金波銀波(きんぱぎんぱ)⑩‐ⅱ

 しかし、事態は切迫していた。久しぶりに鍵を開けるのももどかしかった。玄関に散らばった封筒や紙片を脱いだ靴もろとも蹴上けあげて、短い廊下を這うようにトイレへ滑り込んだ。食道が痙攣し、猛烈な嘔気おうきが込み上げた。便器に顔を突っ込んだ途端、得体の知れない反吐へどが、何ものかの力で引きずり出されるようにズルズルとひと繋がりになって口から零れていった。

 肩で息をしながら立ち上がった。涙と鼻水で汚れた顔を洗うと、少し気分が落ち着いてきた。が、身体からだは脱力しきっていた。座り込んだまま身動きが取れなくなった。

「やっぱり、がいけなかったのかな。なまじゃダメだって、魚塚さん言ってたもんなぁ」

 監督の目を盗んで素早く削いだ、ごく薄いレバーの一切れ。何故そんな無茶をしたのか、わからなかった。ただ、包丁役の特権として、宴会の参加者ら、他の人々が知らない味をコッソリ賞翫した優越感と、あの人魚の一部を真っ先に取り込んで自分のものにしたという満足感に浸され、深い愉楽に溺れていた。今になって苦痛が襲ってきたのは、島から逃げ出した自分への、彼女のちょっとした報復なのかもしれなかった。

 床に大の字になってぼんやりしていると、チャイムが鳴った。来訪者は勝手にドアを開けて上がり込んだ。鍵を掛けそびれたのは失敗だった。

「何でそんなとこで寝てんの?」

 大きな花柄を描いたワンピースに鍔の広い麦藁帽子。瑠璃子は床に積もった埃に眉をひそめながら、赤いペディキュアをテカテカ光らせて近づいてきた。

「久しぶり。お腹いちゃった。何か作って」

 彼女は断りもなくトイレを使って出てくると、

「あの、ほら、冷たいうどんの……あれ食べたい」

 秀真はムックリ起き上がって、毒々しい彼女の足の爪を見つめ、

「話が違うだろ」

 彼女は歯牙にもかけない態度で、

「気が変わったの。そっちこそお楽しみだったんでしょ。いい色に焼けちゃってさ。お金ないって言ってたクセに、どこ行ってたのよ。途中、何度も電話したのに。まあ、いいけど。ホントにお腹ペコペコなんだから、早く何とかして」

 彼女は腰に手を当て、今にも足を踏み鳴らしそうだった。後ろに手を突いてその姿を見上げていると、静まった吐き気がぶり返して胃を揺すり上げた。居丈高な調子に堪忍袋の緒が切れた。自分の怒声と彼女の悲鳴、どちらが先か、覚えていない。

「人の苦労も知らないで、バカ!」

 秀真は瑠璃子にし掛かって仰向けに押さえ込んだ。

「そっちこそ、何度こんなことすれば気が済むの。っていうか、何の話?」

 顔を見たくなかったので、麦藁帽子を押しつけながら片手で喉を絞めた。彼女は手足をバタつかせ、くぐもった声で盛んに喚いていた。秀真は彼女の拳に叩かれて舞い上がった塵を吸い込み、咳き込んだ。苦悶のリズムを取りながら、奇態なデュエットが続いた。床には二人の汗が染み出していた。

 動かなくなった女から離れて尻餅を突いた。腕は痺れ、目が霞んでいる。性的な昂ぶりを持て余した状態に似ていたが、もし彼女がを吐き出したらパニックを起こして、それどころではなかったかもしれない。

 肩で荒い息をついていると、徐々に興奮が鎮まってきた。

「一回じゃ死ななかったのか。面倒臭いヤツだな」

 二週間と少し前、小馬鹿にした態度で別れを切り出した瑠璃子に掴み掛かったときの様子が、脳裏に薄く蘇った。だが、彼女は息を吹き返し、何事もなかったように渡航して帰って来たらしい。

 誰かがドアをノックした。

「ごめんください」

 聞き覚えのない、若い男の声。

「お邪魔しますよ」

 声のぬしが入ってきた。ミラーサングラスで眼差しを隠蔽した、真っ赤なカブリオレの運転手だった。彼は唇を歪めて惨状を嘲笑あざわらった。埃を蹴立けたてて素早く瑠璃子に近づき、脈を取ると、直ちにどこかへ連絡を入れた。

