそらくその真意がわかるだろう。


 現実か、ドッキリか。

 ただそれを、呆然と待ち受けられるほど、大人しい性格ではない。

 可能性があるのなら、出来得る限りの全力を尽くして抗う。

 

 七年前に、そう決めたのだから。


 心配で揺らぐ瞳。

 ドアの淵に手をかけて、反対の手を伸ばす結愛。

 危険だとわかっているこの教室に足を踏み入れ、葵の手を引っ張ってでもこの教室から逃れさせようとしているのがわかる。


 心配してくれてるのは、いくら鈍感な俺でもわかる。

 少し気恥ずかしい気持ちもあるが、とても嬉しい。

 大切な人から受け取る感情は、どれも温かくて、とても嬉しいのだ。


 だから、俺は生きなければならない。

 結愛は俺が死ねば悲しむ。

 俺の不幸をなげき、それを止められなかった自分を責めていた結愛だから、そうなることくらいは葵でもわかる。

 だから、大切な人を悲しませないために、俺は生きるのだ。


 結愛の為ならこの身を滅ぼすこともいとわない。

 だけどそれは最終手段。

 結愛を悲しませてまで結愛を救うのは、本当の本当に、奥の手なのだから。




 慌てふためくクラスメイトの上を跳ぶ――


 魔法陣が光を増す。


 机を踏み場に、なるべく一直線で、結愛の元へ――


 魔法陣が光の粒子を宙に漂わせる。




 異世界召喚とか、夢のある話は創作の中だけでいい。

 葵の現実は、どんなに凡庸で、面白みのないものであっても、結愛とともであればそれでいい。

 だから、伸ばしてくれた結愛の手を取りたい。


 結愛を守りたい。

 結愛を救いたい。


 その為に、俺は結愛の傍にいなきゃいけない。


 過去小五の俺が、高一の俺に託した意思を、俺は果たさなければならない。

 それが俺の生きる意味――




 だから!

 なんとしてでも!!






 魔法陣の光が、網膜を焼くほどの眩い光を放ち、教室全体を包み込んだ。










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