金波銀波(きんぱぎんぱ)⑧‐ⅳ

「今の一口で、ちょっと寿命が延びたかな。三日ぐらいとか」

「さあ、どうだろうなぁ」

 魚塚氏も笑いながら、きもえを摘んだ。が、

「トヨちゃんの親父さん――朋彦ともひこさんは、とうとう一度も、ほんのひとかけも食べず仕舞いだったなぁ。あの人は、さっきのあんたどころじゃない、血抜きの後は伸びちまってね。毎度毎度」

「宴会でも、全然?」

「ああ、不参加だったもの。貝塚家で布団かぶって。美潮さんのためにと必死になって、精も根も尽き果てて、祭が終わると故郷へ帰ってしまってた。あんな……離れ離れになったまま死に別れるなんて、気の毒だったよ、あの人も、彼女も」

 魚塚氏は残りのを揚げ物にしようと提案した。衣に変化をつけて、何種類か手分けして作ろうと決め、それぞれ作業に就きながら、

「親父さんの影響かな。トヨちゃんも、食べないんだ」

「えっ?」

 秀真は素材にスライスアーモンドをまぶす手を止めた。魚塚氏は寂しげな微笑を浮かべて、

「朋彦さんと美潮さんが話し合ったらしくてね。トヨちゃんが、少なくとも中学生くらいになって、本人の意志で決断するまで、無理強いしないって」

「……食べない方に、決めたんですね。あの人は」

「うん。縁起物だけど、誰も咎めなかった。朋彦さんに難題を押しつけてたって負い目もあったしね」

 秀真は魚塚氏の呟きに触発されて、十五歳頃の響彦を思い浮かべた。まだほっそりした詰め襟姿で、伏し目がちに端座する少年の、キリリと結んだ薄い唇を。島民とは心理的に一線を画しながら、一同のために奔走する彼の胸中を推し量ろうとしたが、複雑に入り組んだ霧の迷路を辿るようで、足が竦んだ。

「さあ、そろそろ終盤だ」

 ガスコンロに砲金ほうきんの揚げ鍋を並べて点火する。秀真は自分を目の前の課題に引き戻した。数種の衣を纏った人魚の切り身が、次々と小気味よい音を立てて高温の油に飛び込んでいく。魚塚氏は秀真に見張りを任せ、紅葉おろしと抹茶塩を作り、パセリやレモンの串切りを用意していった。


「お疲れさま。座って」

 秀真は響彦、魚塚氏と共に、さんご食堂のカウンター席に着いた。シーリングファンがいつものように気だるい回転を続けている。キッチンでは一足先に宴席を抜け出した魚塚夫人と美波が、三人のために食事の支度をして待っていた。

「温かいうちにね」

 ホタテの干し貝柱の出汁で煮て、刻んだ塩卵を散らした中華粥。重くなった手足をほぐし、張り詰めた神経をそっと撫でさすってくれるような、優しい味だった。耳の奥で渦巻いていたざわめきが、下げ潮のように引いていった。

 隣の響彦も空腹だったらしく、いかにも美味そうに、油條ヨウティヤオをちぎって口に放り込んでいる。白いTシャツにブルージーンズ。脇には祭儀の道化役、ものの仮面が放ってあった。魚を正面から見た形をデフォルメした青い張り子の面だ。頭頂部に背鰭、頬には胸鰭がついており、それぞれ髪と耳に見えて、滑稽だった。痴れ者の務めは人魚ならぬ半魚人のていで、人々を弄したり笑わせたりすることだった。

 公民館では貝塚家の老姉妹を筆頭に、襖を取り払ってぶち抜いた畳の間に島民が着座した。共食きょうしょくによって連帯感を高め、一年の間に積もった罪を水に流すのだ。人魚はそのための触媒だった。勇吉さんらの手を借りて膳を運ぶと、一同は酒を酌み交わし、祝い箸を握って舌鼓を打ちながら、目を細くして口々に賛嘆の言葉を投げかけてきた。これだけ大勢の人に料理を供したのも、それに対して次から次へと賞賛を浴びせられたのも初めてだった。刀自らと美潮は喜びのあまり涙ぐんでいた。浜乃おばさん一家や蝦塚夫妻や慶舟じいさんたちも惜しみなく讃辞を送ってくれた。秀真自身はろくに食べないまま給仕を務めていたが、苦労が報われた、一仕事やり遂げたという達成感が、腹の底をほっこりと温めていた。人々は酔郷に至って歌い騒ぎ、僅かな延命を図るどころか、交歓の中で今しも少しずつ若返っていくかのようだった。だが、響彦は酒こそ口にしながら、まったく酔っていなかったし、箸すら取り上げていなかった。しかし、魚塚氏が言ったとおり、誰も無理に勧めようとはしなかった。秀真の目に、厨房でイメージした繊細で潔癖な少年の姿が二重写しに映じた。彼は琴女と琴江の間に陣取った蕃次郎を呼び寄せ、取り前をそっくり与えてしまっていた。

「はい、お茶どうぞ。東方美人オリエンタル・ビューティ

 美波が三人の前に景徳鎮の飲杯インベイを並べた。夫人が食器を下げながら、

「ようやく終わったわね。まだ、後片付けが残ってるけど」

「公民館の始末は勇吉たちに任せるさ。こっちは倉庫を、な」

 秀真は茶器から口を離した。魚塚氏の一言に、気が重くなった。響彦が後を引き取って、

「掃除は魚塚さんたちがやって下さるんで、僕らはへ。その後は、申し訳ないけど一人でお願いします。終わる頃、車で迎えに行きますから」

 タバコを引っ張り出すと、美波がマッチと灰皿をそっと勧めた。響彦は顎を上げ、天井に向かって煙を吹いた。胸の内に立ち込めていた靄まで一緒に吐き出したかのようだった。声にならない長い溜め息が、確かに聞こえた。

「やっと人心地がついた。毎回この、女将さんが作ってくれるお粥が楽しみでね」

 褒められた当人は食器を洗いながら、困惑気味の、複雑な顔をしていた。美波がお茶を注ぎ足して離れると、秀真は思い切って視線を合わせ、

「全然、箸も付けませんでしたね。一生懸命だったから、どんなに楽しみにしてるのかと思ったのに」

 響彦は真顔で秀真を見つめ返したが、不意に相好を崩してフフフと笑った。傍らの仮面を指で弾いて、

「グロテスクな。誰が鱗族りんぞくなんて喰いたいもんですか。僕は長命なんて、これっぽっちも関心持ってやしませんからね」

 魚塚夫妻は聞こえないフリをしている。美波は奥へ下がってしまった。しばらく断っていた反動なのか、響彦は無闇に紫煙を吹かして、

「ただ、父が――母を想うあまり、死に物狂いでここの風習を理解しようとしながら、結局島人しまびとに同化し切れず逃げ出した、そのために若死にしたようで。偶然の事故が、子供心にも、まるで島の守り神の怒りに触れた結果みたいに思えて……。だから、同じ轍を踏むまいと皆さんのために出来る限りの努力をしているつもりなんですけどね。かといって、長寿に憧れてるワケじゃない。早死にしないのと箆棒べらぼうに長生きするってのとは、まったく別の話です」

「……なるほどね」

 得心がいった。秀真は深く頷き、僅かに残ったお茶を飲み乾した。響彦は喋り過ぎたとでもいうように、きまりが悪そうに頭を掻いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る