金波銀波(きんぱぎんぱ)⑨‐ⅰ


 〈9〉


 翌朝、冷え切った倉庫に男どもが集まった。プールの蓋を外し、マスクを着けた二人が脚立を上って中に入ると、担架が差し入れられた。残っていた炭酸ガスがムラムラと溢れ出す。屠られた人魚の遺霊が悶々とうねるかのようだった。歪んだ青い直方体は担架に載せて担ぎ上げられ、床に下ろされた。ビニールシートにびっしり水滴が宿っていた。

 一同は担架ごと人魚の亡骸を輿に載せ、白い絹布で覆って倉庫を出ると、島の東海岸を行進した。南端である、別名「風葬の丘」まで、葬列は長い道のりをゆっくりと踏み締めていった。路傍に並んだ島人が鉦鼓を叩き、数珠を摺り合わせて、低い声で鎮魂の文句を唱えた。響彦と共に列の最後尾についた秀真は、老女たちの手でブーゲンビレアの紅いほうが撒き散らされる道を、俯いて進んでいった。

 進入を阻む白茶けた木柵の向こうに、粗末な苫葺きの屋根があった。首を伸ばすと、先頭に立っていた勇吉さんが鍵を出して錠前をこじ開けるのが見えた。柵が開かれ、一行は聖域に足を踏み入れた。天色あまいろの海を望む断崖を、潮気を含んだ熱風が嬲る。勇吉さんが振り返って目顔で合図した。秀真は小さく頷いて前に出た。切妻造りの苫屋は緑青ろくしょうの葉を茂らせる芳しい樹木に囲まれていた。野鳥のコロラトゥーラに、束の間、我を忘れた。

 男たちは輿こしを地面に下ろし、出入り口の簾を持ち上げた。布を掛けたままの担架に続いて、手拭いを添えた金盥と、柄杓を差したいくつかの手桶が運び込まれた。中には湯気の立っているものがあった。彼らは身を屈めて出て来ると、小屋に向き直って一礼した。

「では、よろしく頼みます」

「はい……」

 響彦が同行者を代表して挨拶した。秀真も頭を下げた。

「しっかりな」

 勇吉さんは秀真の肩をポンと叩いて微笑み、柵の鍵を握らせた。彼らはひたいの汗を拭いながら、輿を担いで丘を下っていった。秀真は一頻り流れる雲を見上げてから、下草をにじって禁域に足を踏み入れた。

 簾を潜って中に入る。建材の繊維には強烈な腐臭が染みついているだろうと覚悟していたが、さほどでもなかった。風通しがいいせいか、辺りを取り囲む香木が臭気を和らげているためか。ひょっとすると、この苫屋自体、芳香を発する植物で出来ているのかもしれない。ただ、海に向かって突き出した断崖なので、乾いて濃縮された塩の、甘くてからい匂いが立ち込めていた。

 桶から冷たい湧き水を汲んでたらいを七分目まで満たし、後から湯を加えて、そっと手で掻き混ぜた。逆さ水に描かれた波紋が消える頃には心も静まっていた。筵に横たわった包みをほどく。冷却していたせいか、遺骸はきれいなままだった。写生するなら、肌の色はゴーストホワイトが相応しい。が、髪はぱさつき、はちきれんばかりに弾力を保っていた若々しい皮膚も張りと艶を失って、カサカサして見えた。目は落ち窪み、頬はこけ、鼻梁だけが鋭く際立っている。口には白く粉が吹いていた。

 手拭いを少し盥に浸け、乾いた唇を撫でて湿してやった。それから、改めてたっぷりとぬるま湯に浸し、軽く絞って下から上へ清拭にかかった。尾鰭に続き、身を切り外して剥き出しになった骨を清めていると、貝塚家の軒に下がった悪鬼貝あっきがいの形を思い出した。こびりついた僅かな血と肉を丁寧に拭っては盥の水で濯ぐ。あばらをもぎ取られ、肝臓を奪われた暗い空洞を目にするのが一番辛かったが、秀真は手を休めなかった。萎び始めた乳房、腋窩、腕、指先、首筋――黙々と作業を続けていった。だが、いよいよ顔になると動きが鈍った。

 頭部は他のどこよりも冷たく、頬を挟んだ両手に刺すような感覚が伝わってきた。秀真は物言わぬ彼女のメッセージを聞き分けるため、閉じた瞼を見つめて意識を集中させた。だが、切り刻まれて恨んでいるのか、あるいは、人魚の世界のしがらみから解き放たれ、となって昇天する喜びを噛み締めているのか、判断することは出来なかった。

 小憩し、金盥を持ち上げて外に出た。結界である木柵とは逆の、海風をまともに食らう切り岸側に、石を組み上げた薄墨色の四角い囲みがあった。深く穴を掘って造られた、逆さ水専用の排水口だった。管はどこかから崖の表に突き出して、流し込まれた水を海へ吐き出しているという。

 盥をからにして苫屋へ戻った。手桶の中はもう、どれが湯でどれが冷水だったか区別もつかなかったが、曖昧な記憶を頼りに順序を守って再び逆さ水を作り、手拭いを浸して髪を拭いた。時代物の道具箱を引き寄せ、蓋を開けると、教えられたとおり、ところどころ歯の欠けた利休形の蒔絵の櫛が現れた。湿った長い髪を繰り返し静かに梳いてやった。ふと、人形遊びに耽る幼女の心情を理解したように思った。

 青いビニールシートを取りのけ、顔だけ覗かせて、輿を覆っていた絹の白布で亡骸を包んだ。悪い癖で、巨大なを連想してしまい、他に誰もいないのを幸い、プッと噴き出した。が、笑いの発作が鎮まると、急に激しい胸の痛みを覚えた。氷のような亡者の身体を強く抱き締めたい衝動に駆られた。肌を合わせ、自分の体温を極限まで奪わせて、黄泉路よみじへ随伴してもいいとさえ思った。

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