金波銀波(きんぱぎんぱ)⑪


 〈11〉


 船内で二度、夜を明かし、やっと地面に足が触れたと思う間もなく貨客船の乗り場へ誘導された。秀真は抗う術もなく、襤褸ぼろれのように引き摺られていくしかなかった。

 みなみ爬龍はりじまの西岸、にある港に着いたときは夜だった。待合所から美波が飛び出してきた。その後ろに、ゆっくりベンチから立ち上がった響彦の長身が見えた。

「……!」

 美波は何か、感極まったような、言葉にならない声を発して首に齧りついてきた。秀真は二日ぶりに彼女を抱き留め、ジャスミンの香気を吸い込みながら、他の二人を眺めた。響彦と蝦塚青年はハイタッチを交わして互いの労をねぎらっていた。

「敵前逃亡は銃殺刑だけど、弾丸タマ切れだったから、このとおり、無傷で」

「よくやってくれたよ。ありがとう」

 その後は方言で冗談を言い合って笑っている。彼らのやり取りにムッとすると、美波がTシャツをグイグイ引っ張った。彼女は両手を顔の前でパッと合わせ、

「大変なことになっちゃった。あたしがトヨさん怒らせたせいなんだ。ごめん」

「一昨日の逃亡劇で?」

「うん。他にもいろいろ。で、言いにくいんだけど……」

 響彦が咳払いして遮った。

「お二人さん、睦言は初夜のとこでゆっくりと、ね。みんな待ってるから、急いで」

「は?」

「あたしたち、取り敢えず式を挙げる羽目になっちゃったの」

「何だそりゃ」

「僕が明日、島をつから。その前にけじめをつけてもらおうって決まったので。もう公民館で準備が出来てます」

 響彦はサラリと言ってのけた。秀真は二の句も継げずに拳を握り締めていた。

「伯父さんとこで着替えてくるよ」

「ああ」

 蝦塚青年がその場を後にすると、

「さて、行きますか」

 ヤケになって夜の海へ飛び込みたい衝動に駆られたが、美波にガッチリ腕を捕らえられ、縺れ合って歩かざるを得なかった。彼女は申し訳ないと思っているらしかったが、それでいて、横顔にうっすらと喜色を浮かべていた。響彦と諍いを起こしたというのも本当かどうか疑わしい。彼らの都合のままに翻弄され続けるのが情けなかった。


 公民館には島民が集まっていた。結婚式だというが、皆、畏まった様子はなく、こざっぱりした平服だった。真っ先に目が合ったのは慶舟じいさんと勇吉さんで、二人とも「ご同情申し上げる」とでも言いたげに苦笑いしていた。他の人たちには、実家の母の具合が悪くなったので、この二日で様子を見て戻ってきたことになっているらしかった。

「お帰り。さあさあ、早く」

 と、琴女刀自。控え室は屏風で仕切って二つに分けた和室だった。秀真の介添えは響彦一人で、老姉妹と美潮は美波の着付けに回った。響彦は畳紙たとうがみをほどきながら、

「普通は参列者一同、正装するんですけどね。今日は主役だけでいいかって」

 屏風の向こうがかまびすしい。新婦の衣装は複数用意されているようで、美波はどれにしようかとはしゃいでいる。

「晴れの席なんだから、むくれないで。皆さんが祝ってくださるんだから」

 見る見るうちに身体が着物に包まれていく。慣れているのか、響彦は手際がよかった。

「婚姻は当人同士の合意に基づいて成立するんじゃなかったかな」

「もちろん、今夜は形だけ。後でゆっくり話し合って。ただ、結婚したくないって言っても、他に決まった相手がいるってぐらいの理由がなきゃ、魚塚一家が手放してくれないと思うけど」

「きれいよ、美波ちゃん」

 間仕切りの裏で美潮が華やいだ声を上げた。支度が出来たらしい。

「ほらほら」

 刀自らに促され、美波が屏風をずらして静々と姿を現した。鮮やかな紅型びんがたの着物を重ねて纏い、額を出して髪を高く捩って結い上げ、簪を差している。いつもよりグッと白い顔にぽっちり点る、薔薇色に染まった唇が目を引いた。恥じらっているというより、役柄になりきって、普段の彼女自身を意識の底に押し込めた風だった。

 ぼんやり見とれていると、子供のはしゃぎ声が響いた。パタパタと駆け込んできたのは浜乃おばさんの孫たちで、幼い兄と妹は、それぞれ秀真と美波をそっくり縮写したように、小さいながらも立派な衣装を身に着けていた。

「あら、可愛いねぇ」

 老姉妹が目を細める。兄妹は照れ臭そうにモジモジした。二人とも無地の丸型提灯を提げている。後ろから、浜乃おばさんの息子が、

「皆さん、お揃いです」

 緋毛氈ひもうせんが敷かれた廊下を、提灯を持った子供らに先導されて歩く。胡弓や太鼓の演奏に囲まれていると、だんだん違和感がなくなり、自分が置かれた状況を素直に受け入れられるようになってきた。

 人魚を供したとき同様、襖を取り払って一続きにした部屋に人々がつどっていた。人前式だ。蝦塚青年の姿も見える。蕃次郎を膝に載せた彼は、例のサングラスに替わって黒い丸眼鏡を掛けていた。

