金波銀波(きんぱぎんぱ)⑨‐ⅱ

 苫の隙間から射し込む陽光がジリジリと首筋を焼いた。秀真は秀造の形見の十徳ナイフを広げ、小さな鋏で遺髪を切り取った。年月を経て黄ばんだ懐紙に包んで畳み、ポケットに捻じ込むと、気力を振り絞って仕上げにかかった。

 刀自らに教わったとおり、赤銅しゃくどうで出来た珠玉型の香炉には既に灰が詰めてあった。小さな四角い炭団たどんにマッチで点火し、火箸で掴んで火がおこるのを待った。それから灰の中に浅くうずめ、熱を発し出す頃合いを見計らって、その上に青海波せいがいはの形をした印香いんこうを載せて蓋を閉じた。ゆらゆらと煙が立ち上り始めたが、どんな香りがしているのか、鼻が詰まって見当もつかなかった。

 名残惜しかったが、風のざわめきに混じって車の音が聞こえたので、急いで立ち上がった。白い正方形の薄絹を死に顔に広げてやり、再び金盥かなだらいを抱えて苫屋を出た。石の囲みの中に水を流している間に、車が停まった。振り返ると、柵の手前には見覚えのあるステーションワゴンが停車していた。助手席のドアが勢いよく開いた。飛び出してきたのは美波だった。キャミソール型のワンピースは、あの人魚の鱗にも似たターコイズで、秀真は一瞬、ドキッとした。彼女は駆け寄りながら片手を振って、早く来いと合図する。

「……どうしたの?」

「いいから、乗って」

 美波は秀真を後部座席に押し込んで、隣に座った。表情が暗い。勇吉さんが車をターンさせると、グッと手を突き出した。秀真が初日の晩からベッドの引出しに入れておいた財布とキーホルダーだった。

「悪いけど、鍵も掛けずに出払ってるドサクサに、コッソリ上がらせてもらったの」

「何で……」

「あなたが辛そうなの、これ以上見てられないから」

 彼女は俯いて、衣装と共色ともいろに染めた鱗片のような爪を弄りだした。マニキュアの剥げ具合を気にする素振り。

「お逃げなさい。今でなきゃ、チャンスはないわ」

 秀真はルームミラーを通して勇吉さんを凝視した。野球帽を後ろ向きに被った彼は、

「美波ちゃんの頼みとあっちゃ、断りきれんからね」

「俺、まだ放免されたわけじゃないですよ。気持ちは嬉しいですけど……迷惑かけやしませんか?」

「うーん、難しいとこだけど、頼りになるがいるから、いざとなったら鶴の一声で、みんな黙らしちゃえばいいんじゃないの」

 美波はまだ下を向いている。

「あんたはここまでしっかりやってくれたんだから、文句言うヤツはいないと思うけどね。洗骨の係は、籤引きでもして決めればいいさ。なぁ、美波ちゃん」

「……そうね」

 声が沈んでいた。彼女は自分を帰らせたくない、けれども、自分のために帰らせなければいけないと思っているのだ。秀真は黙って彼女の手を握った。

 祭りの後始末――人魚の洗骨と改葬、すなわち甕に収めて鱗塚に納骨することも、心を込めて真摯に務めるつもりでいた秀真だったが、同時に、張り詰めた神経が限界を迎えそうな恐怖感に苛まれてもいた。美波はそれを察して、勇吉さんに助けを求めてくれたのだろう。

 ステーションワゴンはからへ、緩やかに蛇行しながらスピードを落とさず疾走した。目的地は例の漁港のようだったが、車は予想を裏切って北上を続けた。ヨットハーバーが見えてきた。

「あい、ご苦労さん」

 待ち構えていたのは有力な、慶舟じいさんだった。美波が駆け寄って、

「頼むわね」

「おう。空港のある島まで行けばいいんじゃろ。任しちょけ」

「すいません、お世話になります」

 秀真は前に進み出て頭を下げた。

「ホイ、慶舟自慢のボートで一時ひとときのクルージングをお楽しみください――じゃ。ああ、あんた今日は飛び込んだらいかんよ。それとね、危ないから、これ着て。ザブンと落っこちたら、自動で膨らむからさ」

「はぁ」

「気をつけてな」

 勇吉さんが武骨な手を差し出した。握手に応じると、彼は腕を十字に交差させて反対の掌を突き出した。秀真は用件を思い出し、笑いながらポケットをまさぐって、木柵の鍵と人魚の遺髪の包みを渡した。彼は慶舟じいさんと二言三言交わして愛車に乗り込み、来た道を引き返していった。

 秀真が救命ジャケットを羽織る間、美波は下を向いてモジモジしていたが、慶舟じいさんが出航前の再点検にかかった隙にキスを求めてきた。水のけていくプールの中で人魚と交わした、死の抱擁の感触が蘇った。やはり親族のようなものなのか、顔立ちが似ている気がする。だから、あの人魚に心を奪われたのか、それとも、人魚を好きになってしまったから面影を偲ばせる美波との別れが切ないのか、はっきりしなかった。

 慶舟じいさんは見て見ぬフリをしてくれていた。

「そうだ。これ……」

 秀真はポケットから十徳ナイフを出して、美波に渡した。

「持ってて。飛行機、手ぶらなのに、これだけ預かり品にするのも時間の無駄だし」

 美波は小さく頷いて掌に握り締めた。

「ボチボチ行こうかね」

「はい。お願いします」

 秀真は慶舟じいさん自慢の白いクルージングボート〈号〉に着席した。座ったまま身体を捩ると、手を振る美波が大きな目に涙をいっぱい溜めているように見えた。

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