金波銀波(きんぱぎんぱ)⑧‐ⅱ
秀真は顔に飛び散った血糊を指先で掬って、まじまじと見つめた。昼光色の照明の下では貝の分泌液から生まれる古代紫に似て、口に含むと、沖で飲んでしまった甘みのある
不意に彼女の首が力を失って傾き、唾液に濡れた大粒の飴玉のような塊がコロリと転げ落ちた。秀真は船上での慶舟じいさんの話を思い出しながら、束の間の恋の形見を摘み上げ、ハンカチに包んでポケットにしまった。鮫に食われかけた美波も、これを吐き出したのだろう。その瞬間、居合わせた誰もが、玉の緒が切れたと確信したに違いない。それでも美波は息を吹き返し、声を封じていた黒真珠をマスコットに、人間としての新しい生活を始めた。だが、ここにいる彼女は決して蘇生しない。これから自分が捌いてしまうからだ。
ガタガタと音を立てて入り口が開いた。頭にバンダナを巻いた魚塚氏だった。
「――どうかな?」
「今、血を抜いてます」
「そうか。やったのか」
魚塚氏は静かに呟き、扉を閉めて近づいてきた。手提げ袋を持ったまま、人魚の遺骸と秀真の顔を見比べ、
「大変だったろう。ケガは、ない?」
外へ出ようとガラスの壁面に身を寄せた秀真を、片手を上げて制して、
「そのままでいいよ」
魚塚氏は脚立に上がって、袋から出した道具を寄越してくれた。軍手と金属製の笊に、特注らしい、普通の三倍はありそうなウロコ引きと、最後のタオルは顔の汚れを拭えという意味だろう。
「引き取り手がいるから、丁寧に頼むよ」
秀真はこびりついた血を当てずっぽうに擦り、しみの付いたタオルを首に掛けてしゃがむと、ウロコ引きで人魚の鱗を掻き落としていった。ザルに溜まったかけらは、アクアカルセドニーを思わせる上品で柔らかい光を放っていた。一方、衣を剥がれた裸の身の色はブリーチアウトしたデニムの風合いを連想させた。
俯せにして黙々と作業を続け、
「終わりました」
青い玉髄でいっぱいになった笊を魚塚氏に渡した。いよいよ解体だ。
「最初は腰から下を正中線に沿って。それから左右に開いて外して。で、引っ繰り返して、もう一度。これで、でっかいサクが四つね」
言われたとおりに下ろすと、人魚は真鯛にそっくりな、微かにピンクがかった艶のある白い身をしていた。しっとりして弾力があり、切られたがって包丁に吸いついてくるかのようだった。いい料理が出来るという喜ぶべき直感と、後ろめたさが交錯した。
同じく軍手を嵌めた魚塚氏が、一塊ずつ身を受け取ってバットに載せ、冷蔵庫に収めていった。
「内臓はね、肝だけ使うから。肝臓は壊さないようにして」
「わかりました」
次は上半身だ。鎖骨の下から真っ直ぐに皮を切り開く。目を覆いたいのを堪えて肉を掻き分けると、魚塚氏が片刃鋸を渡してくれた。マグロなどの骨を切る、刃渡り四十センチあまりの骨切鋸だ。柄を握り、向かって左の肋骨に刃を当ててゴリゴリと前後に挽き、四本ばかり切り離して手を止めた。ピントが合わない。ローズマダーのブヨブヨした塊がぼやけて見える。自分の挙措と、それによって展開する眼前の光景に、現実味が感じられなかった。幾重にもフィルターを掛けて距離感を損なわせた映像をぼんやり眺めているかのようだった。見当識が希薄になる。ただ、舌の上を苦く粘りのある唾液がネチネチと行ったり来たりしていた。
「休憩する?」
「いえ、平気です」
秀真は指先で口の端を拭い、気を取り直して慎重に包丁を差し込んだ。レバーを取り出すと、軍手が茜色にぐっしょり染まった。両手を伸ばして魚塚氏の持つバットに載せる途中、赤黒い血が滴って
「上出来だよ。一服しよう。美波にコーヒー淹れさせるから」
魚塚氏は初めて弾んだ声を出し、摘出された内臓にラップを掛けて冷蔵庫にしまうと、鱗の詰まった笊を抱えて出ていった。
秀真は惨絶な人魚の死体から目を逸らすことが出来なかった。脳味噌が正座して固まった足のように痺れていた。しゃがんだまま身動きが取れなかった。だが、外で誰かが笑った気がしてハッと立ち上がった。萎えた腕で懸命に水槽を抜け出し、カランにホースを取り付けた。フラフラしながら、また中へ下り、冒瀆してしまった亡骸を水で清め、首のタオルを外して軽く水気を押さえてから青いビニールシートで包み、大量のドライアイスを敷き詰めた。脚立に飛び乗ったところで力尽き、座り込んだ。濛々と立ち込める二酸化炭素が、丸めた背中を冷たく嬲っていた。
「大丈夫かい?」
魚塚氏が戻ってきた。秀真は顔を上げ、よろめきながら脚立を下りた。服の裾からポタポタと水滴が落ちた。
「ちょっと辛抱して手伝って。このままにしといたら、よけい調子悪くなるだろうから」
秀真が床にうずくまっている間に、魚塚氏はホースを外して片付け、もう一台の脚立を運んで水槽の反対側に据えた。更に隅の方からズルズル引きずって来たのは、特別誂えの馬鹿でかい風呂の蓋だった。丸めて長い円筒形に整え、ビニールの紐で縛ってある。
「こっち側を、頼むよ」
返事するのも億劫だったが、秀真は小さく頷いて立ち上がった。ポリプロピレンの丸太を二人で抱え、足並みを揃えて各自の脚立を登る。白煙に顔を
「はい、ご苦労さん」
逃げ場のなくなった炭酸ガスが、ガラスのプールに充満した。純白の羽毛が渦を巻いて乱舞し、憐れな生贄を慰撫しながら降り積もるかのようだった。
「お待たせ」
晴れやかな声が感傷を打ち破った。右手にステンレスポットを持ち、左手の指にデミタスカップの柄を引っ掛けた美波がポニーテールを揺らして入ってきた。作業台の上でコーヒーを注ぎながら、真っ白になった水槽を見て、
「済んだの?」
「まだ、サクを作っただけだ。料理はこれから」
「そう、じゃあ、邪魔しちゃ悪いわね。退散します」
ぼんやり突っ立っている秀真の前に歩み寄って、湯気の立つカップを差し出し、
「濡れ鼠」
美波はエプロンを捲り上げ、額や頬をゴシゴシ拭いてくれたが、
「ちゃんと洗わなきゃダメみたい」
祭のせいなのか、彼女はとても楽しそうだったが、調子を合わせられなかった。黙って黒光りするペンダントトップを見つめるのが精一杯だった。
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