 司会は洋子医師だった。薄群青の絣の着物で上座に畏まっている。秀真と美波は並んで彼女の正面に座った。司会者は挨拶の後、猫脚膳から赤いガラスの懐石杯を取り上げた。

「湧き水で、お清めをします。少し頭を下げて」

 洋子医師は魚子ななこ模様の切り子の器に軽く人差し指を浸け、水を二人のひたいに撫でつけた。シャッターを切る音とフラッシュが乱舞した。続いて、朱塗りの盃で三三九度。指輪の交換。美波はともかく秀真の分はサイズが合わず、第二関節を通らなかった。上座から下座へ、押し殺した笑いの漣が伝播した。結婚証書なるものに名前を記し、用意された誓約文を朗誦すると、司会者が結びの言葉を述べた。

 式はおよそ三十分で終了した。酒と共に魚塚氏の料理が運ばれ、一同は深夜まで和やかな時を過ごした。秀真と美波は途中で席を外し、控え室で元の服に着替えた。彼女は髪をほどいてまとめ直すと、すぐ宴席へ戻ったが、秀真は新鮮な空気を吸いに外へ抜け出した。

 生温なまぬるい夜気に刺繍を施す甲高い虫の声。足は自然に廃校の校庭へ向いていた。ジャングルジムのてっぺんで月を探したが見つからず、何度も首を捻るうちに、ザラザラとゴム草履の音が聞こえてきた。響彦だった。目が合うと、彼はかた頬笑ほえんでじ登ってきた。秀真より一段下に腰掛け、

「機嫌は直りました?」

「突き指したみたいで、痛くてしょうがないですよ」

「華奢に見えても意外とふしが太かったんだなぁ。預かって、サイズ直しを頼んできますよ。出来たら送ります」

 不意に、鱗塚で見たのと同じ、蛍の乱舞が始まった。天からシャルトリューズの雫が降って来たようだった。

「近くに泉でもあります?」

「いや、これは陸生の蛍でしょう」

「じゃあ、あっちとは種類が違うんですかね」

「え?」

 秀真は鱗塚の傍の四角い古井戸の周りで蛍の乱舞を見たと告げた。あの生贄の人魚は最初、そこから現れたのだ――と。しかし、響彦は吐息を漏らして、

「どんな夢を見たのかな。鱗塚の近くに、そんなものありませんよ。大体、あの場所に井戸を掘ったって真水が出るわけもないし」

 だとしたら、の腕のハート型の創傷は、俺の足の咬傷は、どうやって出来たというのだ――と、反駁したかったが、秀真は言葉を呑み込んだ。悪夢が現実を浸蝕したというなら、それも結構。そもそも、この島の存在や島民の暮らしぶり、祭儀の有りようからして、著しく浮世離れしているのだから……。

「何はともあれ、よく戻ってくれましたね」

「……だって、他にどうしようもなかったし。最初の日と同じ。たとえ迎えに来たのが悪魔の使者でも、しがみつかずにいられない状況だったんだから」

「なるほど」

 あれから瑠璃子はどうなったのだろう。少なくとも死んではいないはずだが、蝦塚青年が何者かに依頼した処置とは、どんなものだったのか。

「まだ、向こうへ帰りたいと思いますか?」

「いや、被害者の記憶が消去されなきゃ、今頃は殺人未遂でお尋ね者になってるでしょう?」

「嫌にアッサリしてますね」

「うん。疲れちゃったのも確かだし、美砂みさこに帰ってくるなって言われたせいもあるのかな。この島に惚れた弱みだと思って、みんなのためにメシ作って暮らした方が、楽でいいかも。人が喜ぶ顔見てると、こっちも幸せな気分になるし。人魚を捌いて、それから、ちゃんと洗骨もして――」

「殊勝な心がけだ」

 ついさっき、着替えながら美波と屏風越しに会話した。形だけとはいえ、彼女は今夜のイベントをとても嬉しがっていて、何度もありがとうと言ってくれた。茶番でも彼女が満足しているなら、それでいいと思った。第一、あの103号室へは戻りようがない。帰るべき場所がなくなったのだから、このまま島に根を下ろすしかないという、諦めに似た気持ちが芽生えてもいた。美砂が言ったとおり、いつか秀章が放浪の果てに姿を現したら、心尽くしの手料理でもてなしてやるのも悪くないだろう。

「じゃあ、安心して言わせてもらうけど、ちょっと先の話。いつか子供が生まれたら、僕に引き取らせてくれませんか。で、時々ここへ連れて帰る――と」

「響彦二世ですか」

「そう。その子を跡目にしたいんです。で育ってと行き来する、とでも名付けましょうか」

「一つ言っておきたいことがあります。選択の自由は、与えてやってください」

 秀真は響彦を見下ろした。彼も視線を返してきた。

「確かに、それは大事ですね。分別がつく年になったら、本人の意志に委ねるとしましょう」

 まだ生まれてもいない赤子がそこにいるかのように、チラリと脇へ目をくれてから、響彦は一息に飛び降り、引き返していった。秀真はもう一度、夜空を仰いで月のありかを探った。

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