金波銀波(きんぱぎんぱ)⑫~⑬


 〈12〉


 屋根裏部屋のベッドで目覚めると、足許あしもとに蕃次郎が寝そべっていた。いつの間に置かれたのか、おもちゃのような小振りの卓袱台に画材が載せてあった。二十四色セットのガッシュや絵筆など、浜乃おばさんが注文してくれた品が、祭り明けに届いたのだろう。

 響彦は冬になればまた帰ってくるとわかっていても、離れ離れになる寂しさは抑えようがないらしい。朝食の間も老姉妹と美潮は沈んだ顔をして、口数も少なかった。蕃次郎も食事そっちのけで、じっと彼を見上げていた。

「それじゃ、元気でやってくださいよ。蕃次郎、おまえも今年は例のご馳走にありついたんだから、長生きの記録を更新しなくちゃな」

 響彦は屈んで愛猫の頭を撫でた。猫は自分から彼の手に身体を擦りつけて別れを惜しんでいた。刀自らは旅の安全を祈ってか、また縞瑪瑙の数珠を握っていた。美潮は目を潤ませて、

「気をつけてね」

「ええ、母上も」

 出航にはまだ間があるという。港へ続く道を逸れると、入り江には車一台がやっと通れるだけの橋が架かっていた。ヘリポートへの近道だという。秀真と響彦は真ん中辺りまで歩いていって立ち止まり、手摺りに肘を突いて穏やかな白群びゃくぐんの海を眺めた。温気うんきと涼風が絡んで混じり合う。

「多分、こんなに胸がザワザワするのは、俺がまだ慣れてないからなんでしょうね。島の人たちにしてみれば、これがごく普通の眺めで……」

「うん」

「ずっとここにいたら当たり前になって、一々感激しなくなっちゃうんですかね。それはちょっと寂しいな」

「感動が薄くならないうちに描いておくってのは?」

「せっかく画材も取り寄せてもらったし……と、言いたいとこだけど、もっと後でいいです。もう少し、何も考えないで浸っていたいから」

 いつか眼前の景色に心を揺さぶられなくなったとしたら、むしろそのときこそ、今まで目に焼きつけてきたあらゆる海の情景を掘り起こして絵の中に封じ込めたいと、秀真は思った。

「ちょっとトヨさんが羨ましいな。リセットできるから」

「そう。僕はね、という立場を、ありがたく、誇らしく思ってる。ただ、この島にいると画面が焼きつくっていうか、自分が風景の中に溶け込んで一体化する感覚に囚われる瞬間が、度々たびたびある。それは幸福だけど、とても恐ろしい。空気までが意思を持った無数の腕になって、絡みついてくるみたいで……」

 秀真は群れ飛ぶ蝶を死者の霊魂と見なした美波のセリフを思い出した。

「……その抱擁は限りなく心地好く、同時に不気味で。雁字搦めになって溺れるのが怖くて、無理矢理振り切って脱出するんだけど、皮膚に爪痕を穿たれたような痛みを感じる。しかも、外では癒しようがない。鱗島いろくずじまの風に撫でられなきゃ治らないと悟って帰島する、その繰り返しです」

 秀真は兄の想いに応えるどんな言葉も見つけ出せず、黙って青空を見上げるしかなかった。



 〈13〉


 穏やかな日々が過ぎていった。美潮とは相変わらず実の親子らしからぬ他人行儀なやり取りを交わしていたが、響彦の代わりに男手があるのを喜んでか、頻りに用を言いつけてくれるのが嬉しかった。琴女と琴江の態度は変わらなかった。また、島民たちはごく自然に仲間の一人として扱ってくれるようになっていた。

 しかし、秀真が歴史上初の定住に成功した外来者となったため、来年以降の包丁役を誰に宛がうかが議題となった。鱗島いろくずじまにおける客人まれびととは、年に一度どこかからやって来て人魚を捌き、血の穢れを背負って去っていく人物を指していた。夏祭の終了と共に退去してもらえば、死穢しえが祓われ、島は清浄に保たれるというわけだ。公民館で集会が催され、主立った人々が話し合った結果、一年以内に適格者を確保できなければ、祭の前のしばらくの間、秀真を島外で過ごさせて戻らせる方法を取ればよいとして落着した。島と一般社会とのパイプ役たる響彦は自らを往還者と称したが、祭を基準に行きつ戻りつしていた彼の父親も秀造も、これからの自分もまた同じ名で呼ばれるはずだと、秀真は思った。もし、適材を捕まえられたら、魚塚氏に代わって監督に就任すればいいのだろう。その際、新人には決して生のレバーを口にしないよう、注意してやらねばならない。

 秀真はさんご食堂の厨房を手伝い始め、週に二、三度は魚塚家で夕食を取って、美波の部屋に泊まった。多少なりとも鱗族の身を口にしたはずの彼女の肉体に変化は見られず、右の太腿には相変わらずてのひら大の鱗が残っていたが、本人は吹っ切れたのか、もうクヨクヨしていなかった。あのペンダントトップは黒蝶貝の真珠に過ぎず、肌に咲いた七色の花を病の印と認められずに別の物語を拵えた娘を傷つけまいとして、皆が口裏を合わせて哀切な幻想に付き合っているだけなのか。夜更けの寝室で彼女が白い首をのけ反らせるたび、目を凝らして塩類腺の痕跡を捜そうと思いつつ、まだ果たせていない。

 それよりも気掛かりなのは、美波がやはりキメラだとしたら、彼女の下肢の元の所有者のように、マナーの悪い行きずりの観光客を抹殺しても、母を初めとする住民の良心は咎めないのかということだった。島人しまびとは素朴で純粋で優しいが閉鎖的で、昔ながらの決まり事を遵守するあまり、無礼な闖入者には容赦がない。だが、次に何かが起きそうになったら、そのときは諫死も辞さない覚悟で止めに入ればいいと考えて、秀真はこの件を片付けた。

 だが、寝床で美波の滑らかな脚に触れ、途中で一塊ひとかたまりの異物に手の動きを阻まれると、やはり彼女は海から上がったなのだろうかと想像せずにいられなかった。いつか子供が宿ったら、どんな姿で生まれてくるのか。考えると、うっすら背筋が寒くなった。しかし、秀真は眠りに吸い込まれながら、もし、異形の子が誕生したとしても、決して島民のための生贄にもにもせず、ましてや蝦塚夫妻の研究材料に供すでもなく、先だっての約束を反故にしてしまうが、決して響彦に委ねもしないと心に誓った。


 幸か不幸か、島の景色は新鮮な感動をもたらし続け、絵を描く機会はなかなか訪れそうになかった。秀真は自分を外へ連れ出して育ててくれた秀造に、改めて感謝した。

 置き忘れていた人魚姫の喉の珠はきれいに洗って、懐紙に包んだ遺髪と共に、うなかみで手に入れた木の箱に収めた。刀自らは今日もボサノバを聴きながら、元気よくはた織りに勤しんでいる。トントン、カタリ。軽やかな音に耳を傾けつつ、秀真はきたるべき日に備えて遺言状をしたためた。自分が死んだら、それまでに手に掛けた人魚たちと一緒に焼いて骨を粉にし、ひとまとめにして海に撒いてもらいたい。但し、我が子の手で、満月の晩、サンゴ礁の切れ目、金銀に煌めく波の帯まで舟を漕ぎ出して。本人が望むなら、月光を乱反射するマーメイドブルーの尾を逆立てて飛び込み、そのまま水に還っても構わない……と。



                【了】

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