金波銀波(きんぱぎんぱ)⑧‐ⅰ


 〈8〉


 ポンプの唸りと流水音が響く漁港の倉庫は、捕らえた鱗族の保管場所であり、厨房でもあった。外の騒ぎを遮断する巨大なに出入りし始めて三日目。名無しのマーメイドは今日もコンクリートの土台に据えられた天井のない水槽の中で、気だるそうに浮いたり沈んだりしていた。上部には蛇口が取り付けられ、太い管を通して新鮮な海水が送り込まれている。反対に、底には排水口があって、汚れた水を吐き出し続けていた。言わば、掛け流しである。

 大山鳴動して鼠一匹。漁は俊徳丸が一頭の人魚を捕獲しただけでアッサリ終了した。欲張ってはいけないのだと慶舟じいさんは言った。帰港すると、魚塚一家や他の女性たちが篝火かがりびを焚いて待っていた。恐らく棺を運ぶ上輿あげごしだろう、抵抗もせず、おとなしく肘を突いて横向きに寝そべった人魚を載せて、一同は倉庫へ向かった。皆、無言で、真剣な面持ちだった。これも大切な儀式なのだ。人魚が水に潜ると、拍手と歓声が湧き起こった。それから、また外へ出て、慰労会と称する酒盛りが始まり、これを皮切りに島は祭事一色に染め抜かれた。今度は女性主導で、特別な装束を纏って練り歩いたり、歌や踊りの舞台が設けられたりしている。しかし、秀真だけは喧噪から切り離されていた。

「おはよう」

 返事はないが、彼女は秀真がやって来ると、必ず伸び上がって縁に肘を掛け、空中に顔を出す。微笑と共に、待ち兼ねた様子で、犬が尻尾を振るように、金春色こんぱるいろに輝く尾鰭でガラス板を叩くのだった。

「ちょっと待って」

 業務用の大型冷蔵庫を開けて生のウニを取り出し、シンクで殻を割る。フックのついたトレーに塩を敷き、下半分、殻を残したウニを並べて運んで、水槽の縁に固定してやると、彼女は嬉しそうに口の端を上げてまばたきした。

 鱗族りんぞくは捕らえられた直後はほとんど恐慌をきたしてしているので、料理する前に、ここで飼い慣らすのが慣例になっていた。そして、祭礼の締め括りとして宴会が催されるのだが、この人魚姫は最初からふてぶてしいほどの落ち着きぶりを示していた。

 通常、おとなしく俎板に載ってもらうには、包丁役との間に信頼関係が育まれる必要があるので、秀造も配膳係を務めていたよし。島に残る記録によれば、鱗族の餌は人間を除けば主として棘皮動物や貝類、もしくはエビなどの甲殻類で、贅沢な話だが、さんご食堂がストックしていた冷凍品をここぞとばかり大盤振る舞いする。そうして、斬る者と斬られる者、双方の覚悟が決まる瞬間を待つのだったが……。

 長く重い髪を水に浸した虜囚は、器用に立ち泳ぎしながらウニの殻を掌に載せた。棘が触れても痛まないのか、無造作だった。反対の手の人差し指で身を掬って口に運んでは舌鼓を打つ。その仕草は幼児のようだった。

 秀真はトレーを片付けながら、

「何で捕まっちゃったのさ。この後どうなるか、知らないわけじゃないだろ?」

 食後のエクササイズか、彼女は我関せずといった風に、狭い水槽の中で頭と尾を逆さにしては元の姿勢に戻ることを繰り返している。

 美波は本人が逃げたかったからだろうと言った。同族がすべて親しい仲間とは限らない。その環境に嫌気が差して、人間に食べられてしまうとわかっていても抜け出したいと考えたに違いない。鱗族だった頃の記憶は残っていないが、きっと自分もそんな気持ちだったはずだ――。

「……って、美波ちゃんは言うんだけど。人魚の世界にも、いじめとかの問題ってある?」

 彼女が運動を止めた。水の中でガラスに手を突き、鏡でも覗くようにして、秀真を見つめている。秀真も水槽に近づき、両の掌を重ね合わせた。通じているのか、彼女は目をパチクリさせている。

「でなきゃ、恋愛の悩みとか。他にも……」

 気の利いた冗談の一つも口にしたかったが、無理だった。秀真は床に座り込んで頭を抱えた。彼女をほふるに忍びない、だが、逃がせば自分の命も危うくなると容易に想像できた。それとも、どのみち死んでしまうなら、いっそ彼女を乗せて沖へ漕ぎ出した方がマシだろうか……。

 怖かったが、好奇心には勝てなかった。皆のように彼女らを鱗族りんぞくだの人魚サカナだのとは呼べなかったが、何もかも放り出す気になれないのは、命が惜しいばかりでなく、半人前とはいえ秀造の教育を受けた実子としての意地があるからだったし、漁の帰りに自分を小馬鹿にした響彦たちを見返してやりたいがためでもあった。けれども、自らの手で彼女の息の根を止めなければならないのが辛く、恐ろしかった。

 立ち上がって、また水槽に近づいた。状況を理解しているのか、彼女は側線を銀色に光らせ、器用にグルグル後転していた。いつまでも眺めていたかったが、グッと堪えて背を向けた。鱗塚の井戸から現れた彼女を抱き止めて三日、漁で捕らわれた彼女と共に波を越えて三日。都合六日間。だが、出会ってから随分長い時間が経ったような気がしていた。

 シンクの中にプラスティックの桶を置いて水を張り、砥石を浸ける。研磨剤が全体に行き渡るまで、十分は必要だ。プツプツと噴き出す気泡を、じっと見下ろす。絵を描こうとしてインスピレーションが湧くのを待っているときと同じ心境だった。

 作業台に雑巾を広げ、砥石を載せる。ずっと魚塚氏が預かって手入れしてくれていた秀造の出刃包丁を取り出し、深呼吸して右手の人差し指で峰を押さえ、左手の指を刃に添えた。砥石に当てる刃先の角度は四十五度。均等に力をかけて、まっすぐ前後に滑らせる。シュッシュッシュッシュッ……と、七、八回往復させ、刃の部位を替えて同じ動作を反復する。耳を打つ流水音の中から幻聴が立ち昇った。小太鼓や鉦の響き。狂騒は早くしろとどやしつけてくる。目を閉じ、唇を噛み締めて神経を研ぎ澄ますと、雑音は徐々に退き、頭の中が白一色に塗り潰された。

 出刃を掴んだまま床を横切ってポンプの元栓を閉めた。海水の供給が止んで、水槽の水は排出される一方になった。水位がどんどん下がる。だが、人魚は驚いた気色けしきもなく、泡を噴いて減っていく水の中で身をくねらせていた。秀真は脚立を引き寄せて上り詰めると、浅くなったプールに勢いよく飛び込んだ。鳩尾みぞおちまで水浸しになって彼女を抱き竦める。抵抗はなかった。彼女は両腕を回して侵入者の抱擁に応えた。秀真は包丁を握った右の拳にすべすべした背筋の、左の掌にざらつく鱗の感触を覚えた。

 心持ち上向き加減になった彼女の顎の内側に、秀真は左右一対のピンホールを発見した。塩類腺だろう。恍惚とした面貌は、吸血鬼の愛撫を恐れながら待ち焦がれる生娘きむすめのようだった。左手で彼女の頬を包み、右の刃を首筋に添わせる。彼女はゆっくりと瞑目した。秀真は一呼吸置いて唇を重ね合わせ、右手を大きくスライドさせた。生ぬるいシャワーが噴き上がった。水はもう、踝の辺りまで退いていた。恐る恐る瞼を開くと、腕の力が抜けた。彼女は鮮血を迸らせつつ、バシャッと仰向けに倒れ、たっぷりした髪をゆらゆら波打たせた。ほんのり色づいていた肌は青褪め、唇は萎びて、見る見るうちに深い縦皺が刻まれていった。

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