「あ、どうも、いつもお世話になっております、レプタイル商会の蝦塚えびづかです。ええ、例の件でして。度々たびたびすみません」

 慇懃に挨拶する彼は、院長夫妻の親戚か。

「今回も死んではいません。です。穏便に済ませていただきたいです。場所は以前申し上げた……おわかりになりますか。そうです、セントラルハイム二号館、103号室。表札も出てます、五十嵐って。ああ、ありがとうございます。では、後日、請求書を。はい、失礼いたします」

「どういう会話だ」

「感謝されこそすれ悪態をつかれる覚えはないよ。半月ばかり前にも君の尻拭いを依頼してやった。君に殺されかけた後、通り魔に襲われそうになって助かったって流れになってるから、彼女は水に流す気でケロッとして帰ってきたワケさ。そら、もう時間がない。行くぜ」

 蝦塚青年は秀真の腕を掴み、ドア際へ引きずっていった。

「荷物なんかどうだっていいよ」

「いや、美波ちゃんにお金返さなきゃ」

「じゃあ、財布だけ持って。ほら、さっさと出る」

 最初の日といい、たった今といい、ここぞという瞬間に現れる間合いのよさ。偶然ではない。はずっと、自分の周囲で誰が動き回り、何が起きているか、お見通しで、先手を打ってきたのだ。

 助手席を勧められたが、秀真はかぶりを振って後部シートに倒れ込んだ。座っているのも辛かった。蝦塚青年は素早くカーナビを操作して発車した。二週間前の再演よろしく空港を目指しているかと思ったが、道の選び方が違っていた。

「今から飛行機に乗ってもみなみ爬龍はり行きの船は終わっちゃうだろ。どこかに泊まらなきゃならない。でも、そんな予算はないんでね。船中泊で勘弁して」

 逃げ出す隙を与えないための口実としか思えない。げんなりしつつ、相手の後頭部を睨みつけたが、知ってか知らずか、彼は暢気に鼻歌を歌っている。赤いオープンカーは日暮れ前のふやけた空気を切り裂いて港へ向かっていた。


 桟敷に四角い枕を並べ、毛布を被って横たわる。テレビを観ながら談笑するグループの低い囁きが子守歌と化していった。筋肉の隅々に行き渡った重い疲労感も手伝って、秀真はじきに眠りに落ちた。

 ひと寝入りして目を覚ました。室内には煌々と灯りが点っていた。蝦塚青年は壁に凭れて脚を投げ出し、ゲーム機と格闘していたが、相変わらずサングラスを掛けたままだった。秀真はまだ、彼の素顔を見ていない。

「楽しそうですね」

「うん。船が好きだから」

「退屈しませんか」

「全然。こんなにのんびりできる機会はめったにないしね。会社は今頃てんてこ舞いだろうけど、社長に普段の三倍動いてもらえば帳尻は合うし。トヨちゃんが復帰するまで辛抱してもらう」

「蝦塚さん、要は飛行機が嫌なんでしょ」

「フフフン」

 彼は小さなモニタから目を上げ、

「君はさ、何故、半月前も今日も携帯電話を持って来なかったのよ。料金滞納で使えないから?」

「……」

「本当は朝っぱらトヨちゃんが来たとき、ホッとしたんでしょう。唐突だけど渡りに船、って」

 痛いところを突かれた秀真は俯せになって顔を隠し、自分の犯罪を改めて思い返した。口論の挙げ句、瑠璃子を殺したと思い込んでいたので、動揺して蹌踉とさまよい歩き、美潮の手紙と迎えに現れた響彦にしがみつくしかなかったのだ。そして、位置情報を誤魔化すべく、通信機器の電源を切って部屋に置き去りにした――。

 消灯のアナウンスが入った。秀真は芋虫のように身体を丸めた。暗くなると、窮屈そうに寝返りを打ち、寝言ともつかない小さな唸りを発する相客らのせいか、これは奴隷の運搬船で、海の彼方に口を開けて待つ地獄じごくへ向かっているのかもしれないという、暗い夢想が頭を覆った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る