金波銀波(きんぱぎんぱ)⑩‐ⅰ
〈10〉
空港はビジネスマンと観光客でごった返していた。ベッドから転げ落ち、突然夢から醒めて現実に放り出されたかのようだった。ずっと風に煽られて髪がボサボサになった自分は、ひどく場にそぐわない気がした。溜め息をついて財布を開いた。いよいよ母が作ってくれたカードの出番だと思っていたが、様子がおかしい。存在しないはずの紙幣が詰まっている。
美波の仕業だ。秀真は呆気に取られたが、すぐ我に返ってチケットを買った。グズグズしている暇はない。響彦が追いかけてくるかと思って、気が気ではなかった。
東京への直行便はなかった。来たとき同様、飛行機を乗り継ぐことになったが、焦っても移動はままならなかった。
小休止。秀真はロビーで乗り換えを待つ間、美波が現金と一緒に財布に捻じ込んだ紙片を広げた。短い手紙だった。曰く、私はあなたと
溜め息。ともあれ、母に連絡しなくては。
「もしもし、俺。今、大丈夫?」
「……ええ。公衆電話なの?」
母の声は低くくぐもっていた。
「おじいさんのお葬式は終わったわね。話は皆さんから聞いた?」
「まあ、ね」
「じゃあ、そっちにいなさい。学校だって辞めちゃったんだし。あの部屋も解約するわね。必要なものは送ってあげるから」
物憂げな、しかし、一方的な通告。
「何だよ、こっちの用事も聞かないで」
「おじいさんの後釜として、包丁役を務めたんでしょう。だったら、あんたはもう立派に
秀真は母の物言いを訝った。
「――母さんは、どこまで知ってるの。あの人から、どんな風に聞いてたの?」
しばし答えをためらう気配があった。が、
「秀造さんに教わるも何も、あたしは……あたしの名前はね、本当は、美しい砂って書いてミサコなのよ。わかる?」
「へ?」
「だから、旧姓――元々の氏名は、貝塚
「はあ?」
秀真はつい頓狂な声を出し、慌てて口を噤んだ。戸籍上の母・五十嵐
「あたしは故郷の暮らしが嫌で、早くからこっちへ抜け出してきたの。同じような親類がいるから、そこで世話になって、名前も書き換えて。なのに、なんの因果か、恋人の父親が放浪の挙げ句、島に居着いて従姉といい仲になっちゃって。でも、義理を立てるっていうか……みんなを無視し続けてきた罪滅ぼしに、少しは役に立ちたいと思って」
「――で、俺の親になってくれたわけ?」
「ええ。美潮ねえさんは、あんたを傍に置いときたかったみたいだけど、琴女伯母さんが説き伏せたんですって。トヨちゃんと同じに、弟のあんたも、外に送り出した方が後々ためになるって言って。だから、あたしが秀章を説得したのよ。あなたの異母弟はあたしたち二人の子として育てましょう――って」
「そうだったのか……」
敬愛する義理の母が赤の他人でなく血縁だったというのは、どこかくすぐったいようでいて、やはり嬉しかった。
「おかしなもので、秀造さんが島に深く関わって、何も知らないあんたが大きくなっていくほど、あたしは家が恋しくなって。でも、そう簡単に行き来はできないから、トヨちゃんをダシにしてね。帰省に付き添ったの。とんぼ返りだったけど。季節ごとに、終業式が終わったあの子を迎えにいって、二人で……」
帰島する響彦に同伴していたのは、秀造ではなかった。例えば冬、寒雲の下、いつまでもデッキに佇む少年を、温かい飲み物を勧めながら優しく船室へ呼び戻したのは、彼女、美砂だったのだ。
「そのせいで、あんたには寂しい思いをさせちゃったわね。クリスマスにはどうしても家にいられなくて。しかも、決まって大事な仕事だなんて嘘をついて、さ。秀章には、いつも苦い顔をされてたわ。ひどい母親だ。ごめんね」
「いや……そんな、謝んないでよ。俺、ずっと面倒見てもらって、ありがたいと思ってるし」
秀真は乱れた髪に手を突っ込んで頭を掻いた。
「……長年の鬱憤が溜まって、とうとう愛想尽かされちゃったかな。あの人、どっか行っちゃった」
「ええっ?」
合間に聞こえたのは、カランとグラスの中で氷が傾く音だった。美砂は昼から飲んでいるのだ。
「会社一筋だったのに、理不尽に切り捨てられたでしょう。
「うん……」
彼女は軽く鼻を啜って、
「あたしの顔見てるのも辛いらしくて。書き置き一枚残して消えた。反発してたけど、血は争えないね。秀造さんと一緒で、そぞろ神に憑かれでもしたんでしょう」
「冗談言ってる場合じゃないよ。心当たりは?」
「ううん。捜索願は出したけど、本当はそっとしといてあげた方がいいと思う」
「そんな暢気な。それに、そっちこそ平気なのかよ」
しばしの沈黙。だが、彼女は殊更に明るい声を絞り出して、
「――あたしはね。一人でも生きていけるし。あんた、そっちにいなさいよ。帰ってこなくていいから。もしかして、あの人がひょっこりやって来たら、そのときはよろしく言っといて。じゃあね」
「あっ、おい」
通話は切れた。途方に暮れる秀真の耳に、搭乗案内のアナウンスが流れ込んできた。ともかく帰らなければ。足早にフロアを突っ切ると、あのスタンドに、二週間前と同じ品のいい売り子の少年が立っていた。秀真は彼の澄んだ瞳に引き寄せられた。
「いらっしゃいませ。もうお帰りですか?」
「は……?」
少年は目を細め、注文も聞かずにアイスクリームをディッシャーで掘り返した。猫の前脚を思わせる手つきだった。
「貝塚さんにはお世話になってますので。お話は、多少」
こいつも
「もし、トヨさんが追っかけてきても、知らないって言ってくれないか。俺とは会ってない、見てないって」
だが、相手は唇にうっすらと笑みを湛えて、
「こちらには何の利益もなさそうですね」
「頼むよ。黙ってて」
彼はこんもりとアイスクリームを盛りつけたワッフルコーンを差し出して、
「どうぞ。サービスです。慰労の意味で」
文句を言おうとしたが、後ろに客がつかえていた。
「お気をつけて」
蕃次郎少年は美しい職務的アルカイックスマイルで秀真を突き放した。列の外に弾き出された秀真は、トボトボと売り場を後にした。アイスクリームは今日も柔らかく溶け始めて、コーンを握った手にタラタラと雫を滴らせた。
タクシーの中でウトウトしていた秀真は、意識を取り戻して間違いに気づいた。空港を出たら飲んだくれた美砂のいる実家へ急行するはずだったのに、独り暮らしのワンルームマンションへ向かってしまっている。
空の移動に苦痛を感じたのは初めてだった。追っ手が迫ってきそうな、さもなくば既に誰かが機内で自分を監視していそうな気がして、息が詰まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます