金波銀波(きんぱぎんぱ)⑧‐ⅲ

「大変だと思うけど、もうちょっとだから、頑張って」

 彼女は魚塚氏が持ってきたビニール袋に汚れ物を放り込んで引き取り、扉を軋ませて出ていった。カフェインが空きっ腹に沁みた。

「さて、始めるか」

 秀真はTシャツだけ持参していた新しいものに着替えて、手を洗った。魚塚氏が冷蔵庫から人魚の身を出して、

「これを二つずつに分けて、八種類ね。もっと細かく分けてもいいけど。昆布締こぶじめからいこうか」

「はい」

 四つのを二等分して、一品目。削ぎ切りにして軽く塩を振る。あの美しい海の水を煮詰めて作ったという自然塩だ。粒子が粗く、しっとりしている。指先にほんの少しつけて舐めると、鹹味がほどけた後に微かな甘さが広がった。酢を含ませた布巾で昆布を拭いてバットに敷き詰め、削ぎ切りの身を並べた上に、また昆布を重ねて挟み、冷蔵庫で一時間ほど休ませて旨みを封じ込める。

 魚塚氏はその間に、円を描くような手つきで柳包丁を操って、薄造りを仕上げた。古伊万里の青い唐草模様が透けて見える。

「でも、人数を考えたら、全然足りないでしょう」

「まともに全員の口には入らないけど、構わない。他にアワビやイセエビなんかをたくさん用意してあるから。ほんの少しでいいんだ。ありがたい食べ物をみんなでいただくっていう、格好が成り立つだけで充分なんだよ」

「何故、そんなにこだわるんですか。人魚は敵だから、征服感を味わうため?」

「ずっと昔は、そうだったのかもしれないけど、今は複雑だなぁ。あ、何か洋風のアレンジ、やってくれる?」

「マリネとかカルパッチョとか」

「いいね。両方頼むよ」

 魚塚氏は汁物の準備を始めた。秀真も手を動かしながら、

「どういう気分なんです?」

「うーん、難しいなぁ。敵対して、忌み嫌っているようでいて、憧れに近い感情もあって。見目みめかたちのよさもあるし、常に母なる海のふところいだかれている羨ましさというか。伝承によれば、彼らも元は同じ人間だったっていうからね。嫉妬と同族嫌悪が入り交じってるみたいな感じで……」

「迫害されて海へ逃げた人たちだって、聞きましたけど」

「だから、罪悪感もあるんだね。で、一切合財、何もかも消化するために、食べなきゃいられないってとこなのかな」

「巡り巡って、食べることでドロドロした感情を呑み込んで、腹に収めるってわけですか」

「そんな感じかな」

 魚塚氏は鍋に湯を沸かして、人魚のレバーを茹で始めた。

「こいつはなまじゃ無理なんでね」

共和ともあえですか?」

「そう。他にも何か使いたいな」

「裏漉しして卵と混ぜて、黄身焼きは?」

「ああ、やっちゃって」

 魚塚氏は、人魚の解体と処理でへこたれていた秀真が、調理に入った途端、気合いを取り戻したと見たらしく、嬉しそうに言ったが、実際はから元気げんきに過ぎなかった。無理にでも自分を奮い立たせねば仕事にならないと思ったからだし、全身全霊を傾けなければ犠牲になった彼女に申し訳ないからだった。

「……秀造さんは、喜んでくれてるかな」

「頼りなくて見てられないって思ってますよ、きっと」

「いや、立派なもんだよ。ただ、強引に巻き込んじゃって、よかったのかどうかって――」

「死んだら後を継げとも何とも、書いてなかったですからね、遺言状には。俺なんか最初から当てにしてなかったかもしれない」

「今となっては確かめようもないけど……秀造さん本人だって、まさか、あんな風に突然亡くなるなんて思いもしなかったろうし」

「でも、病気で寝込んだりとかじゃなくて、いきなり事故でっていうのは、あの人らしい最期だったかも」

 魚塚氏は細切りにした生の身に茹でた肝を包丁で叩いて和えた。島で穫れるというスダチに似た果実の汁を搾って醤油や味醂と合わせたタレを掛け、みじん切りにした浅葱あさつきを散らす。

「秀造さんは、我々の疑問に答えを出してくれたんだ。長寿と不死とは、別物だって」

 秀真は老姉妹の部屋での響彦の呟きを思い出した。包丁を握ったまま、俎板に載せた青白い身を凝視して、

「これを食べて寿命を延ばしてきたんですか。島のみんな……琴女さんや琴江さんたちも」

 魚塚氏はスープの味を確かめて頷き、

「蝦塚先生ご夫妻がずっと研究してらっしゃるけど、老化を遅らせる効果があるらしいってとこ止まりでね」

「魚塚さんも……?」

「フフフ。まだまだ、ほんのさぁ」

 五十歳前後の食堂経営者は愉快そうに笑った。もしかすると、本当の年齢は見た目の二割り増しくらいなのかもしれない。蝦塚夫妻も、刀自らも、美潮もまた――。

「不思議なもんで、男にゃあまり関係ないみたいで。病気になりにくい健康な身体でいられるのは確かだけど、概ね普通に老けていってると思うんだ。だけど、女は大分違うね。確実に」

「それで、ちょっとずつでもいいから、とにかく食べたいって……。特に女性が、若さと美しさを保つために」

「効き目は時間が経たなきゃ確かめようもないし、個人差もあるだろうけどね。琴女さんたちみたいな長老格は迷信深いから、長生≒不死って思い込んでる様子で。まあ、あのとおり枯れた味わいを醸してるんだから、不老ってわけにいかないのは、とっくに承知だろうけども」

「現在から死に至る最後の瞬間までを、ジリジリ引き延ばせるって考えてるんですかね」

「そうかもしれないね。包丁役にかけられる期待の重さも、納得がいったでしょう」

「ええ」

 秀真は苦笑した。けじめをつけて完全な人間に生まれ変わりたいという美波の本音も、実はその辺りにあるのではないか。

「だけど、秀造さんは不慮の事故で亡くなった。若々しい細胞を維持していても、外からひどいダメージを受ければ、やっぱり事切れるものなんだと、我々に教えてくれたんだ。長生きすることと死なないことは、別だって。考えてみれば当たり前なんだけど、しばらく葬式もなかったし、みんなすっかり忘れてたんだなぁ。まさに目から鱗が落ちたみたいだったね。あの人は凄腕の包丁役ってだけじゃなく、長年鱗族りんぞくを口にしていても、死ぬときは死ぬって身をもって証明したから、とうとう英雄みたいな崇敬の対象になってしまった――」

「……やっと理解できましたよ、皆さんの気持ちが」

「味を見てごらん。もっとよくわかるから」

 言われるまま、秀真はマリネにした身を一切れ、口に放り込んだ。程よい弾力が歯と舌に心地好い。噛み締めると、調味料に負けない上品な甘さと海の香りが立ち上がった。

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